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12.卑劣漢

 ***


 婚約披露宴の前日――いよいよ正式な王太子妃が決まり、国民に発表される直前、ユリアは王太子に呼び出された。


 片時も離したくないのか、と熱愛ぶりに周囲が湧く一方で、伯爵令嬢の顔はどこか浮かない。

 それはともすると、幼なじみの従者が、既に屋敷を出て行ってしまったからかもしれなかった。


 ――王宮の、王太子の私室。

 案内された場所に戸惑いを見せた彼女だが、立ち止まってもどうにかなるわけでもない。硬い顔のまま入室し、礼をする。


「……殿下」

「やあ、ユリア」


 王太子は寛いだ様子で彼女を迎える。ユリアは挨拶が済むと、ゆっくり頭を下げた。


「先日の非礼について、お詫びに参りました」

「ああ……気にしていないよ。今日はただ、記念日前の最後のきみを堪能したかっただけ」


 ささやかな祝いでもしようと言うのだろうか。王太子は二人分のグラスにワインを注いでいる。


「この前は僕が急ぎすぎてしまった。明日になれば、僕たちは晴れて正式に婚約者だ。そうしたら――」

「いいえ。いいえ、殿下……今日はそのことも、お伝えしなければなりません」


 機嫌のよさそうだった王太子の手がピタリと止まる。伯爵令嬢は澄んだ青い瞳に凜とした意思を宿し、じっと婚約者となる男を見つめる。


「明日よりわたくしは、この身を国と殿下と民に捧げます。王太子妃として世継ぎを産み育て、誠心誠意、国民の誰もが幸せになれるように尽くします。……けれど」


 そこでユリアはそっと青い目を伏せた。華奢な指が自然と、麗しい桃色の唇をなぞる。


「お許しくださいませ。ずっと……忘れられない人がいます。どんなにわたくしが変わろうと、どんなに遠くに離れようと、気持ちは同じままでした。誤解なさらないでいただきたいのですが、わたくしは臣として、あなたを敬愛しています。けれどまだ、わたくし自身は……正直に申し上げれば、あなたをどう想えばいいのか、迷っております」


 これはともすれば、不実の告白だ。嫁ぐ男以外に、心を残している者が存在する。それを告げられて、快く感じる夫など存在しないだろう。黙ったままでいてほしかった、と思われるのも仕方ない。


 だが、これから一生を共にする夫婦であればこそ、ユリアは言っておかねばならないと思った。


 ユリアは相手を尊重したかった。だからこそ、自分の大切にしているものを、何者にも犯されたくないものを告げた。


 気持ちは偽れない――できないものは、できない。


「他の全てはあなたのものでも、唇だけは差し上げられません。少なくとも、今はまだ――」


 ゴトン、とグラスの置かれる音がした。いや、違う――置かれたのではなく、倒れたのだ。


「聖女様は実のところ、娼婦であらせられたというわけだ」


 ユリアはきょとんとした。

 今、王族が口にしないような単語が耳に入ってきた気がする。聞き間違いかと思ったが、冷酷なエメラルドグリーンの目に射貫かれると、そうでないとすぐにわかる。


 王太子は怯えた様子の婚約者に口角をつり上げ、威圧的に歩み寄る。ユリアはじりじり後ずさるが、すぐに細い手首をつかまえられ、乱暴に引っ張られる。


「殿下、なにを……!?」


 訳もわからないまま引きずられた彼女は、唐突に突き飛ばされる。

 ――寝台だ。天蓋のある、それはもう見事な寝床。

 すぐに王太子はユリアに覆い被さり、酷薄に笑って見下ろした。


「それで? 想い人やらとは、どう楽しんだんだ? ん? 相手はどうせ、あの赤狗だろう。よくもあんなものと僕を比べてくれたものだ」


 混乱している所に暴言を吐かれ、ユリアの頭はうまくこの状況も、言葉も理解することができない。

 いやらしい手つきで腰の辺りをなぞられてようやく、自分が不貞を疑われていることを知った。

 しかも、とても紳士的とは言えないやり方で確認されようとしているのだということも。


「――ち、違います! わたくし、そんな――」


 高貴なるお方は、弁解しようとする令嬢の顎をつかんでくくっと笑う。


「もし本当に純潔でも、夫婦になる間柄なんだ。責任は取ってやる――構うまい?」


 ユリアは戦慄した。ぞっと全身から血の気が引く。


 相手は仮にも王太子。女性遍歴の噂はあれど、貴族社会では評判もよく、誰にでも親切で優しく見えた。


 今まで、急に抱き寄せられたり、キスを迫られたり、強引に感じることがあったのは確かだ。

 だがそれは、ユリアが煮え切らない態度でいるから、相手を不安にさせてしまっているせいだと考えていた。


 だからこそ今日、ユリアなりではあるが、夫婦になる覚悟はしていると告げたのだ。

 夫を拒むつもりはないが、それでもまだこちらにも触れられたくない場所はある――そう伝えれば、彼は紳士なのだ、きっと理解は示してくれる――そう考えていた。


 ――公的な場所でなく、私室に呼び出されるなんて、違和感はあった。迎えに来た王太子の配下で周りを固められ、伯爵家の付き人が許されなかったことも、なんだか奇妙だと感じてはいた。


