10.婚約と牽制
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ユリアは予想通りの引っ張りだこになった。
特に王太子殿下は、デビューの日に出会って以来、猛アピールを欠かさなかった。
彼は招待状も送ってきたし、贈り物も欠かさない。
ユリアはあちらが接触してくれば返事をしたが、彼女自身から彼に迫ったことはない。彼女はむしろ、王太子と真逆なぐらいの、地味で目立たないような男にそれとなく手紙など出したようだった。
「こういった方が好みなの?」
「目立つ場所を好まない方なら、引っ込んでいても文句は言われないでしょう?」
そんな母子のやりとりも見かけられた。
このつれない様子がどうも、遊び相手に困ったことのない殿下の狩猟心に火をつけたらしい。
実際、「真実の愛。ここまで僕を悩ませるのは、あなたぐらいですよ」なんて書いてきたこともあった。
ユリアが何度固辞しようと、贈り物の頻度も金額も上がっていく。相手は大物、物は高価――捨てることもはばかられて、とりあえず預かるという形で保管している。
逃げられるほど追いかけたくなるのが、男心というものなのだろうか。
伯爵家は貴族の一員ではあるが、家格はけして王家と釣り合えると言えない。
しかしユリアの出会う人を自然と惹きつける性質ゆえか、他の貴族からの反感はさほど強くないようだった。
何より国王夫妻が、愛らしく謙虚な令嬢のことをいたく気に入ったらしい。
伯爵夫妻もユリア自身も辞退しようとしているのだが、社交シーズンが終わっても領地に戻らず、このまま王宮に滞在しろと熱心に薦めてくるほどだ。
――王太子殿下に伯爵令嬢が嫁ぐことは決定しており、あとはいつ彼女が頷くか次第。
本人の気持ちを余所に、そんな噂話すら聞こえてくるようになっていた。
「正直に言っていいのよ、ユリア。王太子殿下のこと、どう思っているの?」
家族の団らん中、伯爵夫人が切り出した。ユリアはうーんと唸る。
「自信のある人。才能に溢れているし、人気者なのもわかるわ。ただ、ちょっと強引な時があるから……そうなると、驚いてしまうの。それに、たくさん贈り物をくださるけれど、今は珍しいから、気になったように感じているだけではないのかしら?」
王太子の華やかな経歴――特に女性がらみ――はユリアも知っており、そのせいもあってか冷静に受け止めているらしい。とは言え、絶対に嫌、とまでは口にしない。
夫人は重ねて尋ねた。
「ユリアは王太子妃になりたいの?」
「どうかしら。わたくしよりふさわしい方が他にいると思うけれど」
彼女は言葉を切り、それから静かに続けた。
「……でももし、王太子妃になれと命じられたら。その時は、覚悟を決めて精一杯務めるわ」
夫人は口を開こうとしたが、娘の表情を見てやめた。
――だって一番を望む人は、望めないのでしょう?
ユリアの寂しげな笑みは、そんな風に言っているようなのだ。
一方のエイデンは、ユリアの社交界デビュー以来、あまり面白くない日々を送っていた。
王太子とユリアのあれこれがとにかく面白くない。それもある。
だがそれ以上に、思いもよらなかった災難に苛まれていた。
「エイデン、またか? 今度は誰だ? ……差出人ぐらい確かめてから捨てればいいのに」
エイデンがうんざりした顔で手紙の束を片付けていると、使用人仲間がからかうように声をかけてきた。
「だからお前、結構モテるんだってば。全然信じねーんだもん。どうだ、これで思い知ったか!」
そう――なぜか伯爵家の従者に、最近あらゆる女性から手紙を送られてくるのだ。
確かにユリアの社交界デビューの日、エイデンはちょっと目立った。大人しく引っ込んでいようと決めていたはずだが、ユリアの安全には代えられない。まあその辺は、反省しつつも後悔はない。
だがそれで、「伯爵家に一風変わった従者がいる」と評判になり、見ず知らずの相手から好意を向けられるなんて……。
逆に、赤髪の味見をしてやろう、という悪意を忍ばせた好奇心ならわかる。だが今の彼には、その特徴がない。どこにでもいるような一介の従者が、なぜこんなことになっているのか……。
と言っているのはエイデン本人のみで、伯爵家一同は上から下まで、「まあ、こいつが出るとこに出ればこうなるよな」という反応なのである。これもまたエイデンには解せない。
「おれはそんなに変な奴なのか?」
「変っていうか……お前、超絶イケメンってのとは違うけど、雰囲気あるんだもん」
「雰囲気? どんな」
「どんなって、そりゃあ……それよりさ、まだお嬢様には許してもらってないわけ?」
今一番考えたくない話題に触れられると、エイデンはますます眉間の皺を増やす。
ユリアはエイデンが知らない女性から好意を向けられたことについて、最初は「ようやくエイデンのよさがわかる人ができたのね!」なんて胸を張っていた。
が、その数が増えてくると、お気に入りの従者に勝手に手を出そうとする女性達について、やっぱり嫌な気持ちの方が勝るようになったらしい。
「エイデンは色っぽくて大人な女性がいいの? わたくしは子どもみたいだものね」
