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11.黒い噂

 ***


 宣告を受けたその日、伯爵一家が王都滞在用の邸宅に戻ってくるとすぐ、エイデンは主人に暇乞いを願い出る。

 伯爵は驚いたように目を見開いてから、大きくため息を吐いた。


「わかった。……次の仕事場への紹介状を――」

「いいえ。お気持ちだけありがたく頂戴します。ご迷惑がかかるといけませんから」

「……そうか。伯爵領に戻る予定は?」

「ございません。必要なものは持ち歩くようにしています」


 ユリアの父親は何か察した顔になり、ぐっと唇を引き結ぶ。それからエイデンの肩を一度、ぽんと大きな手で優しく叩いた。


「ならばユリアには、お前自身から話しなさい」


 言いつけられた言葉には、エイデンは間を置いてから返事をする。



 大事な話があると寝室のドアを叩けば、夜遅くにもかかわらずユリアはすぐに応じてくれた。

 寝支度は済ませた後だろうに、眠れなかったのだろうか。肩にショールを羽織った彼女は、人の来ない小部屋の一つにエイデンを招く。


「覚えている? 前に倉庫に入ったこと。雨の日だったわ」

「――ええ。覚えています」


 幼なじみの二人の間にささやかな笑いが生まれ、二人はいつかのように並んで腰掛ける。

 今は雨音は聞こえない。寝静まった夜の静けさが、しんと広がっている。


「お別れなのね」


 エイデンが何か切り出す前に、ユリアはそうぽつりと呟いた。顔色を見た瞬間、まるですべてを悟ったようだった。エイデンも小さく、ささやくように答える。


「――はい」

「いつ?」

「婚約披露宴までに、ここを出ます」

「……それは。わたくしが今からでも、王太子妃なんて嫌だって言い出したら、やめられること?」


 エイデンは答えかねて沈黙した。するとユリアは自嘲するような笑いを零す。


「冗談よ。あんなに大勢の前で、皆に聞こえるようなプロポーズだったのですもの。あの方は恥をかかされることがお嫌いだわ。人前では特に」


 ユリアは今でも、大事に愛されて育った箱入り娘らしい、天真爛漫な笑い方をする。

 一方で彼女は、ただ夢想家なだけではない。

 エイデンに「大好き」と言ったことはあっても、「結婚して」と口にしたことはないのだ。


「昔は、わたくしがうまくわたくしの周りで起こるいさかいを仲裁できなかったら、わたくしが責められた。でも、わたくしがこうしているためには、お父さまとお母さま、それに家の皆、大勢の協力が必要で……わたくしは支えてくれる人たちに立たせてもらっている。今、わたくしが失敗するということは、その人たちの努力の結果まで、失敗にしてしまうということ」


 小さな両肩には、見た目では計り知れないほど多くのものが背負われており、彼女はきちんとそれを自覚しているのだ。

 エイデンは、彼女の重荷を取り除くことができない。直接が無理ならその小さな体を寄り添って支えたかったが、それももう許されない。


「……申し訳ありません」

「何を謝るの?」

「嘘をついたこと」

「どんな嘘?」

「きみは自分を守ってほしいと言った。おれははいと言った。……なのに、」

「それを言うなら、きっとわたくしも嘘つきね」

「きみが? でも……」

「気にしないって言ったわ。あなたの髪はだれよりも綺麗だと」

「……本当は、みにくいと思っていた?」

「いいえ。今でもあなたの炎が一番綺麗。でもわたくしは、もうそれを綺麗と言ってはいけないの」


 小柄で華奢な伯爵令嬢はふう、と息を吐き出すと、何か決意したように凜と顔を上げた。


「いいの。わたくしね、どうせどなたかには嫁がないといけないのだから、それならてっぺんを取ってしまうのも悪くないって思うのよ。世継ぎを産んで、王をお助けして、民を愛して……それでね、いつかこの国の誰もが、お互いに思いやれる時代を作るわ。どんな子でも祝福されて、愛される時代を」


 ユリアは手を伸ばし、エイデンの染められた髪を愛おしそうにくしけずった。


 ――赤い髪の子でも?

 ――ええ、そうよ。


 二人の視線が交錯する。ユリアは笑った。


「エイデン……わたくし、」

「うん」

「……きっとずっと、あなたのことを忘れないわ」

「……うん」

「あなたがわたくしを守ってくれたことを。この先もきっと、守り続けてくれることを。どんなときも、覚えている。わたくしの小さな灯火」


 エイデンは頬に触れる小さな手に、そっと自分の手を重ね、囁いた。


「おれも、きみを生涯忘れない」


 連れて逃げて。一緒に行こう。

 そんな言葉を口にするには、二人とも分別がありすぎた。


 ただ、互いを惜しむように額を合わせ、しばらくずっとぬくもりだけに耳を傾けていた。


 ***


 エイデンはこの日、伯爵一家の舞踏会の出席に付き従っていた。もう一週間もすれば、婚約披露宴――一家が出席を予定している社交の場は、今日が最後だ。華やかな世界とは、きっとこれきりになる。


