15.断罪裁判 後編
王太子は当然、即座に声を張り上げた。
「何をでたらめなことを! 裁判官、あんな根拠のない放言、やめさせろ!」
「静粛に」
観衆は興奮し、再びざわめきが広がる。裁判官は咳払いし、じっとユリアを見据えた。
「証人。それは何か、根拠あっての告発ですか?」
ユリアは頷き、そっと首元に手をかけた。不自然に彼女の身体に残っていた、鮮やかな緑色のスカーフが取り払われる。
――どよめきが上がった。
彼女の首には、見るも痛々しい、指のような痣がくっきりと浮かんでいるのだ。
ユリアの肌は他に一点の染みもなく白く、そして身にまとう下着も白かった。首元の異色は、直前にスカーフで人目を集めていたこともあり、非常に目立つ。
ユリアはスカーフをたたみ、足下に置いた。その際、一度後ろを向いて、また証言台の方を向く。
――ちょうど全方位に、一瞬だけでも悲惨な首が見えるように、ゆっくりと。
王太子は唖然としていたが、疑惑のまなざしが自らに降り注ぐのを感じ、動揺もあらわに叫ぶ。
「でたらめだ! あんなもの、僕を陥れるために、適当につけたに違いない――」
「静粛に!」
「襲いかかったのは赤毛の悪魔の方だ! あれは奴の手形だ! 騙されるな!」
またもや場内が騒がしくなっていく。
「どういうこと? 王太子殿下って、誰にでも親切で、なんでもできる素晴らしい人じゃなかったの?」
「未来の王様だぞ? それに皆の前で自分からプロポーズしたんだ。そんな相手に、無体を働くようなこと……」
「そうだよな、赤い髪の悪魔が襲ったって話だったんだし」
「――でも」
「なあ」
「だって……」
「聖女様がおっしゃっているのに……?」
風向きが変わり始めていた。
王太子はぎり、と奥歯を噛みしめる。
――実に不愉快だ。微笑めば誰をも思い通りにできた。それは、正しく聖女の血を引く自分の特権だったはず。
だがあの女がいると、皆あの女の方を見る。そしてあの女の声を聞こうとする。
確かに聖女の血を継ぐ者の一人とは言っても、汚らわしい庶子の末裔のくせに――。
そこで彼は、もう一つとっておきの攻撃材料があったことを思い出す。
この場で彼自身が言うのは分が悪いが、ちらっと視線を流せば、ちょうど指示を仰ぎたそうに取り巻きの一人がこちらをびくびく窺っている。
王太子は腹の辺りを指さし、ユリアの方に顎をしゃくって見せた。すると配下は意図を理解し、下劣な笑みを浮かべて咳払いする。
「――聖女? いいや、違う。その女はもはや、純潔を保っていない。赤毛の悪魔に誘惑され、ずっと前に通じておきながら、恐れ多くも殿下に嫁ごうとしたのだ――」
調子よくうたった男は、ひゅっ、と息をのむ。
被告人の席から、赤毛の悪魔がこちらを見つめていた。
今までどんな感情をも表にほとんど見せなかったエイデンは、今の言葉に明確に怒り、そして静かに言葉なき言葉で語っていた。
――よくもそんな、彼女を汚すようなことを。
だが人々が幻想の聖女に求める処女性に疑いを投じた効果はあった。観衆のユリアに対する熱が冷めていく気配を感じる。
「……それはどうでしょうかなぁ」
しかしここで、思わぬ人物が声を上げた。
裁判官の傍らに居座る“助言役”――大協会の枢機卿。
白髭をたっぷり蓄えた老爺は、場の緊張にそぐわぬ朗らかな声で話し始めた。
「被告人。女神と聖女に仕える者として、嘘偽りない答えを望みます。あなたはユリア=トゥイリス伯爵令嬢を暴行しましたか?」
「いいえ。……連れて行こうとする際に、本意ではなく、顔に傷をつけてしまいましたが……それ以上に損なうことは、何も」
「なるほど、大協会に駆け込んできた時の彼女の怪我の具合と一致する。ちなみに被告人、彼女の首には触れましたか?」
「…………」
エイデンは押し黙る。先ほど「聖女の前で嘘をつくな」と言った枢機卿の言葉が影響していた。聖女――すなわちユリアが見守っている前で、やっていないことまでやったとは、言い出しづらいではないか。
「まあ、そうでしょうな。大体わかりましたので、結構、結構。ああ、そうそう。聖女性についての話でしたな。それについては、我々が保証いたしましょう」
枢機卿は、エイデンが困ったように沈黙を保つのを見届けてから、のんびりと話を再開させる。
