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初恋に雪化粧

作者: 村崎羯諦

 遅めにやってきた私の初恋が、高校最後の冬をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。


 指先の感覚がなくなるくらいに冷え切った外とは対照的に、教室の中は暖房が効いていて、空気はまとわりつくように重たい。教室全体が、校舎全体が、いつもよりもちょっとだけ騒がしく、先生も生徒もみんな浮き足立っている。休み時間には、普段は宿題をやってこないような子が友達と一緒に英語の問題を解いていたり、クラスの端っこで男子たちが模試の結果をひそひそ声で教え合ったりしている。教室の窓から差し込む西陽は水で薄められたみたいな淡い色をしていて、左手の形をした長い影が机の上に伸びていた。

 

 誰かが換気の後に閉め忘れたせいか、窓の隙間から風が吹いて、ベージュのカーテンがふわりと膨らむ。私は立ち上がり、そっと窓を閉めた。金属部分に手が触れて、キンとした冷たさが私の指先から伝わってくる。


「そういや、なんで秋島って受験しないんだっけ?」

「何回も言ってるじゃん。卒業したらすぐに東京のカメラスタジオでアシスタントとして働くからだって。アシスタントとして働きながら、フォトアーティストを目指すってさ」


 私が振り返ってそう答えると、椅子にだらしなくもたれかかったタカトが「そっか」とつぶやく。教室の中には私と幼馴染のタカトの二人だけしかいなかった。卒業に必要な高校のカリキュラムはとっくに終わっていて、他のみんなはそれぞれの教室で受験対策に特化した授業を受けている。地元大学への推薦入学が決まったタカトと、学年で唯一大学進学しない私の二人だけが、この誰もいない教室で、担任の先生から渡された補習課題に取り組んでいる。私は窓から他の教室の様子を観察した。二階の生物室で、同じクラスの鈴が一生懸命ノートを取っている姿が見える。こっち見ないかな。試しに視線を送ってみたけれど、鈴はこっちに気がつくことなく、黙々と授業を受け続ける。


「東京に行くのってさ、ひょっとしてこの地元が嫌だとかそういう理由?」

「え?」


 自分の席に戻ってきた私に、タカトが脈絡もなく聞いてくる。幼い頃からずっとこの町で一緒に過ごしていた幼馴染の言葉に、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。真意がわからず私がじっとタカトを見つめると、タカトは深い意味はないからと慌てて否定する。何それと私が笑うと、タカトは真面目に聞いてんだぞとちょっとだけ不機嫌になる。


 別に嫌じゃないよ。友達もいるし、田舎で窮屈だけど、みんな優しいし。ここには俺もいるしな。はいはい。私たちの他愛もない会話に混じって、シャーペンの芯が紙の上を滑る音がする。身体を少しだけ動かすと、それに合わせて椅子が床を引きずる音が教室に響いた。


「田舎から出て行きたいとかそういう理由じゃないよ。ただ偶然、尊敬するフォトアーティストの人がアシスタントを募集してるって話を聞いて、このチャンスを逃したくないって思っただけ。もちろん、お父さんとお母さんには猛反対されたけどさ」

「あー、やっぱそうなんだ」

「カメラなんて大学行きながらでもできるだろとか、商業カメラマンならまだしも、芸術寄りのカメラマンの世界で食っていけるはずがないだろとか、そんな感じ。めちゃくちゃ喧嘩になったけどさ、最後はお姉ちゃんが味方してくれて、何とかお母さんを説得してくれたの」

「美春っちが? へえ、意外。いつも適当なことしか言わないのに」

「いつもは適当だけどさ、昔っからここぞという時は助けてくれるんだよね。東京の部屋選びとかも手伝ってくれるって言ってるし、あと東京に行く前にメイクを教えてあげるって言ってる。今んところ、断ってるけどさ」

「メイク?」

「男子にはわからないかもしれないけどさ、うちらには大事なことなの。それに、お姉ちゃんってデパートの化粧品売り場で働いているでしょ? その道のプロフェッショナルだからさ、私の友達とかにもメイクとか教えてあげたりしてるの」

「ふーん」


 全然興味がないことが伝わってくるけど、それでもきちんと相槌を打ってくれるところが妙にタカトらしくて笑ってしまう。そんな私に気がついて、タカトが眉をひそめる。何笑ってんの? 別に。外の廊下を誰かがコツコツと足音を立てながら通り過ぎていく。足音が遠くなっていって、再び静寂に包まれる。時折、暖房が低く唸って、生暖かい風を教室の中に送り込んでくる。


「そういうの詳しくないんだけどさ、東京じゃないとやっぱ駄目なのか?」


 タカトがポツリと呟いた。独り言のようなその言葉に私は一瞬だけ顔を上げて、タカトの顔を見る。


「……カメラの技術を勉強するのはどこででもできるけどさ、やっぱりコネを作ったりとか仕事をもらったりするのって東京じゃないと難しいの。本気でその道を目指すなら、早めに東京に出てきたほうがいいってさ。それに、地元に未練があるってわけじゃないしね」