 意識していたわけではなかったが、どこか感傷的な気分になっていたのだろうか。つい、遠くのユリアに思い出を重ねていたら、ぼんやりしていたようだった。


「エイデン、今日も話をしてくれないのかしら?」


 ――聞き覚えのある声に、はっと気がつく。


 話しかけてきた相手の見覚えのある姿に、従者深くため息を吐き出した。


「……奥様。何度目ですか」

「あなたがあたくしと仲良く遊んでくれるようになるまでよ」


 妖艶に微笑む美女は、ユリアの社交界デビューの日に話しかけてきたあの貴婦人だ。エイデンに最初に手紙を送ってきた人物でもある。


 彼女は初日の無礼をとがめることもなく、伯爵家と共に社交の場にやってくるエイデンを見かけると、ふらっと話しかけてくるようになっていた。


 小耳に挟んだところによれば、どうやら有名な未亡人らしい。王族傍系らしい彼女は、どこぞの誰かと同じく、なかなかの交際遍歴を持つ人間として名が通っているらしかった。エイデンが追い払うか逃げ出す気にまでにはならないギリギリのラインで会話を続ける所など、いかにも人付き合いに慣れている。


「では、今日が最後になります。もうおれはこういう所には来ませんから」

「あら、そう。ご主人様に、怪しげな女の出てくる場所になんか行くなとでも言われたの?」

「そういうことではなく……お暇をいただくことになったので」

「いつまでか、あたくしは教えてもらえるかしら?」

「永遠に」


 エイデンは初日から終始このように気のない素振りなのだが、彼女はどうも、若造に適当にあしらわれることすら楽しんでいる節がある。これはむきになっていたどこぞの誰かとは違う部分だ。とはいえ、飽きてくれる様子がなさそうなのは、やはり似ていると言えるかもしれない。


「まあ……残念だこと。期限までにつかまえられなかったのね」


 優雅に笑った貴婦人は、いつものように、独り言なのか聞かせているのかわからないような曖昧な態度で、噂話を始めた。


「ご存じ? 王太子殿下はね、幼い頃から天才だったの。文武両道、才色兼備。国王夫妻の溺愛ぶりも無理からぬもの。一人息子ということももちろんあるでしょうけど、あの方は本当に、なんでもおできになるのだから」

「……それは、はい。まあ」

「――けれど、完璧とは。裏を返せば、彼の理想に傷がつくことを許容できない、ということでもあるのかもね」


 エイデンはまた他愛ない噂話、しかもよりによって王太子の自慢話が続くのかと思っていたが、思わず貴婦人の方に振り返る。

 ご婦人は楽しむ人々の方に目を向けたまま、しかしエイデンにだけ聞こえるように、小さく言葉を続けた。


「昔、王太子殿下には幼なじみがいたそうよ。同じぐらいの年頃の男の子、遊び仲間の一人。その子はね、殿下のように要領がいいわけではなくて、いつも彼の引き立て役みたいだったわ。でもね……弓の腕だけは、上回っていたの。天賦の才というものかしら? どれだけ殿下が練習を重ねようと、かなわなかった」


 今日この会場には、噂話の当事者も来ているはずだ。このまま聞いていていい話だろうか? そう感じる一方で、エイデンは何かに憑かれたように、年齢不詳な美女の話に聞き入っていた。


「ある日、二人はお供達と一緒に、狩りに行ったのよ。立派な鹿を仕留めてくると言って、いつも通り出かけていった。だけど事故が起きて――殿下だけがお戻りになった。誰かが鹿と思って打った矢が、運悪く幼なじみの頭に突き刺さってしまったのね。殿下は深く嘆き悲しんだわ……少なくとも見た目上は、ね」


 エイデンはぱっと口を開いたが、すぐに閉じた。その様子に、


「……大丈夫よ? これはただの噂話」

「ここで話すには不穏すぎます。……どうしておれに、そんな話を?」

「さあ、どうしてかしら。思い出したからかも」


 美女の目はもう、笑ってはいないように見える。その真っ黒な目に、どこか懐かしむような色が走った。


「だってあなた、殿下が嫌いそうな顔をしているもの。ほら、その目つき。そうやってじっと静かに人を見つめていると――」


 ――目を射貫かれたあの子と、本当にそっくり。


 最後の言葉は、パチンと扇子を閉じる音に紛れて、ほとんど聞こえなかった。

 妖艶な未亡人は、エイデンが呆然としている間にくるりときびすを返して去って行く。


 そういえば、彼女が去った後に、ようやく思い出したことがあった。

 未亡人にはかつて息子がいたらしいが、不運(・・)な事故で夭折している。その子は生きていればちょうど、エイデンと同じぐらいの年だったはずだ、と。



 妙な気持ちにさせられたまま、舞踏会は終わった。

 未亡人を見送ってからまもなく、「急に気分が悪くなった」とユリアが帰りたがったのだ。

 本当に、彼女は青い顔になっていた。


「どうかしたの、ユリア。何かあったの?」

「なんでもない! なんでもないのよ……」


 伯爵夫人が気遣うが、ユリアは慌てたように答え、彼女にしては引きつった笑みを作る。

 伯爵令嬢はそわそわとして、何度か顔を、特に口元に指を当てていた。そしてエイデンの方は、絶対に見ようとしない。


 エイデンも不安を覚えていたが、何気なく帰り際に視線を上げ――ぞっと心が冷えるのを感じた。


 ほんの一瞬だけではある。けれど確かに、婚約者を見送りに出てきた王太子が、ユリアをにらみつけていたのだ。


 ――僕の花嫁に汚れた染みはいらない。


 あのときと同じ目。その直後、取り繕うように、元の優しく王子様らしい顔に戻るところまで一緒だ。



 エイデンのハシバミ色の目には、今までにない、何かの決意が強く宿った。

 そして彼は、その日のうちに伯爵家から姿をくらませた。

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