「ユリア=トゥイリス伯爵令嬢は先日、慣例に則り、高僧と医師と尼僧立ち会いのもと、処女検査を受けられました。紛れもなく、令嬢は乙女にござります。よって、令嬢が以前汚されたことがあるとかいう話は……まあ、どなたかの勘違いでしょうなあ!」
ふぉっふぉっふぉ、と老人は余裕に満ちた笑い声を上げている。
今度どよめきが走ったのは、主に貴族達の間だ。
「処女検査……!?」
「未婚のご令嬢に、そんなことが……」
「いやしかし、検査結果が出ているのであれば……?」
高貴な人の間では、処女性は度々問題となる。
紛れもなく乙女であると証明する方法の一つが、処女検査を経て専門家に保証してもらうこと。
けれどこの処女検査とはむごいもので、高僧と医師、それから尼僧の立ち会いのもと行われる。
同性相手でもはばかられる行為を、僧相手とはいえ異性もいる場で行えと言われると、大事に育てられた貴族令嬢なぞ、まず恥ずかしがって完遂できない。直前までは気丈に振る舞っていても、服を脱ぐ段になって泣き出したような娘も、少なくはないと聞く。
エイデンもあんぐり口を開けていた。何しろ彼は、王太子とユリアの他に、あの晩何が本当に起きたのか真相を知っている。
顔を殴られ、服を破られ、本当に怖くて、さぞ惨めだったろうに――彼女はそれでも、屈辱を乗り越えてやってのけたのだ。
きっと今日、この場で自分と、そしてエイデンの潔白を主張するために。
やはり聖女様は正しい――その空気が戻ってきたところで、今度は裁判官が声を上げた。
「さて、少々話がそれましたが。ここで本日一番の問題を思いだし、今一度検討してみたいと思います。……すなわち、被告人エイデンは、はたして大逆人なのか?」
――そうだ、ユリアが脱いだからすっかりそっちに気が持って行かれていたが、今日の被告人はエイデンだった。
皆ようやくそのことを思い出したようで、なんだかばつが悪そうに黙って続きを聞いている。
「我々は根拠の一つに、彼があの忌まわしき伝説の赤毛一族と同じ身体的特徴を持っていることを挙げたわけですが。聖女様に最も近しき人としてはこの点、どう思われますか、枢機卿」
「あの百年前の、悪女スカーレット事変でしたかな? あれで赤い髪の人間は、そもそも随分と数を減らしましたでなあ。何しろ目立つし、何かすればすぐ通報される。生き残った者達は、社会から常に監視されながら生きていると言っても過言ではないでしょう」
「そうですね。実際、彼はとても目立つ容姿をしているように思います。一目見れば、印象に残る姿だ。そこで私は一つ疑問に思うことがあるのです。これほど目を引く男が――しかも本人によれば、恐れ多くも殿下殺害と婚約者強奪を目論み、あわや遂行の手前まで行った極悪犯なのだそうですが。前科の一つも出てこないというのも、おかしな話ではありませんか?」
協会――聖女信仰が最も強い人間が、「赤い髪というだけでは、悪人の証拠にはならないのでは?」と言っている。その上裁判官は被告人の清すぎる経歴に言及し、更に手元の分厚い紙束をぺしぺしと叩いて続けた。
「ここに、被告人に対する証言というか、陳情というか……まあとにかく、彼を知る者達の声があるのですがね。上は伯爵家当主から、下は台所の下ごしらえ担当まで……皆一様に、エイデンという男がどれほど勤勉で努力家で、遵法意識の高い人物か――というような言葉を連ねているのです。もし本当に、してはいけないことをしたのであれば、誰か困っている者を助けるための、やむを得ない行動であるはずだ――とも」
そこでエイデンははっと、控えの席を振り返った。
ユリアの付き添いで来ていた伯爵夫妻が、そして彼らの随行人達が、各々静かな、けれど確固たる意思を持って見つめ返してくる。
――八年間、ずっと見てきたぞ。お前が最初に言ったとおり、言葉だけではなく、行動で誠意を示し続けたことを。
彼らの目は何も言わずとも、雄弁に語っていた。
「馬鹿な――裁判官、被告人には前科があります! 証拠なら提出したではないか!」
「ああ、それらについては、無論精査いたしましたが。どうもどれもこれも、正式な証拠に採用するには不十分でしたので、無効と判断させていただいております。ああ、参考としては残しておりますので、ご安心を」
王太子派の取り巻きが顔を真っ赤にして叫べば、さらりと裁判官は返した。
――王族の出した証拠品が、精査の上に却下!?
