「殷王妃・婦好戦記〜巫女軍師は中国史最古の女将軍とともに中華に戦う〜」(佳穂一二三様)より(その2)
連休を利用してなんとはなしに書き始めてしまった便乗シリーズ。書いてみるとこれがまあ楽しくて、本編の前に終わらせなきゃ、元の集中が出来ない感じになってきました。
なので、懲りずにまた投稿です。本編も書いていますが、年内だけはこっちメイン頑張りたいですねえ。
佳穂先生ゆるして。あと第一回のはち先生もゆるして。
現実ってなんなのだろう。石堂の大きな背中を前に見据え、背後から美女の笑い声と彼女の馬車の車輪に追い立てられて走っている瞬間を現実と呼ぶ度胸など、なかなかにない。かといって悪夢というのもどうも違う。
強いて言うなら今の状況は昔梅田で見たビートルズの映画のようなものだろうか。そこでは冒頭からビートルズのジョン・レノンもリンゴ・スターも、駅をタクシーで出ようとすると熱狂的なファンの女の子達に走って追いかけられていた。だから、今の状況はあの劇中のロック・バンドみたいなものかもしれない。問題は自分の足で逃げるビートルズを女の子達がタクシーで追いかけたらどうなるか、ということのみだ。
だから数分のうちに鬼ごっこは終わった。僕らの行く先に背後から矢が射ち込まれ、おまけに矛の数本も地面に突き刺さったとなると、走る場所などあったものではない。
「次はお前達の背中を撃ち抜く!」
逃走をあきらめ、後ろをふり返った僕らの数メートル先には、「リツ」と呼ばれた馭者が左手に手綱をもったままに右手の矛を高く掲げてこちらへの威嚇をはじめている。そしてその後ろの座席には、戸惑いを隠せない少女~「サク」だったか~はいいにしても、愉快そうに弓矢の狙いをこちらに向けている「婦好」の姿がある。
とても、よくない。実に、よくない。
僕は軽い諦めとともにため息をついた。どんな時代であっても見知らぬ土地の初対面の人間に向かって速球を投げたとなると結末は見えた話だ。が、傍らで荒い息をしている男の眼は不思議に活き活きと輝いている。
軽く腹が立った。この男のせいでこれからどうなるとも分からないのに、なんでこんなに眼が笑っていられるのだ。
「いやあハタ坊」
「いやあ、やないよ。どうすんのや、これ」
僕は泣き言まじりで彼をなじろうとした。が、どうやら「敗戦投手」は親友の気持ちなど分からないらしい。石堂は車上の女性達と僕とを交互に見ると、とんでもないことを言いだした。
「なんやしらん。メッチャ面白いな、今日」
ぼけ! かす! アホンダラ!