「未練があったら思い直すわけ?」

「あったらね」

「じゃあ、例えばさ俺が行くなって言ったら東京には行かないわけ?」

「あはは、タカトが言うの? 笑っちゃうって、そんなの」


 タカトの言葉に私は声を出して笑った。タカトらしい、いつものくだらない冗談だと思って。昔からずっと繰り返してきた、いつもの他愛もない会話の一部だと思って。だけど、タカトはこちらを見ることもせず、手持ち無沙汰気味に右手でペン回しをしていた。口角をあげることもなく、いつものようにおどけることもなく、頬杖をついてじっと課題のプリントを見つめていた。


「行くなよ、東京なんかさ」


 それはまるで、私ではない誰かに向けられた言葉のようだった。私はタカトの横顔をじっと見つめる。十年以上、この町でずっと一緒に過ごしてきた幼馴染の横顔を。気心の知れた、大事な男友達の横顔を。何? そんなに私のことが好きなの? 私は無理矢理笑顔を作って、冗談交じりの口調でそう尋ねる。タカトは何も言わなかった。沈黙がゆっくりと重さを増していく。それに合わせて、私の心臓の音がゆっくりと大きくなっていく。タカトの右手からペンがこぼれ落ちて、机の上に転がった。


「好きだよ。友達とか、幼馴染とか、そういう意味じゃなくて」


 少しだけ先の尖ったタカトの声に合わせて、休み時間を告げるチャイムの音が教室に響き渡った。



*****



「おーい、春菜。生きてるかー?」


 その呼びかけに、中庭のベンチに座っていた私はハッと我に返る。目の前には友達の鈴が弁当を片手に立っていて、私の顔の前でひらひらと手を振っていた。こんな寒い中、外で昼ごはん食べようって誘ってくるなんて珍しいじゃん。鈴は私の隣に腰掛けながらそう笑いかける。私は相槌を打ちながら、隣に座った鈴をじっと観察してみた。口にはうっすらとリップを塗っていて、元から大きい目はアイプチでぱっちりした二重になっている。目元は先生に怒られない程度にアイシャドウがされていて、ファンデーションが塗られた肌は外で見ても明るく、肌理が細かい。鈴っていつからメイクしてるんだっけ? 私の質問に、彼氏ができてからかなと鈴が笑いながら答える。


「メイクのやり方もさ、春菜の家で美春っちに教えてもらったじゃん。一緒にやろって言ったのに、春菜は面倒だって理由で断って、結局私が一人でやったの覚えてない? 美春っち教えるのがめっちゃ上手なのにもったいないな」

「別にお姉ちゃんがそんな仕事してるからってそういうのやらなきゃダメだってことにはならないでしょ。それに……今の所メイクを覚える必要も感じないし」

「まあ、面倒だって言うのは理解できるけどさ。してみたら意外といいもんだよ」

「どこらへんが?」

「可愛く見られるっていうのもあるけどさ、メイクしてるとちょっとだけ自信がつくんだよね。すっぴんだと勇気が出なくても、ばっちりメイクをしてると一歩前に踏み出せたりね」


 そういうことを聞くってことは春菜もそろそろメイクデビュー? と鈴が茶化してくる。私は違う違うと慌てて否定して、違う話題へと話を変える。


「そういえばさ、模試の判定どうだった? 志望大学通りそう?」

「あー、さっき戻ってきたやつね。ううん、ダメダメだった。だからさ、志望大学変えることになりそう」


 鈴があっけらかんとした口調でそう答える。私の呼吸が一瞬だけ止まった。鈴が私から顔を逸らして、目の前の中庭の風景へと視線を向ける。私は鈴の横顔を見つめる。ビューラーで綺麗にカールされたまつ毛が、澄んだ空に向かってツンと伸びていた。


「でも……絶対に合格してやるって言って、あれだけ勉強頑張ってたのに」

「仕方ないよ。親から口すっぱく言われてたように、一、二年の時にもっと真面目に授業受けてればって思うけど、今更どうしようもないし。やっぱ、現実はそんなに甘くなかったなー。今はもうさ、受験終わった後に彼氏と遊びに行くのだけがモチベって感じ」


 鈴が弁当箱を開けながら、冗談混じりに呟いた。鈴の言葉に私の胸が少しだけざわつく。冬の空はどうしようもなく青くて、高くて、私たちの口からでた全ての言葉が、誰にもどこにも届かずに、吸い込まれてそのまま消えていくような気がした。風が吹く。枯葉が足元でくるくると踊る。樹の枝が擦れ合い、音を立てる。


 で、なんかあったの? 鈴がそう切り出してくる。私はうんと、小さく頷いてから、ぽつりぽつりと昨日の出来事を鈴に話した。二人っきりの教室でタケトから言われたこと、タケトの反応、全部。すべてを聞き終わった後、鈴が小さくため息をついた。ベンチにもたれかかり、それから空を見上げる。ため息は白い息となって、青い空へと消えていく。そして、長い沈黙の後で、鈴がぽつりと呟いた。