だがしかし、確かにこの裁判は、女神と聖女に誓いを立てている枢機卿立ち会いのもと、公正な裁判である。
王族への忖度なく従来の手続き通りに裁判を進めれば、証拠品は事前に精査されるし、不審や不足が見つかれば却下もされるものだ。
「さらに興味深いことに、被告人は王宮侵入時、一人も殺していません。交戦した相手は全員気絶させています」
「ほほう。一人も、ですか」
「本人曰く自暴自棄の犯行だそうです。普通、行きずりの警備兵なんて、さっさと殺した方が楽だと思うんですが……どうなんでしょうねえ?」
「そういえば王太子殿下もそこでピンピンなさっておりますなあ。なぜ彼は千載一遇の機会にもかかわらず、恋敵にとどめを刺さなかったのでしょう?」
「時間がなかった? 想い人の前だから無体を働けなかった? ふうむ、どうにもちぐはぐです。私の知っている偏執的で悪辣な犯罪者に比べると、随分不器用で優しさが過ぎるように思えますがねえ――」
もはや困ったような顔をしているエイデンを前に、楽しそうですらある風情で、裁判官と枢機卿は会話している。
被告人に向けられる会場の目はもうすっかり、冷酷な人でなしに向ける侮蔑から、罪をかぶってまで聖女を守ろうとした騎士への尊敬へと変わろうとしていた。
――なんだこの裁判は。何もかもめちゃくちゃで、聞くに堪えない!
王太子がいらだたしげに声を荒げた。
「さっきからごちゃごちゃと、適当なことを! 首の跡なんて証拠にならない。身内のかばい立てのみが採用されるのも、どう見ても不公正だ。お前達が行っているのは、ただの印象操作に過ぎない。僕は誰よりも国民の見本たる男だぞ! この身にやましいことなど、何一つ――」
「――やましいことは一切ないと。おっしゃいますのね? 女神と聖女の御前でも」
静かに、けれどばっさりと王太子の言葉を切り捨てたのは、やはりユリアだ。
憎々しげな目を向けられても、彼女は引かない。
「裁判官様。わたくしと殿下の主張は相反しています。であれば、どちらかが嘘をついている、と考えるのが自然ですね」
「時には全員が真実を語っていることも、あるいは嘘を語ることもありますが。この場合……?そもそも事実を争っているわけですよね。であれば、はい――少なくともお二人のどちらか一人は、本当のことを話していないことになるでしょうね」
「では、例えば――殿下の女性に対する誠実さを、わたくし以外にも語ることができる人がいたとしたら、どうでしょう」
新たな人影が、証言台にゆっくり近づく。
観衆が、そして裁判官達の席、更には蒼白となっていた国王夫妻達からも――法廷のすべての場所から、息をのむ気配がした。
現れたのは、ユリアより少し背の高い女性だ。質素な身なりの、あまり目立たなそうな雰囲気である。
彼女自身ではなく、彼女が抱きかかえている子どもの方に問題がある。
三歳ぐらいの男の子は、見事な金色の髪の持ち主だ。そして母親の腕から、不安げに周囲を見回すその目は――見間違いようのない、それはもう特徴的な、エメラルドグリーン色をしていた。