「商王妃、婦好様の車馬と知っての狼藉か!」
僕らが片方は戸惑い、もう一方はウキウキしているという奇妙な様子のまま二人で話し込んでばかりいることに痺れを切らしたのか、リツがまくしたてる。が、僕らは顔を見あわせるしかなかった。
過去の中国に「商」などという国があったなどと、学んだことも聞いたこともないのだ。
「イシ、千年前の中国なら王朝の名前はなんやったかな」
僕は「リツ」の矛を気にしながらも、なおも女性達との会話をすっぽかし、小声で石堂に質問をしてみた。
「そら、お前、宋や。『北宋』や」
「ほな、さらに千年前ならどこや?」
「えー……。漢や、『前漢』やな」
こちらの問いに答えながら、流石の石堂にも焦りが出てきた。なにしろ、「リツ」の右手の矛が高校生の会話が終わる前にぶん投げられないなどという保障はこれっぽっちもないのだ。
それでも、僕は質問をやめなかった。美女にだろうがベトコンにだろうが、どうせ殺されるなら相手の正体くらい知ってから死にたいのが人情だ。
「さよか。ならもう千年さかのぼったら?」
「殷や。太公望に滅ぼされたとこや」
「殷、やったかあ」
「せやで。お前も中国史、もちっと頑張らんかい。……確か都が『商』言うたかなあ」
「『商』やて!?」
「あっ」
僕と石堂は顔を見あわせた。そして、すぐに互いの視線を馬車へと向けた。仮に『商王』という名称が商の都の主人という意味合いであったら、その先は分かりきったことだった。
ここは三千年前の中国なのだ。
「お前たち、話し合っても最早無駄だ。婦好様のお手をわずらわせるまでもない。いい加減この矛の餌食としてくれる」
そう言い捨てると「リツ」が矛を振り上げた。が、その動作はほどなくして停止される。
「婦好」が愉快そうな、それでいて周りを圧するような声でもって矛の行く先を制止したのだ。
「まあまてリツ」
その言葉に「リツ」は掲げていた武器から力を抜いて、耳を隠す程度の長さの髪を風にまかれながらで主人の方向へと首を向けた。
「しかし婦好様……」
「リツよ。そこの者たちは鬼公配下でもなさそうだし、着ている服も異様だ。まずは陣に連れて帰って色々を訊いてみたい」
「おおせとあらば」
主人の命を受けた「リツ」は矛をおさめると改めてこちらへと身体を向けた。が、その表情には不服の色がないわけでもない。
そして、僕らとの会話の相手は「リツ」からその主人へと代わった。彼女は僕らのジーンズに白い半そでのシャツという出で立ちをゆっくりと眺めていたが、やがて草原と周りの山々に響くような厳かな声で馬車から名乗りを上げた。
「そこの者たち! 私は私は商王妃にして一軍を率いる婦好である。この馭者は私の側近であるリツ、そしてこのむすめが我が軍師のサクである。……さて、我々は名乗った。さて、異形の出で立ちの者どもよ。お主らの国にも名乗られたら名乗り返すくらいの礼はあるであろう……名乗るがよい」
僕は艶と強さが一体となった声を地面に尻をつけてしゃがみこんだままに聞いていたが、やがて同じような格好で聞き入っていた石堂を促すと、あらためて数メートル先の馬車に向かって跪き、頭をたれた。これからの運命など知る由もないが、一国の妃に向き合う格好としてなら辛うじて通用するだろう。
が、問題はポーズなどではない。
一体、三千年前の人間に対してどうやって自己紹介すればいいのだ? 何故か言葉は通じるにしても、西宮どころか、日本もないであろう時代の人間に向かって?
「どうした? 礼などはよい。名乗るのだ」
婦好が促す。僕は地に頭をつきながらまた、泣きそうな気分になった。「日本」の「高校生」だなどと正直に話したら、「狂人」扱いになってしまうだろう。そもそも、殷の時分に「学校」などという概念はあったのだろうか?
土の匂いを嗅ぎながらで、僕は石堂の様子をうかがった。幼馴染にして、このひと時の混乱を引き起こした男だ。が、初対面の女性に剛速球をなげるという「狂人」でもある彼は、地面から頭を上げると馬車に向かってもの凄いことを言いだした。
「まず婦好様におかれましてはこの度のご無礼をお許しください!」
先ほどの婦好の声量にも負けない大声であった。
「我々は東海の先の、名もなき集落より参りました棒と球をもって行う武術修行中の旅人でございます。今、話しておりますのが石、そしてこちらにおります者が波でございます」
むちゃくちゃ言いよる、としか思えなかった。が、少なくとも出自に関しては嘘を言っていない。日本列島は中国の東の海の果てだし、西宮なんてないのだからまあ、「名もなき集落」ではある。
でも、だ。「セキ」とか「ハ」とか、名前を中国っぽく変えんでもいいのではないか?