「……このタイミングで言うのかー」

「そう! 本当にそれなの!!」


 鈴のつぶやきに私は身を乗り出して反応する。


「本当にタケトってそういうところがあるの! 大事なことに限ってずっと何も言わずに黙ってて、そのくせ最後の最後にどうしようもないタイミングで言ってきたりさ。小学校の時もね、夏休みの宿題とかこっちが親切に大丈夫って気にかけたりしてたのに、全然大丈夫って突っぱねて、夏休みが終わるギリギリで写させてって言ってくるしさ。それも、告ってきた時と同じでさ、素直に見せてって言えばいいのに、わざとわかりづらい言葉で遠回しに行ってくるわけ。それにタイミングってものも知らないんだよ! こっちが忙しい時に突然電話かけてきたりさ、本当昔っから変わんない!」

「で、春菜は西尾のことどう思ってんの?」


 鈴がじっと私の目を見つめ、静かな声で聞いてくる。その落ち着いた声に、私は言葉をぐっと飲み込み、思わず鈴から目を背けてしまう。同時に、昨日のタケトの顔が頭に思い浮かんだ。二人っきりの教室で、好きだって言葉を伝えてきた時の、タケトの横顔を。


「最初にそんな感じに言われた時はさ、ありえないって思ったの」


 私は胸にぎゅっと手を当てながら、鈴の質問に答える。


「だって、タケトはずっと昔から当たり前のように一緒にいる幼馴染で、気さくに話せる男友達って感じだったから。異性の関係というより、ずっと一緒にいる兄弟って感じ。だけど、下校してる時も家に帰ってからも、ずっとタケトの言葉がぐるぐるぐる頭の中を回ってさ、食事の時もぼーっとしたり、カメラの本だって全然内容が入ってこなくて。で、気がついたら、そういえば別に嫌いな顔じゃないし、確かに一緒に話してて一番楽しい相手だしなとか考えてて、しまいには、もし付き合った場合、タケトとキスとかできんのかなって変なこと考え出して……」

「考え出して?」


 鈴が私から言葉を引き出そうとする。そして、私は小さく息を吸い込み、つぶやく。


「多分だけど……好きなんだと思う」


 そう、と鈴が相槌を打つ。鈴はお弁当の中に入っていたプチトマトを一つ掴み、頬張った。校舎の中から誰かの話し声がする。一年中変わらない昼休みの騒がしさが、今だけは別世界の音のように聞こえた。


「高校三年までずっとカメラ、カメラ言ってた春菜からそんな話を聞くと、こっちまで恥ずかしくなるんだけど」


 鈴が口に入れていたものを飲み込み、それから茶化すような声でそう言った。からかわないでよ。私がそう抗議すると、ごめんごめんと鈴が平謝りする。


「こっちだって困ってるんだからね。こんなの初めてだし、それにタイミングもタイミングだし」

「とりあえず、付き合ったら? 両思いなんだし」

「でも、春から東京に行くって決めてるから……」

「いつでも連絡は取れるんだしさ、遠距離恋愛すればいいじゃんか。もし続かなかったら良い思い出だったねってことで終わりだし、上手く続いたら続いたら儲けもんってことで」

「東京に行って働き出したら、きっと大変だもんな……。それにそんな中途半端な気持ちできちんと仕事できる自信ないし」

「じゃあ、きっぱり断ったら」

「でも……」

「でも?」


 咄嗟の返しに言葉が出てこない。自分が発した言葉に、自分で戸惑ってしまったから。でもって何なんだろう。その問いかけがぐるぐると頭の中を回って、時々、タケトの昨日の言葉が頭を覗かせる。親の反対を押し切って、絶対に上京するって決めたはずなのに。スタジオでアシスタントとして働いて、たくさん勉強して、それから有名なフォトアーティストになるって決めたはずなのに。どうしてこんなことで躊躇っているのか、自分でもよくわからなかった。


 鈴が立ち上がり、スカートについた煤を手ではたく。そして、上手にメイクされた可愛らしい顔をこちらに向けて、優しく微笑む。好きな人ができて、メイクをするようになって、鈴は前よりもずっと可愛くなった。鈴の顔を改めて観察して、そう感じた。生き生きしてて、毎日が楽しそうで、嬉しそうにいつも彼氏の話を聞かせてくれて。そして、それと同じタイミングで、私の頭の中に先ほどの鈴の言葉が思い浮かぶ。


 やっぱ、現実って甘くないなー。


 私はその言葉を振り切るようにぐっと唇を噛み締める。そしてそれから、右手に持っていた箸をそっと置き、食べかけのお弁当にそっと蓋をした。



*****



「あ、春菜先輩。来てくれたんですね」


 放課後。誰かいるかなと思って部室を覗きに来た私に、写真美術部の後輩、美幸ちゃんが嬉しそうに挨拶をしてくれる。下級生はテスト期間だということもあって、狭い部室には彼女一人しかいない。部屋の窓はカーテンで締め切られ、どこか薄暗い。やっぱり受験がないと暇なんですねと茶化す彼女に、ちゃんと家では写真の勉強してるからねとおどけながら返事を返す。


