13.炎がごとく
誰かがゆっくりと、王太子の私室に侵入してきた。フード付きの黒いマントは修道士を思い起こさせもしたが、夜闇に紛れて悪事を働くならず者も好む格好だ。体格からすると、男に見える。
彼は数歩進むと、脇に引きずっていたものを投げ出した。身なりからして、近衛兵だ。扉の前に立っていた見張りといったところだろうか。泡を吹き、白目をむいている。
室内をぐるりと見回した男は、寝台の二人に気がつくとすうっと目を細めた。
その静かな目が印象に残るハシバミ色をしていることに気がついたユリアは、はっと息をのむ。
(――エイデン)
ユリアは信じられない思いで、何度も瞬きする。恋しい気持ちが募りすぎて、幻を見ているのではないのか?
だが、彼は確かにそこにいるようだ。王太子が慌てた様子で寝台脇の剣を手に取ったからである。
「誰か! 近衛はどうした! なぜこの男の侵入を許している!?」
「……誰も来ない。全員、寝ているから」
エイデンはフードを脱ぎ、一歩踏み出した。鮮やかな燃える炎のような髪があらわになる。存在感のある男が動くと、ゆらりと辺りの空気が揺れたように見えた。
気圧されそうになった王太子は、腕を伸ばし、ユリアをつかんだ。片腕を細い首に回し、切っ先を顔につきつける。
「それ以上近づくな。この女がどうなってもいいのか!」
エイデンは足を止めた。ハシバミ色の目が静かな怒りに燃えている。
「貴様、赤狗か……薄汚い下賤の輩が、どうやってここまで来た?」
「高貴なお方の存じ上げない、薄汚い穴などを通って参りました」
「なんとも泣ける努力であることだ。そんなにこの女が愛おしいとでも?」
「――狗ですから。ご主人様に忠実なのではないでしょうか」
「そしてそのご主人様のために、噛みつきに来たとでも?」
「自分は、番犬ですから」
エイデンの言葉は淡々としている。王太子はその静かすぎるぐらい落ち着いた様子に、いらだちを強めたようだった。
「手にしているものを捨てろ。跪け」
促されると、エイデンはあっさり手に持っていた棒を投げ捨て、膝をつく。王太子が次の要求をする前に――ユリアが動いた。
彼女は首をしめられながら、何か役に立つものはないか探していた。そして王太子がエイデンに警戒している間に、先ほど服を破り捨てられた時、一緒にちぎられた十字架型のネックレスになんとか手を伸ばして――そのとがった先端を、思い切り王太子の腕に突き立てる。
「ぐあっ――!?」
突きつけられていた切っ先がユリアの顔をかすめ、頬にピッと赤い線を作る。けれど彼女は拘束から逃げ出すことに成功した。その一瞬の隙を、エイデンも見逃さない。
エイデンはあっという間に王太子に近づき、顎を下から掌底で突き上げた。がちん、と殴打の手応えの音が響く。高貴なる人は意識を刈り取られ、音もなく崩れ落ちる。からん、と落とされた剣を、エイデンは素早く拾い上げて構える。
数呼吸分、エイデンは相手が動くか注視した――ピクリともしない。
しっかり気絶させたのを確認してから、ようやく止めていた息を吐き出し、ユリアに駆け寄る。
「怪我は!?」
緊張の解けたユリアは、がくっと膝から力が抜けた。美しい青い目から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。
「エイデン……エイデン、エイデン……!」
「痛むのか。どこが辛い?」
「大丈夫、一度ぶたれただけ……ああでも、どうしよう! どうしよう……」
エイデンはユリアの傷つけられた頬に顔をゆがめたが、速やかに自分の服の裾を引きちぎって優しく布をあてがう。
「ここ、押さえていて」
「うん……」
「絶対に助ける。信じてくれ」
「うん……」
しゃくりあげるユリアが布を持ったのを確認すると、エイデンはすぐに彼女に上着を被せて抱え上げた。そのまま廊下に出ると、窓の一つに歩み寄る。彼は慣れた手つきで、腰の辺りからかぎ爪のついた紐のようなものを取り出した。それを窓の外に引っかけて、何度か引いてちぎれないか確認すると、屋外にユリアを片手で抱えたまま躍り出る。