「は?」
「我が流派では、強いと思った相手をみたら前触れなしに勝負を挑まねばならぬという掟がございます。この度は車上におられます婦好様を拝したところかなりの手練れとお見受けし、勝負を試みましたが……いやぁ! お強い。球を遥か遠くまで飛ばすことは『ホームラン』と言いまして、貴女様の完勝でございます」
「ほーむ……らん?」
婦好が不思議そうな顔を浮かべる。
「さようでございます。我が流派では勝負において、この『ほーむらん』にて勝つことが武人最大の名誉とされています。すなわち、貴女様は最強の武の持ち主であらせられるのです!」
こいつ、アホや、と思った。が、今の僕の運命はこの心臓に毛が生えたようなアホの口上が握っているのもまた、事実なのだ。リツはまだ、矛から手を離していない。と、なるとハッタリでもなんでもいいから上手くとりなしてくれるしかない。
「なるほど」
婦好は、少し首元に赤い衣装の袖口をもってくると、満更でもないといった表情になる。しかし、その美しい口は「セキ」についての素朴な疑問を発する。
「セキ、と言ったな……。お前の話は分かった。が、見たところひどく髪の毛が短いな……髡刑を終えたばかりなのか?」
流暢にハッタリをかましていた石堂の顔に、久しぶりの焦りが出る。
髡刑については、以前彼が教えてくれたことがある。何でも昔の中国では刑罰の一つとして頭髪を刈るというものがあったらしい。そして野球部を辞めて二月たったかたってないかのその頭髪は、丸坊主ではないにしても非常に短い。彼女が石堂を「元罪人」と見做したって無理のない話だろう。
僕はそっと自分の長髪を撫ぜた。学校や親からやいのやいのと言われながらでも、ジョージ・ハリスンの髪形を真似していた自らのファッション・センスに今ほど感謝したことはない。
しかし、「罪人」呼ばわりされた男はめげない。
「いかにもその通りでございます。ですから、こちらのハ先生に従って武人となるべく諸国を巡っているのでございます」
「なるほどな。確かにハとやらは罪人の出で立ちではなさどうだ」
納得したように婦好は頷いた。しかし、それで美女の疑問がつきるものではない。
「セキよハよ。お前たちの武術については分かった。ならばハに訊こう。前触れなしに球を私に投げつけ、それをもって殺めた場合はどうするつもりだったのだ?」
有無を言わせないような聡明な声は、「先生」を話し相手として指名してきた。
僕は絶望した。石堂ほどのハッタリをかます度胸などあったものかもわからない。が、リツの矛を思えば残された手段は鼻についた土を払って婦好に立ち向かう以外の選択肢しかないのだ。こちらを向いた石堂の唇がそっと、「なんとかしてえな」と音を発さないで動いた。
確かになんとかするしか、ないのだ。僕は意を決した。声は上ずっても、言葉は出る。
「おそれながら婦好様。我らの流派は人を殺めるものでは決してありません。打ちどころによれば骨を痛めるくらいのことはございますが……。先ほどセキが投じた球にしましても、その硬さは石に及ぶべくもありません」
「ほう。しかしそのように危うい部分がないのなら、武の修行たりえないのではないか?」
「先ほどセキは『武』と申しましたが、我らの真の目的はそこにはございません。球と棒を使って死人なき模擬の『合戦』を行うことこそが使命なのです」
「ははは! 死人なき模擬の『合戦』か。サクよ、お前がこの前やったことみたいだな」
婦好は実に愉快そうに笑うと、こちらから傍らの少女へと視線を移した。サクはかしこまった表情で主人にうなずくと、出会ってから初めて喋り出した。か弱くも、意志のある声だった。
「はい……。そのような『合戦』があるならば、是非みとうございます」
「聞いたかハよ、セキよ!」