 私は部屋の真ん中に置かれた椅子に腰掛け、一ヶ月ぶりに訪れた部室を見渡した。カビ臭くて、狭くて、だけど、写真に囲まれた空間。本棚には部員や顧問が持ち寄った写真集や雑誌がぎちぎちに詰められていて、壁には部員の作品が飾られている。そして、壁際の棚に飾られている盾に目が止まる。それは、私が高校二年生の時、有名なフォトコンテストでアマチュアで唯一佳作賞をもらったときの記念品だった。そしてその横に飾られている、私の受賞作品。差し込む木漏れ日の下で水面の波紋と波紋が重なり合う一瞬を撮った自然写真。学校裏の林にある小さな池で、休日の朝から夕方まで一日中張り付き、それを何週間も続けてようやく撮影することができた自分の代表作品。この受賞をきっかけにずっと尊敬していたフォトアーティストの人と知り合うことができて、彼女がスタジオのアシスタントを募集してるということを知ることができた。私の夢のスタート地点とも言える、大事な作品。


 たまたま佳作賞を取っちゃったから、その道で食っていけるだけの才能が自分にあるって勘違いしてるんじゃないの。


 大学に行かず、東京のフォトスタジオで働きたいと言った私にお母さんが言った言葉。口論の中の、私の感情的な暴言への返し言葉だっていうのは理解してるし、何一つ譲ろうとせず、一方的にこちらの主張をぶつけていた私にも非があるのはわかってる。それでも、たまたまという言葉だけはどうしても許せなかったし、全身全霊をかけて撮った写真をそんな風に言われるのは死ぬほど悔しかった。


 この写真は、自分の力で撮った、自分の代表作品だって自信を持って言える。それでも。私は自分が一年前に撮った写真を眺めながら思う。この写真以上のものを、私はこれから撮ることができるのだろうか。そんな問いがひょっこりと頭を覗かせて、私の胸を締め付ける。


「すごいですよね、先輩。大学に行かずにそのままフォトスタジオのアシスタントして働くなんて」


 美幸ちゃんが現像した何枚かの写真を手に持ち、真向かいの椅子に座った。椅子と床が擦れる音がして、狭い机の下で、私と彼女の脚が一瞬触れ合う。そんなことないよ。そう返事をした後で、自分の言葉に謙遜ではなく、卑屈さが混じっていることに気がつく。悪い考えを振り払うように、私は美幸ちゃんの方へと顔を向けて、話題を振る。


「美幸ちゃんは進路とかもう考えてるの?」

「私はどっか地方大学の医学部を受ける予定です。一時期、先輩みたいにフォトアーティストとか、商業カメラマンとかも楽しそうだなって思ってたんですけど、やめました。親から医者を継げって言われてますし、才能がないってのもありますし、でも一番はやっぱり、今みたいに好きなものを好きな通りに撮ってるのが楽しいかなって」

「そっか」


 美幸ちゃんが人懐っこい笑顔で笑う。ついでなんで、コンテスト用に撮った写真を何枚かみてもらえませんか? そう言いながら、美幸ちゃんが机の上に写真を並べ始める。写真を一枚一枚指差しながら、美幸ちゃんがアングルや被写対象について説明してくれる。彼女の楽しそうな表情を微笑ましく感じながら、私は一枚一枚を真剣に鑑賞する。美幸ちゃんの写真は、贔屓目に見ても、才気を感じさせるような素晴らしい作品だった。細かい所で惜しい箇所はあったりするけれど、これは私には撮れないなって思わせる写真だって何枚もある。それに、県内のコンテストで優勝賞を取ったりしていて、実績だってある。


 才能がないってのもそうですし、やっぱり、今みたいに好きなものを好きな通りに撮ってるのが楽しいかなって。写真の説明を聞きながら、美幸ちゃんの言葉が頭の中で繰り返される。自分に才能があるなんて、私にだってわからないよ。胸を締め付ける不安が、言葉になって私を責め立てる。一通り写真について見終わった後で美幸ちゃんがお礼を言いながら写真を片付けていく。先輩に相談できてよかったですと、屈託のない笑顔でそう言ってくれる。


「先輩が個展を出すことになったら、絶対に教えてくださいね。東京だろうが、ニューヨークだろうが、すっ飛んでいきますから」


 ありがとう。いつもなら嬉しいはずのその言葉が、耳の鼓膜にべっとりとへばりついて、離れない。美幸ちゃんの笑顔越しに、棚に飾られた私の代表作品が目に映る。写真に映る池の波紋が、まるで私の心の中の小さな揺らぎを暗示しているかのように見えた。



*****



「補習最後の日、休みに何ねーかな」


 二人きりの教室。気まずい沈黙を破って、タケトが独り言のように呟いた。どうして? 私はタカトの方を見ないまま尋ねる。プリントに印字された文章が意味をなさない文字の羅列になって、私の頭を通り抜けていく。


「補習最後の日、雪の予報なんだよ。夜の間に降ったら、数センチくらいはうっすらと積もるらしい」

「……数センチくらいじゃ休校になんないと思うよ」

「まあ、そうだよな」


 いつもの何気ない会話のはずなのに、中身も何もない空っぽの会話のはずなのに、タケルが何かを呟くたびに私の心臓が胸から勢いよく飛び出してしまいそうになる。私は窓の外をみる。今日の天気はこの前と違って曇り空で、今にも落っこちてきそうなほどに重苦しい灰色だった。水を張ったような静けさが痛い。教室だけじゃなく、校舎にも、この町にも、私たち以外の人間は誰一人いないみたいで、耳を澄ませば隣に座っているタケトの呼吸が聞こえてきそうだった。