 この状況になっているということは……もしや彼は、最初からどうあっても今夜ユリアを抱くつもりだったのか。想いが確かめられれば合意に、拒絶されればこうして無理矢理に。


「い、いや……離して! いやぁっ!」

「うるさい、黙れ!」


 暴れ出したユリアの頬を、陵辱者が殴りつける。

 ぐわんと頭が揺れ、ユリアはうめいた。

 大人しくなった令嬢の胸元をつかみ上げ、男は睦言を囁くような甘い声で語る。


「僕に目をかけられておいて、こんなに手間をかけさせて。それで心は捧げられない? ふざけるのも大概にしろ。お前はもう、僕の所有物(もの)なんだ。勝手をして不愉快にさせるな」

「そんな――」

「ああ、明日誰かに泣きついても無駄だぞ? 僕に無体を働かれたなんて、誰が信じる? むしろ姦通罪できみが断罪されるかもな。証拠は僕が望めば、いくらでも出てくる」

「……このような恥知らずなお方とは、存じませんでした!」

「何とでも言え。僕にこんなことをさせるような、素直にならないお前が悪い」


 ビリビリッと音を立てて服が破かれた。ただでさえ小柄で華奢なユリアは、男に押さえ込まれると何もできない。


 細く白い首に、吸い込まれるように手が伸びた。王太子は立場をわからせるように、ユリアの首を片手で圧迫する。

 苦しくて顔をゆがめた時、相手が今までに見たことがないほど満たされた表情を浮かべたのが視界の端に映った。


「――あっ、う。やめっ……」

「さあ、どうする? 選ばせてやろう。恭順か、破滅か」


 ――そうだ。この男の言う通り、ここには心の死か、本物の死しか選択肢がない。


 仮にもし、うまくこの場をやり過ごせたとして、外聞のいい王太子が暴行したなんて誰も信じない。少なくとも息子を溺愛する国王夫妻は、確実に跡継ぎの潔白を主張する。


 そして心の死守を選んだ場合、醜聞によって破滅するのはユリアだけでは済まない。おそらく伯爵家の全員、いやもっと大勢が、ユリアのせいで不幸になるかもしれない。


 何しろ、先ほどさりげなく「赤狗」と王太子は口にした。これはおそらく、エイデンの存在も、その正体も知っていると言うことだ。思えば彼が急にいなくなったのも、自分から身を引いたのではなく、この男の差し金だったのかもしれない。


 彼は無事だろうか。もうこの世にはいないのか。いや、ここまでする王太子のこと、もう彼の身柄を押さえていて、ユリアが反抗すればすぐにでも悪魔として公の場に引きずり出すのではないか。


 ――ここで自分が我慢すれば、被害は最小限で済む。誰も傷つかない。ユリア以外、誰も。


 一方で、抵抗したら何人が拷問を受け、死罪を言い渡されることになるだろう? 路頭に迷うことになるだろう? これほど冷酷な男なのだ、家族も使用人も親しい友人も、きっと皆助からない。命も名誉も財産も、すべて奪い尽くされることになるのだろう。


 愛している。エイデンへの想いは忘れられない。本当は彼とキスをしたかった。彼とできないなら、誰ともしたくないと心が叫んだ。しかしそれは、大勢の人を不幸にしてまで、貫くべきものだろうか?


 ユリアの身体から、くたっと力が抜ける。じわりと視界がにじんだ。この涙は、悔しさか、恥か、それとも、たった一つの想いすら守れぬ無力な自分に対する怒りによるものか。


「……お願いです。なんでも言うことを聞きます。だから……」

「では、誓え。二度と逆らわないと」

「はい……」


 絶望に染まった顔を見下ろし、王太子は心から愉しげに笑った。


「そうだ。今この場で、お前から僕の唇に口付けしてもらおうか――」


 言葉が止まる。

 静寂が訪れた。

 否。振動を感じる。

 何か、不穏な予感。


「……なんだ? 一体――」


 王太子が不審そうに顔を上げたのと、部屋の扉が破られたのは、ほぼ同時だった。


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