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ぼやけた世界

 鏡の前に座って、私はあくびを噛み殺す。眉間に皺がより、下唇を噛んだ。


「申し訳ございません。痛みましたか」

「いいえっ、全く痛くないです!」


 私の髪を結っている侍女さんと、鏡越しに目が合う。あくびを我慢した顔が、痛がっているように見えたらしい。今まで髪を結われて痛かったことがない。むしろ適度な刺激で眠気を誘われる。今だって下がる瞼を必死に上げている。この眠気が夜に来れば良いのに。


「今日は全てまとめるのではなく、半分下ろすように致しましょうか」

「はい、それでお願いします」


 侍女さんは左右の編み込みを残したまま、髪の半分でお団子を作りハーフアップにしていく。


「リゼット様、本日は神殿での治療、王妃殿下に謁見、それから、こちらで昼食ののち、騎士団副団長のポレール侯爵様とユーグ・アンブル様が来られます。地理学の授業はお休みです」

「王妃様の謁見は、私の体調のことでしょうか」

「そのようです。授業内容や時間、春の討伐に対するリゼット様の心労をご心配のようです」


 私のことをたくさんの人が心配してくれている。嬉しい反面、とても不甲斐なく思う。少しだけ、祈りの力を使おうか。でも、もう少しで分かる気がする。自分が何を恐がっているのか。祈りの力で無理やり前を向いていた時には気付かなかった恐さが何なのか。あともう少しで、きっと分かる。





「少し休憩なさいますか」


 私を気遣う声がする。案内役の従者さんが立ち止まり、私をまっすぐに見ている。私は王宮の長く広い廊下にいる。ここは王宮のどこだろうか。あとどれくらいで帰れるだろうか。

 神殿での治療は終わった。確か、おばあちゃんと同じくらいの年齢の男の人が一人いた。それと、お母さんと似た髪の色の女性が付き添っていた女の子。赤ちゃんが二人。若い男の人。みんな喜んで帰って行った姿を覚えている。

 

「リゼット様? どうなさいましたか」

「何も、問題ないです。大丈夫です」

「お休みになる部屋はすぐに用意できます」

「これ以上ご迷惑はかけられません」


 従者さんは王宮で休んで欲しいらしい。でも私は帰りたい。

 王妃様の謁見も終わった。私を見て酷く焦った王妃様は、要件を話すとすぐに帰るよう促した。

 私が思った通り、先生たちは必要以上の授業をしていたようだ。でもそれは私が悪い。どんな内容でも次の授業までに理解し覚えた。期待されても仕方ない。本当は睡眠時間を削って勉強し、祈りの力で体調管理をしていたけど、先生は知らないし分からない。

 王妃様は何度も謝罪の言葉を口にした。体調が悪いのに呼んだこと。授業の内容を把握していなかったこと。無理をさせたこと。私は、全て自分の落ち度だと伝えた。

 春の討伐が終わるまで、全ての授業が中止された。


「……かしこまりました」


 従者さんは了承し、また歩き始めた。私は遅れないように歩く。

 廊下の装飾は星のように光っている。端に置かれた壺の赤色は目がくらむほどに鮮やかだ。壁にかけられた絵画がこちらを見ている。

 遠くでキーンと高い音が鳴った。辺りを見渡しても特に変わったことはない。急に立ち止まった私を、従者さんが不思議そうに見る。


「リゼット様?」

「ごめんなさい。何でもないです」


 従者さんの声も私の声も遠い。高い音が耳の奥で鳴る。頭が重い。目の前がぼやけて、すぐに薄暗くなった。ああ、私は倒れるんだ。

 薄暗い世界に婚約者のアドルフ様がいた。遠くても目がはっきりと見える。私の視界が斜めに傾き、従者さんの声が遠くに聞こえる。アドルフ様は何も見なかったように踵を返して行ってしまった。

 あの目が恐い。……そうか、私はあの目が恐かったのか。

 気付き理解して、私は意識を手放した。

 早く、帰りたい。




 大神殿の私のベッドはとてもふかふかだ。眠くはならないけど、このまま布団にくるまっていたい。


「お呼びしてもよろしいですか」

「……お願いします」


 侍女さんの問いに一拍置いて返事をする。私は体を起こして、簡単に身なりを整えた。

 しばらくすると扉を叩く音がした。ゆっくりと開かれた扉の向こうに、エリアーヌ様が立っている。今にも泣きそうな顔でドレスのスカート部分を掴でいた。

 私が目配せすると、侍女さんたちは出て行った。部屋の中は私とエリアーヌ様だけになる。


「今日はお一人ですか」

「ガスパルは部屋の前で待機しているわ。女性の寝室に入れる訳にはいかないでしょう?」

「そうですね」


 エリアーヌ様は近くにあった椅子を動かして、ベッドの近くに置いた。私に目線を合わせたまま、不機嫌そうに座る。


「私、リゼットが倒れたと聞いて心配したのよ」

「ごめんなさい」

「お医者様は何て?」

「寝不足と心労と仰っていました」

「そうね。そうでしょうね」

「今日はどうしてここへ?」

「よく眠れるプレゼントを持ってきたのよ」

「ありがとうございます」


 エリアーヌ様の周りには何も置いていない。


「今はガスパルが持っているわ」

「そうですか」

「……心配したのよ。プレゼントを渡すだけって気軽な気持ちで来たら、倒れたって、聞いて。私本当に、心配したの」

「ごめんなさい」


 エリアーヌ様の目線を避けるように、私はうつむいた。情けない。不甲斐ない。期待に応えられず、勝手に空回りして心配をかけている。


「嫌いに、なりましたか」

「私がリゼットを嫌いになる訳ないじゃない!ガスパルも、ここの皆も、リゼットのことが大好きよ!」


 嬉しくて嬉しくて、うつむいたまま動けなかった。

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