「……なんで、タケトはそんな平気なの?」

「何がだよ」

「この前あんなこと一方的に言っておいて、よくそんな平気でいられるね」

「いや、平気なふりしてるだけでさ、本当は心臓バクバクだよ。胸から飛び出してきそうなくらい。お前こそさ、よく平気でいられるよな」


 バーカ、この鈍感男。心の中でぼやきながら、シャーペンで意味もなく句読点の丸を黒く塗りつぶす。その一方で、タケトもそんな気持ちなんだってことが少しだけ嬉しくて、だけど、そんなことで喜んでる自分がどうしようもないくらいにめめっしく感じて、ペンを握る力が無意識のうちに強くなった。ペン先に圧がかかって、シャーペンの芯がぽきんと折れる。折れた芯を手で払うと、白い用紙の上に太い黒線の跡が残った。


「この前タケトさ、地元が嫌いだから東京に行くのって聞いたじゃん。ひょっとして、タケトって地元のことが嫌いなの?」

「どうしてだよ」

「だってさ、そうじゃないとああいう質問って出てこないじゃん」


 タケトが黙り込む。黙んないでよ。私がそうせっつくと、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。


「嫌いだし、好きだよ」


 何それ。思わず私が笑うと、タケトもつられて笑った。その顔を見た瞬間、冷たい氷を押し付けられたみたいに私の心臓がぎゅっと縮こまる。見慣れているはずなのに、昔から嫌と言うほど見てきたはずなのに、今更どうしてその笑い顔を見てそんな気持ちになるのか。時間が経つにつれて得体のしれない想いがどんどん大きくなっていくのが自分でわかって、それがどうしようもなく怖い。みんなから素敵なものだって聞かされていたはずの初恋が、自分を自分じゃなくしてしまうような、そんな感じがした。


「ところでさ……この前の話の続きをしたいんだけど」


 この前の話って何? わかってるはずのに、私は反射的にとぼけてしまう。俺が秋島のことを好きだって話だよ。タカトの言葉にまた胸が締め付けられる。そんな直接的な言葉を使うのは卑怯じゃない? その言葉をぐっと飲み込んで、タケトの方を見る。だけど、あまりにも気まずくて私は目を伏せる。


「あんなこと急に言われてもさ……こっちの立場もちょっとは考えてよ」

「それは悪かったと思ってる。でもさ、ずっと踏ん切りがつかなくって、あのタイミングでしか言えなかったんだよ」

「ヘタレ」

「ヘタレなのは認める。でも、秋島は俺のことどう思ってるわけ?」


 私は開きかけた口を閉じて、黙り込む。だけど、それに変わる言葉は出てこなかった。タカトも何も言えず、重たい沈黙が教室全体を包み込む。こっちの立場も考えてよ。長い沈黙の後で、私はさっきと同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。


「立場を考えろって言われても、どうしようもなかったんだから仕方ないだろ」

「仕方ないって言って開き直らないでよ。卑怯じゃん! そっちの好きなタイミングで一方的にそんなこと言ってさ、本当昔から変わらない!」

「何だよそれ。嫌いなら嫌いって言えよ」

「嫌いなんて一言も言ってないじゃん! なんでそんなに自分勝手なの! ただでさえ不安でしょうがない時に、なんで……なんで、そんな邪魔するようなことするわけ!?」


 自分の言ってることがあてつけだってことはわかってた。タカトとは関係ない、自分の不安をぶつけてるだけだってことも、全部わかってた。わかってたけど、どうしても言葉が止まらなかった。タカトは何も反論しないで、ただ私の方を見て、ごめんと一言だけつぶやいた。謝らないでよ、悪いのはこっちなのに。もっと私に筋の通らないことを言って怒って、タカトのことを嫌いにさせてよ。愛憎入り交じった気持ちが心の中でぐちゃぐちゃになって、自分でも理解できない考えで頭がいっぱいになる。


 別にいつだっていいから、気持ちの整理がついた時に、さっきの返事を聞かせてほしい。


 タカトは私の目を見てそう言った。私は右手をぎゅっと握りしめながら頷く。授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。私は何も言わないで、逃げ出すように教室を出ていった。


*****



「春菜、ちょっとこれを見てくれる?」


 夕飯の後。部屋に戻ろうとしていた私をお母さんが呼び止める。何? 私が尋ねると、お母さんが机の上にパンフレットを置き、私の方へとそっと押し出した。不安が背中を這う。私はゆっくりとお母さんが座る机へと近づいて、パンフレットを手に取った。それは地元の美術大学の資料で、来年から新しく写真学科が開講されるということが記載されていた。


「お母さんもあれからずっと考えていたんだけどね、やっぱり今後のことを考えると大学は出ておいた方が良いと思うの。ここの大学だったら家からも近いし、一年くらいは予備校に通って浪人するってのもありだと思うわ。それにほら、ここに書かれてる写真学科の先生っていうのも、春菜がすごいって言ってた写真家さんだし……」