少女の言葉が終わると共に、主人は一層愉快そうな声をあげると僕と石堂を振り向いた。
「わが軍の軍師がお前たちの技芸を見たがっている。先ほどの非礼は許す、我が陣まで来るがよい!」
「ははっ」
その言葉に二十世紀日本の高校生たちは深々と頭を下げ、安堵のため息をつくしかなかった。一つは婦好の度量に、そしてもう一つはリツが矛を馬車の中に収めたことに。
「しかし婦好様、この馬車ではセキさんとハさんを乗せる余裕がありません。二人に歩いてもらうとなると、陣まではひどく時間がかかると思うのですが」
サクがもっともな意見を言う。しかし、婦好はその問いを明快に打ち消した。
「何、大分に陣を出てから時間がたった。そろそろ第八隊や第九隊が心配して護衛を出す頃だろう。その車に乗せたらよい」
婦好の言ったとおりであった。程なく山あいの小路から砂塵と馬の嘶きが聞こえたかと思ったら、十台ほどの馬車に乗った女性兵士の一群が駆けつけてきたのだ。
しばらくの後、ひどく揺れる馬車の上で僕は同乗している恰幅のよい女性と、僕らと同い年くらいだろうか、やたらと穏やかな雰囲気をもつ女性の目を盗んで腕時計に目をやった。女性二人はこの、罪人か客人かわからない男を扱いかねているのか何も喋ろうとしない。夕陽が赤みを増していた。古井戸に落っこちてからはとうに半日が過ぎていた。
婦好の車を先頭に、女性兵士ばかりを乗せた車列というものは不思議な光景であった。多分、今の日本でもなかなかお目にかかれないものだろう。でも、隣ではそんな光景はどうでもいいとばかりに石堂が疲れからか舟を漕いでいる。起こすのは忍びないが、ひとつだけ疑問があったので、僕は彼の脇腹を肘でつついた。
「……なんやハタ坊……いや、ハ先生」
まどろみから追い出された石堂は気怠そうな表情をしたが、やがてひそやかな声で応じる。
「とりあえずは『陣』にいくらしいが、セキよ……お前何で婦好様にボールを投げた?」
「あー……あれか。いや、あれ、ピッチャーやった時の俺の今までの戦法よ」
「戦法やて?」
同乗の兵士が静かでいることに用心をしつつ、僕は小声で聞き返した。
「ん。強そうな四番バッターには打たれとないさかいな、そういうのには問答無用で初球からデッドボールぶちあてていたんや」
「お前そんなことしとったんか!で……せやさかい今回もつい?」
僕は呆れてしまった。中学校の頃の鳴尾あたりでの手癖の悪いピッチングを、何も右も左もわからないところで再現しなくてもいいというものだ。
石堂はまた、トロリとした目でのんびりと答えた。
「ん。ついつい手癖が出てもうたわ。……それに」
「それに? なんやねん」
「ん。凛とした美人は悪球にどう反応するか見てみたかったんや」
ぼけ! かす! アホンダラ!
「笑いごとやないで。僕らこのままやとやりようによってはホンマに『デッド』や」
「それはまずいなあ……ホームランも、打たれてもうたしなあ」
石堂はガタガタとした振動が尻に響く馬車の上で大きく伸びをし、それから一言「寝る」と呟くと座席に深々と座り直し、目を閉じた。
僕はため息をついて、その寝顔を見た。彼によってピンチになったり、助けられたりの一日だった。命だって、まあ、明日まではもつかもしれない。
でもそれは、彼の奇矯な言動にのせられた僕が言ってしまった、『模擬合戦』を成功させてナンボの話だろう。二人がかりのハッタリを足し合わせても、それは野球の試合にしかならないのだ。野球が果たして合戦になるのかどうか。
「……大貫さんは美人やでぇ……」
再び寝入ってしまった石堂が、先週会ったばかりの女の子の名前を悠長に寝言の中で呟いた。なんとなく腹が立った僕は、大男の向う脛をズック靴で蹴り飛ばした。山道を抜けようかという馬車に新たな振動が加わったが、「陣」の灯りなどはまだ全然に見えなかった。