「別におれが受け取りたくて受け取っているわけじゃないですよ。殿下の贈り物をいただいているお嬢様と一緒では?」
――売り言葉に買い言葉、である。お互いピリピリしている所に、更に亀裂が入った。
一応、一晩の後、すぐに頭を冷やしたエイデンは自分の非礼を謝罪した。ユリアも疲れて言いすぎたと返して、それで喧嘩自体は収まったはずだった。
だがそれ以来、ユリアはもう、以前のように気軽にエイデンに話すことがなくなってしまったのだ。
エイデンを見ると何か言いたそうに口を開こうとするのだが、結局言葉にできないようで、逃げるように走って行ってしまう。
エイデンも何かユリアに言うことがあるはずなのだが、話そうとすればまたうっかり変なことを口走りそうで躊躇する。
情けないことだが、堂々とユリアを口説ける男に嫉妬している――その自覚はあった。だがそれをユリアに告げて、どうなるというのか? どうにもならない。ただユリアが嫌な思いをして、エイデンが惨めなだけだ。
(王太子本人だけでなく、国王夫妻まで乗り気で、大きく反対している有力貴族もいない。世論――庶民にだって、ユリアは人気者だ。彼女が王太子妃になることを、誰もが望んでいる……)
離れていく距離を感じる。
けれどエイデンにできることと言えば、せいぜいその時まで、従者を勤め上げることしかないのだ。
***
まもなく、王太子殿下は衆人の前でユリアにプロポーズした。国王夫妻も参加している舞踏会の場で、だ。
彼女が答える前に、国王夫妻が無邪気に喜びの声を上げ、周りの人間が祝福の拍手を送る。
それは見方によっては、見えない檻の扉が閉じられたようでもあった。
ユリアは一瞬、誰かを探すように会場に目をさまよわせたが、すぐにやめた。そしていつもと同じ、けれどどこか寂しさのある笑みを浮かべ、優雅にお辞儀をして――了承した。
――そしてその華やかな茶番の少し後、いつも通りに陰から伯爵家を見守っていたエイデンに、見知らぬ騎士が近づいてくる。
「お前がエイデン、か」
相手の身につけている一角獣の紋章――王太子の証を見て、エイデンの身体は凍り付く。
「殿下が個人的に話をしたいそうだ。来い」
無言で付き従うと、すっかり薄暗い庭園に、夜目にも目立つ金髪の男が立っている。
少し前までは室内の一番光の当たる場所にいたはずだが、器用に抜け出てきたものだ。
使いに出した騎士を手の動きで追い払い、王太子殿下はエイデンをにらみつけた。
エイデンは無言のまま、礼だけ取る。
「こうして話すのは初めてだな」
誰にでも親切と評判のはずの彼は、普段ユリアにかけている甘い声からは想像もできない冷たい声をエイデンにかける。
エイデンは笑ってしまいそうになったが、年季の入った鉄面皮はうまく感情を隠した。
(いっそわかりやすくて逆にいい。親しげな態度で懐柔に来られた方がやりにくくて、もっと嫌な気持ちになっただろうな)
「僕が何を言いたいか、わかるな?」
いかにも上流階級の傲慢さが滲む顔だ。自分が嫌われているからこうなのか、それとも普段の甘い顔は建前、こちらが彼の本性なのか――。
できれば前者であってほしい、とエイデンは思う。もう婚約が決まった後なのだから、特に。
「心当たりはありますが、生憎他人の考えていることを読み取るような能力はございませんので」
エイデンはやや挑戦的に言葉を返す。
王太子は不愉快そうに顔をしかめてから、なんとも嫌な笑みを浮かべた。
「……伯爵領には変わった毛色の従者がいるらしいな? ご令嬢のお気に入りなんだとか」
なるほどよく調べたようだ、とエイデンは思った。この言い方は、染めた髪に隠された真の色を理解してのことだろう。
相手は未来の国王となる男なのだし、さほど驚きはない。
見慣れた侮蔑の目を、エイデンはただ静かに見つめ返した。
「僕の花嫁に汚れた染みはいらない。もし彼女に王家にふさわしくない所があるのだとしたら、僕はそれを摘む義務がある」
「……ではここで、無粋な不届き者を斬り殺しますか」
「まさか。僕がそんな野蛮な人間だとでも? 言ったはずだ。傷はいらない」
「――邪魔者はただ疾く去れ、と」
そこで王太子は静かに笑った。
敵意と侮りをむき出すような醜悪なものではなく、いつも通りの整って社交的な――そして自信に満ちた、持てる強者の笑み。
「存外話のわかる男だな、お前は」
エイデンは悟った。今日が夢の終わりの日だと。
「……今日、すぐにですか」
「そうだな、早い方がいいが――幼なじみ殿に敬意を払おう。正式な婚約披露宴の日ぐらいまでは、僕の忍耐も続くだろうさ」
この猶予は一体誰のためのものだろうか。もちろん、勝者のためのものだ。
王太子殿は、エイデンが何事かをできないことを確信している。だってそのときに傷がつくのは、ユリアなのだから。
エイデンは瞼を閉じ、ぐっと拳を握りしめた。
「寛大な配慮を賜り、感謝申し上げます」
頭を下げる刹那、相手が勝ち誇った顔をした。
「ご主人様に恥をかかせるなよ、赤狗」
高貴なる方はそう言い捨てて、優雅にきらびやかな世界に戻って行く。
暗い庭にはただ、何も持たざる男だけが残された。