「何でこんなことするの?」


 自分でも驚くくらいに冷たく、低い声だった。お母さんが顔をあげ、不愉快そうな表情を浮かべる。決まってるでしょ。何度も何度も聞かされてきたお決まりの言葉を、お母さんが呟く。あんたの将来のためを思ってるからよ。私は手に持っていたパンフレットを机に叩きつけた。乾いた音がリビングにこだまする。沈黙の後に、お母さんが深いため息をつく。そして、きっと鋭い目で私を見つめ、言葉を続ける。


「春菜は世間のことをよく知らないかもしれないけどね、社会に出たら学歴とか出身大学のコネとか、そういうものが役に立ったりするの。高卒のまま東京のスタジオで働いて、結局フォトアーティストになれなかった時に苦労するのは自分なんだからね」

「……うるさい」

「別に私だって、カメラを止めろなんていってるわけじゃないの。苦労が目に見えている道に進むよりかは、四年生の大学に出てきちんとした職について、それから自分の好きなことをやった方がいいんじゃないって言ってるの。それにこの前も調べたんだけど、地元で一番有名な写真家の人も、公務員をやりながら写真を撮ってて、それからプロの道に進んだって……」

「うるさい!!」


 私は大声で叫んだ。あまりの激しい反応にお母さんが少しだけたじろぐ。


「前にちゃんと説明して、お母さんたちも納得してくれたじゃん! なんで今になって蒸し返してくるわけ!」

「他にもっと良い道があったからこれはどうって教えてあげただけでしょ! 春菜こそ私たちが反対してるから、意固地になってるんじゃないの!?」

「何で、みんな寄ってたかって……何でみんな私の邪魔するの? 何で自分勝手に私の邪魔するの!!」

「人の話を聞かないで、自分勝手なことをしてるのはあんたでしょ!」


 そのタイミングで、リビングの扉が開く。私がぐっと涙を堪えながらそちらを見ると、そこには自分の部屋から慌ててリビングに戻ってきたお姉ちゃんが立っていた。面倒くさそうに頭を掻きながら、そのまま私たちの間に入ってくる。


「最初から聞けてなかったんだけどさ、今度はどういう喧嘩?」

「何でもない!」


 私はお姉ちゃんをきっと睨みつける。そのままリビングを出て、二階にある自分の部屋へと駆け込んだ。鍵をかけて、そのまま自分の机の椅子に座る。むしゃくしゃ気持ちで頭がいっぱいになる。さっきの会話を思い出すだけで涙が出そうになる。私は机の上に置かれたカメラを手に取った。決してプロが使うような高いやつではない、使い古された一眼レフカメラ。それでも、中学生の時に買ってもらってからずっと肌身離さず持ち歩いて、そして、私に写真を撮ることの楽しさと喜びを教えてくれたもの。


 高校の展覧会で賞をもらって、ずっと尊敬していたフォトアーティストの人から言葉をかけてもらって、それをきっかけに私はこの道に進むんだって決めた。決めたはずなのに。決めたはずなのにどうして今更。湧き上がってくる負の感情は理解してくれない母親とか、今更恋愛感情なんてものを意識させたタカトに向けられたものじゃなかった。それは、その感情は、不甲斐ない自分の方を向いて、容赦なく胸を締め上げる。


 その時、コンコン、と部屋のドアがノックされた。私は反射的に扉の方へと振り返る。


「誰!?」

「レディー・ガガだけど、入れてくれる?」


 私は服の袖で涙を拭い、手に持っていたカメラを机の上に戻す。椅子から立ち上がり、扉を開ける。外にいたお姉ちゃんが戯けた調子で手を振って、部屋の中へと入ってくる。頭一個分背の低い私の頭をポンポンと叩いて、そのまま私のベッドに腰掛けた。ベッドが重みで軋む。ウェーブがかかった栗色の毛先をいじくりながら、お姉ちゃんはド派手にやらかしたねとからかうような口調で笑いかける。


「まあ、春菜の気持ちもわかるけどさ、お母さんだって別に悪意があってやってるわけじゃないのよ。だからさ、ああいうのは適当に流しておけばお母さんも満足して……」

「違うの」


 言葉を遮ったその声は涙のせいで掠れていた。お姉ちゃんが眉をひそめる。自分の迷いとか、タケトのこととかお母さんの言葉とか、色んなことが頭の中で渦巻いて、うまく説明しようとしても言葉が出てこなかった。嗚咽が溢れる。悔し涙を堪えるために、唇を噛み締める。お姉ちゃんは何も言わずに私を見つめていた。急かすことをしないで、ただじっと私の言葉を待ってくれていた。


「違うの……。お母さんがああいうことを言ってくるのはわかってる。だけど、一瞬だけ……一瞬だけ、お母さんの言う通り、このまま地元にいて今みたいに趣味でカメラを続けてる方がいいのかもしれないって思っちゃったのが、どうしようもなく悔しくて……!」


 お姉ちゃんはそっかと小さく頷いた後、自分の隣を手で叩き、こっちにおいでと言ってくれた。私は涙を堪えながらお姉ちゃんの横に腰掛けた。身体をくっつけると、お姉ちゃんの髪から品のいい香水の匂いがした。何があったの? お姉ちゃんの囁くような問いかけに、私はぽつりぽつりと話し始める。タケトのこと、鈴のこと、そして、ひょっとしたらわがままで間違ってるのは自分の方なんじゃないかってこと、全部。


