英雄と聖女
私たちは悲鳴のする方へ走った。逃げる人と向かう人とで、先に行くユーグ様を見失いそうになる。その度にユーグ様は後ろを振り返って、私とおばあちゃんを待った。早く向かいたいだろうに、私たちが足を引っ張っている。
「ユーグ様!先に行ってください!」
私は叫んだ。ユーグ様は笑顔で振り返って、右手で私の手を取る。そして、そのままひょいっと荷物のように肩に担いだ。
びっくりして目をぱちぱちさせると、ユーグ様は左手でおばあちゃんと手を繋いでいた。
「さあ、行こう」
ユーグ様はいつものように軽い口調で言い、走った。誰ともぶつからないで、人混みをすり抜ける。
曲がり角を三回曲がった時、馬のいななきが聞こえた。それと同時に人々の悲鳴が上がる。
「ここで待ってて」
ユーグ様の言葉を理解する前に、世界がくるりと回る。気が付くと私は地面に立っていた。
「私たちも行こう」
後ろからおばあちゃんに言われ、私たちはユーグ様の走った方へ向かった。
すぐに人はまばらになって、通りに大きな空間ができていた。通りの真ん中で、暴れる馬がユーグ様に突進している。
ユーグ様は横へ跳んだ。そのまま地面を蹴って今度は空へ跳ね上がる。空中でひらりと体の向きを変えて、暴れる馬の背中に乗った。長さの違う手綱を握って強く引く。馬は空へ向かっていななき、地面と垂直になってユーグ様を振り落とそうとした。
さっきまでの悲鳴もざわめきも消えて、みんながユーグ様を見ている。
振り落とされることもなく、ユーグ様が手綱を引く度に馬は大人しくなった。静かになった馬の首をポンポンと叩いて、ユーグ様は馬から降りた。
歓声が上がる。
「こりゃあ、すごい」
「うん、本当にすごいね」
私は小さく拍手をする。
その時初めて、馬の向こう側に馬車が倒れていることに気付いた。御者が馬車の下敷きになっている。馬車の中から這い出た人が、頭を押さえて倒れ込んだ。ユーグ様が私に何か叫んでいる。
耳の奥で高い音が響く。目の前がすりガラスを通したようにかすんだ。
ユーグ様がこっちに向かって走って来る。
「リゼット!」
おばあちゃんの声がして、頬に痛みが走った。瞬きをすると、おばあちゃんが私の頬を両手で包み、じっと私を見ていた。
「怪我人がいる。今のリゼットなら助けられるんだろう?」
「う、うん」
「それなら行きなさい」
私は走り出した。
温かいお茶を一口飲む。
「おいしい」
「流行りの茶葉らしいよ。姉が言ってた」
「へえ、薬草に近い香りがしますねえ」
騒ぎの後、私もユーグ様も色んな人に感謝された。その人たちの話では、馬車が大きな石に乗り上げて横転したらしい。驚いた馬が手綱を引きちぎり、暴れたところにユーグ様が現れた。街の人は、神のみ技だとか、奇跡だとか、私たちのことをとにかく褒めた。ちょっと居心地が悪くなって、逃げるようにその場を離れた。駆けつけた衛兵さんに事情は説明している。だから多分大丈夫、なはず。
今はソフィア先生おすすめのお店でお茶を飲んでいる。
「おや。ユーグ様、左手を怪我していますよ」
「あ、本当だ。ちぎれた手綱で切ったかな」
「私が治します」
私はユーグ様の左手に手をかざす。
「え、もう治ってる。ありがとう」
ユーグ様は左手を握ったり開いたりしている。
「前より動かしやすいくらいだ。祈りの力が強くなった?」
「そうですね。一年でかなり成長していると思います」
「僕も負けられないな。鍛錬を頑張るよ」
「今でもユーグ様に敵う人はいないですよ」
「でも目標は深き黒の竜だから」
そうか、戦う相手は竜なんだ。
「いつ討伐へ向かうんですか」
「一年、できれば二年先だ。もっと実力を伸ばしてから挑みたい。ロラ」
「はい」
急に名前を呼ばれて、おばあちゃんは姿勢を正した。
「ロラの村の周辺でも、魔物が増えたと聞いている。まだ時間はかかるが、必ず竜を封印する。もうしばらく耐えて欲しい」
「もったいないお言葉です。定期的に騎士団が討伐に来てくださいますし、領主様から自警団も送られております。村の者も罠を貼って村に近づけないよう、色々と工夫しております。ユーグ様はご自分が良いとお思いになるまで、鍛錬を続けてくださいませ。私たちは二年でも三年でも、お待ちしております」
おばあちゃんが深く頭を下げた。私も慌てて下げる。
「すまない。そんなことを言わせたかった訳でも、頭を下げて欲しかった訳でもないんだ。僕は少し、焦っていたんだと思う。……ありがとう」
「いいえ、英雄はこの国の希望です。その希望は私たちが勝手に押し付けている物です。ですから、ユーグ様は気に病む必要などないのです」
「そうか」
ユーグ様はうつむいて深く息を吐いた。それから肩を震わせる。
「ユーグ様?」
「ふっ、ふふふ」
心配になって名前を呼ぶと、ユーグ様の体がもっと揺れた。笑っている。
「あの、ユーグ様?」
「ごめん。ちょっとおかしくて」
「何がですか」
「いや、だって、リゼットが他人事みたいに頭を下げるから。聖女だって竜を封印する為の、この国の希望なのに、ぷふっ」
おばあちゃんが、呆れた顔で私を見ている。
「リゼット、本当に忘れていたのかい」
「そっ、そんなこと、ないよ。私も!鍛錬!頑張る!!」
「あはははは」
ユーグ様は晴れやかな顔で大笑いした。
この人は本当に、良い加減で力が抜けている。