エイデンを信頼しているユリアは、ちっとも怖くはなかった。邪魔にならないように、じっと身を寄せている。
あっという間に、無事地上までたどり着くと、すぐ近くには馬が隠してあった。
ユリアを乗せたエイデンは、自分もまたがると、走らせながら早口に説明を始める。
「これからきみを、大教会に連れて行く。明日は婚約披露宴の予定だったから、必ず見届け人の枢機卿が来ている。きみはそこで、異端者に拐かされそうになったと保護を求めるんだ。教会管轄に入ってしまえば、王族だってすぐには手出しできない。協力してくれる人が待っているから、面倒を見てくれるはずだ。伯爵夫妻も、じきに来るはず――」
ユリアは黙って耳を傾けていたが、不安になってエイデンを見上げた。
「ねえ、エイデン、待って。それって……」
「おれはこの後、出頭する。筋書きはこうだ。おれは前からきみに横恋慕していた。その企みを見抜いた王太子に追い払われ、二人を逆恨みしていた。今日が最後のチャンスだと思い込んで、きみを奪いに来た。だけどあと一歩というところできみにフラれて、人生に絶望した――」
「駄目よ! どうしてそんなこと――」
「わかるはずだ。きみならわかるはずだ!」
自分を犠牲にして生き抜け。そう言われているのだと正しく理解したユリアはすぐ反論の声を上げたが、珍しく声を荒げた彼に思わず息を止める。
夜の道、月夜の光の下、走る馬の上――青年は淡く微笑んだ。緊迫した状況に反して、ひどく穏やかな顔で。
「――王族に手を出したんだ。誰かが悪者にならないと、収まらない。ちょうどいい。ここにおあつらえ向きの赤毛がいる」
「…………」
「このまま逃げることもできる。すべてを捨てて、誰も知らない場所まで、きみと二人で。でもそうしたら、責任を取らされるのは伯爵家だ。――おれが名乗り出たら、おれを悪者にできる。おれが全部悪いと言えばいい。皆を騙していたと。化けの皮が剥がれたんだと」
「エイデン……」
「きみも、伯爵家も、評判が落ちることまでは避けられない。でもたぶん、これが一番犠牲が少ない。なるべく全部、おれ一人で持っていって見せるから」
「いや、そんなの……」
――先ほど王太子に迫られた時、ユリアは自分一人と自分の関係者の幸福を天秤にかけ、諦めようとした。今度はエイデンが同じことをしようとしている。止めたいが、彼を庇えば確かに皆死ぬしかない。
すすり泣くユリアを、エイデンはぎゅっと抱き寄せた。寄り添ったことは数あれど、彼の厚い胸板に顔をうずめたのはこれがはじめてだったかもしれない。
「ごめん。もっと早く、あいつの危険性に気がついていれば良かった。悪く感じるのも、言うのも……全部、持たざるおれの、ひがみから来ている気がして。あいつから感じる嫌な感じは、きっとおれ自身の嫉妬心から来ているんだと思い込んで……だから出遅れて、もう、こんなことしかできないけど」
「……せめて一緒に行きたい。わたくしだって同じ罪の持ち主だわ」
「駄目だ。きみは生きるんだ。……おれも昔、生き方を忘れるほど悲しいことがあった。でも、生き延びられたから、きみに会えた。一生愛を捧げたいと思える人に」
「でも、エイデンはエイデンしかいないわ。無理よ、失うなんて……」
「大丈夫……きみは世界で一番、素敵な女性だ。そしてこの先長生きする。絶対いい人と巡り会う日が来るよ……」
駆けて駆けて、夜を抜けて、やがて馬の足が止まる。
「あそこ。尖った屋根の建物が見えるだろう? このまま進んで、教会に入れる」
「待って。行かないで。お願い……」
自分だけ下りようとするのを、ユリアの華奢な手が引き留める。
エイデンは涙でぐしゃぐしゃになった彼女の頬を、愛おしく撫でた。
じっと見つめ合った男女の影が、一度だけ重なる。
ユリアの唇は今、心に決めたただ一人の男に捧げられた。
「前にも言った。遠く離れても側にいる。この身朽ち果て、命の炎が尽きるとも――きみがおれを覚えてくれている限り、おれの炎はきみの中にずっと灯っている」
その言葉を最後に、彼は素早く馬を下り、夜の闇の中に走り去ってしまう。
「エイデン――!」
ユリアの伸ばした手は、むなしくただ空をかいた。