 お姉ちゃんは、私が間違ってると思う? 全てを話し終わった後で、私は恐る恐る尋ねた。そういう問題じゃないと私は思うよ。私の頭を優しく撫でながら、お姉ちゃんはそう答えてくれる。


「私は自分のことを世界で一番頭が良くて、可愛い女性だと思ってるけどさ、例えば、その私が春菜に、あんたは才能がないからフォトアーティストになれっこないし、そんな夢見てないでおとなしく周りの言うことを聞いてろって言ったら、春菜どうする?」

「多分……お姉ちゃんのことぶん殴っちゃうと思う」

「でしょ? そういうことなんだと思うよ」


 お姉ちゃんが笑いながら私の目に溜まった涙を拭った。


「私が応援してるのはね、フォトアーティストになりたいっていう夢だけじゃないの。私はね、春菜が自分で自分の道を決めて、成功しようが失敗しようがそれを自分の責任で最後までやり切るってことを応援してるの。私もちゃらんぽらんだけど一応社会人だから、お母さんやお父さんの言ってることも理解できる。お母さんたちの言う通り、大学を出なかったことで苦労することがこの先あるかもしれない。でも、一番大事なことは正しいとか間違ってるとかじゃなくて、自分で決めたことかどうかだって私は思うよ」


 お姉ちゃんが立ち上がる。髪がなびいて、香水の匂いが再び香る。お姉ちゃんは机の上に置かれた私のカメラを手に取り、懐かしそうに本体部分を撫でた。一台目は私が勝手にいじくって壊したんだっけ? そうだよ、あれだけ触らないでって言ってたのにさ。ごめんごめん、春菜あの時、一ヶ月くらい口聞いてくれなかったもんね。お姉ちゃんがそう言って笑った。人懐っこい、それでいてすべてを包み込んでくれるような微笑みを浮かべて。


「春菜が自分の頭で考えて、自分で納得した答えなら私は何だって応援するよ。東京に行くことになっても、ここに残ることにしても、それが自分で決めたことならね。自分で決めて、人のせいにしないで、自分でその結果の責任を持つってことが、自分らしく生きるってことだと思うから。人生の責任を自分以外に丸投げするような生き方なんて、ダサいじゃんか」


 写真撮ってよ。誰にも負けないくらいに上手に取れるんでしょ? お姉ちゃんが私にカメラを差し出し、そう言った。私は頷き、お姉ちゃんからカメラを受け取る。一眼レフカメラはずっしりと重くって、だけど私の手にぴったりと収まった。私はカメラを構え、ファインダーからお姉ちゃんを覗き込む。年が離れて、みんなから春菜っちって呼ばれて、いつもはお調子者なのに、ここぞという時は頼りになる自分の姉の姿を。


「可愛く撮ってね。マッチングアプリのプロフィール画像にするから」

「いいけど……一つだけお願いを聞いてもらっていい?」


 何? お姉ちゃんがポーズをとりながら聞き返してくる。ISOを調整し、しぼりをかけながら、私は答える。


「今からさ……お化粧の仕方、教えてよ」


 私はシャッターを切る。聞き慣れたシャッター音が部屋の中に響き渡った。



*****



 補習最後の日は、町全体にうっすらと雪が積もっていた。


 夜の間降り続いた雪は朝には止み、空は雪の白に負けなくらいに鮮やかな水色をしていた。教室の暖房はいつもより張り切って稼働していて、窓ガラスには結露がついている。外へ目を向ければ、中庭の樹の枝分かれ部分に雪が積もっているのが見える。通路にはたくさんの人の足跡が残っていて、ぎゅっと踏みつけられて透明になった雪から、見慣れた石畳の色がのぞいていた。


 今日の放課後さ、久しぶりに一緒に帰らない? 話したいことがあるんだけど。


 補習の最後、私は隣に座っていたタカトにそう伝えた。ちょっとだけ間が空いた後で、タカトはわかったと素っ気ない返事を返す。それから終わりのチャイムが鳴って、他の授業に出ていたクラスメイトが教室に戻ってくる。放課後のホームルームが終わり、塾に向かう人、自習をしに学校の空き教室へ向かう人、そういう人たちに混じって、私たちは時間をずらして教室を出ていく。扉を通り抜ける時、足先が敷居に突っかかって、思わずよろけそうになった。


 校門から出て曲がり角を曲がったところで私たちは合流し、二人並んで歩き出す。歩くたびに足元から硬い雪の感触が伝わってくる。私は視線を向ける。昔は同じくらいの背丈だったのに、気がつけば私より頭ひとつ分背が高くなっていた幼馴染の方へと。タケトの吐息は白く、耳は真っ赤だった。緊張してるからなのかなって自意識過剰気味に思って、それからそんな自分の呑気さに笑ってしまう。


「何か、今日の秋島、いつもと違う気がするんだけど、気のせい?」


 気のせいじゃないよ。やっと気づいたのかよと呆れるのと同時に、それに気がついてくれたことが嬉しくて、でも、それがばれたら恥ずかしいから、私はできるだけ平静を装ってそう言った。どこが変わったと思う? 私が意地悪でそう聞いてみると、タカトが困ったような表情を浮かべた。


 今日ね、お化粧してきたんだ、生まれて初めてのメイク。確かにそういえばいつもよりも顔が白いな。ファンデを塗りすぎてるんだって、お姉ちゃんにも鈴にも言われちゃったよ。ふーん、よくわかんないな。そう言う時は、適当にそうだねって言っとけばいいの。はいはい。私はタカトの方じゃなくて、自分の足元を見ながら会話を続けた。横を見なくても、タカトの視線を感じる。あんたのためにしてきたんだよって、私はわざと聞こえない声で、そう呟いた。


「今日の景色じゃないけどさ、これが本当の雪化粧ってやつ?」

「何それ、しょうもな」


 それから私たちは笑い合う。私と同じようにうっすらと雪化粧した街並みは、見慣れた景色とは違って見えて、陽の光を反射した雪の純白が眩しかった。手袋越しに、冷気が指先を針で指すように突く。鼻先は感覚がなくなって、まるで自分の体の一部じゃないみたい。別れ道に差し掛かり、私は一人だけ足を止める。タカトが数歩だけ先に進んで、立ち止まり、私の方を振り返る。補習の時の教室と同じように、周りには誰もいなかった。私は目を瞑り、空気を大きく吸った。冷たい空気が肺の中に満ちて、火照った身体を冷やしていく。


「私、タケトのこと好きだよ。別に友達とか、幼馴染とか、そういう意味じゃなくて」


 タカトが何かを言おうと口を開く。だけど私は、それを遮るように言葉を続けた。


「だけど、やっぱり私は東京に行く。それに、中途半端な気持ちで通用する世界じゃないと思ってるから、遠距離恋愛とかそういうのもできない」


 タカトが口を閉じ、出しかけた言葉をぐっと飲み込むのがわかった。それから気まずそうに頭を掻いて、そっかー、振られたかーと作り笑顔を浮かべる。ごめんね、なんて言葉で済ませたくなかったから、私はタカトの顔をじっと見つめて、ただ笑い返した。頑張れよ。タカトの言葉に私は頷く。道路の脇に避けられた雪の表面が、陽の光を反射して一瞬だけ瞬いた。


 私たちは手を振って、それぞれの家へと歩いていく。二、三歩進んだ後で振り返ると、タカトが肩を落として歩いていく後ろ姿が見えた。その情けない背中に、申し訳なさよりも愛おしさが勝って、そしてそれから、泣きそうになる。


「タカトー!」


 タカトが立ち止まり、振り返った。ぐっと息を止め、涙を目の奥に引っ込めた後で、私は遠くからタカトに呼びかける。


「私に振られたくらいで、いつまでもメソメソすんなよー!」

「うっせー!!」


 タカトが笑って、もう一度遠くから手を振った。私も笑いながら手を振りかえして、再び自分の家へと歩き出す。歩きながら、タカトの顔が思い浮かぶ。自分が東京に行かず、この町でタカトと一緒にいる未来を想像してしまい、どうしようもないほどに胸が苦しくなる。自分で考えて、自分で選んで、これで良かったんだって私は自分に言い聞かせる。唇を強く噛み締めて、声にならないうめき声をあげる。頬を暖かい何かが伝う。そっと手でなぞると、生暖かい涙を指先に感じた。


 家に帰って、自分の部屋に飛び込んで、そのままベッドの中に倒れ込む。頭の中をいろんな葛藤が暴れまわって、私はそのまま枕に顔を押し付け、声を出して泣いた。悲しいとか、悔しいとか、そんな一言で片付くような感情じゃない。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた、わけのわからない感情に突き動かされて、私は泣き続けた。そして、しばらくしてから誰かが部屋の中に入ってくる音が聞こえる。私が涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔をあげると、そこには仕事が休みだったお姉ちゃんが立っていた。化粧がぐちゃぐちゃだね。私の泣き顔を見て、お姉ちゃんが笑った。


「やっぱり、ここに残ってタカトくんと付き合った方が良いなって思った?」


 私は顔をあげ、袖で涙を拭う。無理矢理笑顔を作って、だけど、お姉ちゃんの顔をじっと見つめ返して、答える。


「全っ然」


 お姉ちゃんが私に手を差し伸ばす。私はその手を掴んで、そのまま引っ張られるようにして立ち上がった。いつもみたいにぽんぽんと頭を叩かれ、私は強がりなんかじゃなくて、心の底から笑った。乾いて張り付いた涙が、頬の上でポロポロと崩れる。


「雪も積もってるし、雪だるまでも作ろっか」


 窓の外へと目を向けて、お姉ちゃんがそう言った。雪だるま? 小学生じゃないんだから。私が笑いながら返事をすると、お姉ちゃんも優しく笑い返してくれる。


「何言ってんの。五、六年前までは春菜も小学生だったでしょ。行くよ」


 お姉ちゃんがそう言って、部屋を出ていく。私は呆れながらもベッドの上に放り出していたマフラーと手袋を手に取って、それから、机の上に置かれたカメラを見た。


 ほら、早く早く。


 部屋の外から聞こえてくるお姉ちゃんの呼びかけに答えながら、私はカメラを手に取る。そして、それを首にかけ、うっすらと雪が積もった外へと飛び出していった。

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