「殷王妃・婦好戦記〜巫女軍師は中国史最古の女将軍とともに中華に戦う〜」(佳穂一二三様)より(その1)
昭和四十五年の初夏、スナイルスタン共和国からの留学生のベルちゃんに「オーケイ!」のかけ声と共に頭をはたかれてしまったさすらいの男、波多野啓次郎。でも実は高校生だった昭和四十二年の夏にも同じくらい不思議な時間を経験していて……?
佳穂先生ごめんなさい! ゆるして
「イシ、ホンマここどこやねん?」
石堂と山々に囲まれた草原を歩いている中、僕は泣き言を言うしかなかった。腕時計はそうなってしまってからすでに短針が数時間分動いている。
「じゃかあしい! おんおん泣くなハタ坊! ガキやあるまいし」
ようやくに丸坊主だったころの名残が頭髪から消えたばかりの石堂が、こちらの弱音を一喝した。
「そないなこと言うたかて僕まだ十七やで? ガキやからしゃあないやないかい」
「黙らんかいアホウ! お前が俺の投球捕り損ねたあげく、ボール探して古井戸に落っこちてもうたのを助けに飛び込んだらこないな所でてもうたんやないかい!」
「イシのせいやあ。お前が甲山の山奥なんかでいきなり『キャッチボールしよ』とかいうた挙句に暴投したのがアカンのやないかい……」
「それを言うなや! せめて一人やなくて二人でいて、ボールも見つかったことに感謝せえ」
そう言うと石堂はグラブのなかの軟球を軽く何度か宙に放り上げた。
「こんな状況で野球のボールがナンボのもんやねん」
「ん。まあ、暇な時にキャッチボールだけは出来る」
「長生きするなあ。オマエ」
草原も山並みも延々と続いていた。だが人家は、まあ、ありそうにもない。心なしか草も、遠くの山肌から吹いてくる赤い土埃も近所のものとは違うように思える。すると、仮に人家があったとしても、日本のそれとは違うものかもしれない。
「まあ、ええわい。とにかく歩きっぱなしで疲れたわ……少し休もうや」
石堂は足を停め、草原の中に大の字になって寝っころがった。僕も同じようにする。数時間のハイキングは、平坦な草原であっても流石に足腰に響くのだ。
「とにかく、西宮に帰らんとなあ。でも、穴に落ちて気ぃ失った思うたら草原の真ん中に二人して突っ伏していたさかいなあ。どっち行ったら西宮か分からへん」
雲一つない青空を見上げながら、彼はポツリと漏らした。身体を休めはしても、心が休まらない一言であった。
それでも、ここがどこかを納得させる答えがなければ、僕らはいつまで立っても家には帰れないだろう。僕は、上体を起こすと寝転んだままの石堂にある仮説を言ってみることにした。
「イシ、ヒョンなところに四次元世界への入り口がある、てな話聞いたことあらへんか?」
「四次元? 何やそれ」
「あのな、サイエンス・フィクションものなんかでようあるヤツでな。日常のなんでもない場所が、実は過去や未来のどこぞへの入口やったりするのや」
石堂は寝ころんだままで、視線のみをまず、こちらに寄越した。
「アホか、と言いたいところやがな」
遅ればせながらで彼も上体を起こした。
「そうでも信じてみなきゃ、納得はでけんわなあ」
「せやろ」
「じゃあ訊くがハタ坊。ここは過去なんか、未来なんか?」
「それは……」
僕は言葉に詰まった。あくまで仮説をいっただけで、正解を言ったわけでは別に、ないのだ。
が、答えは程なくして向こうから飛び込んできた。突然に大地が揺れ出したのだ。
最初は、何か震えているな、と思った程度のものだったが、その揺れは徐々に大きなものとなってこちらに近づいてくる。
「地震かいな?」
石堂が戸惑ったような声を出す。それに対して僕は即座にその疑問を否定する。
「違うな。これ、揺れだけやない。声なんぞも近づいてきとる。人に、馬に、それから車輪の音や」
「車輪やとハタ坊?」
「とりあえず草むらから頭だけ軽くのぞかして見極めようや。音の主は複数かもしれんし、それに……」
「それに、なんやいな?」
大男が言葉の先を促そうとする。泣き言を言うのに飽きた僕は、その要求に応えた。
「僕らに友好的か分からん。草陰からこっそりうかがうのがええやろ」
「もっともな話やの」
彼は頷いた。そして僕らは草むらに背を丸めて互いの身を潜めると、音の出る方向~草原の向こうの赤茶けた山合いへと連なる小路のような細い空間~をじっと見つめることにした。
程なくして音の正体が現れた。
音も揺れも、全ては武具らしきものをまとった若い女性が馭者をつとめ、その後ろに更に若い女性を二人乗せた一台の馬車から発せられるものであった。
「なあ、ハタ坊……」
「ああ、イシ……」
僕らは草原にさしかかった馬車が緩やかに速度を上げていく様を見つめた後、何とはなしに顔を見あわせた。
「どうやら未来ではないみたいやね」
「ん。んでもって現代世界とも違うな、これ……中国、か?」
「てことは、過去かいな」
「かもしれへん……。しかし、吉川幸次郎先生や宮崎市定先生の本にも『女だけで馬車を走らす時代』なんて記述はなかったはずや」
漢文の成績は悪いながらも古典好きの石堂は、あ然とした表情のままに疾走する馬車を見つめながらで言った。
「せやろなあ。でもあいつらの着てる衣服、遠目からでも本で読んだ昔の中国のみたいやなあ」
「そらなあ。でも明やろが宋やろが……あるいは唐でもこんなに女性のみで馬車に乗るのが許されるような王朝はなかったはずや……則天武后かて、遠出するなら馭者は男やったやろしな」
呆気にとられた会話をするこちらを知ってか知らずか、馬車は草原を突っ切っていくスピードを緩めた。それどころか、僕らから二十メートルほどのところにてついに停車してしまったのだ。
気づかれるおそれが出てきた。しかし危険と引き換えに僕と石堂にようやく馬車に乗っている面々の様子を確認するチャンスを与えられたのもまた、事実だった。僕は目を凝らして馬車の様子をうかがうことにした。
まず馭者は女性にしては比較的髪が短い、精悍な顔立ちをした若い女だった。たくましさがそのまま、美になるような出で立ちだ。そしてそのすぐ後ろには、武具をまとわない青と白の衣がまぶしい、長い髪を軽く耳元で結わえた少女が座席にいる。年のころはどうだろうか、日本でなら高校に上がる前といったところだろう。遠目を凝らしても、馬車の座席の硬さが気になるのかしきりに身体を少し捻って下を気にする仕草が愛くるしいことだけは明らかだった
だが、そんな感想は座席にいるもう一人の女性の出で立ちの前には霞んでしまう。
年は二十歳を超えたくらいか。その赤い衣を身にまとったやや縮れたような長い栗毛の髪の持ち主があの馬車の主人であることは明らかであった。
「ほおお」
まず石堂が、感激したような小さなため息を漏らした。
「ハタ坊……凄く美しいな、あの赤服のん」
「はえー」
ささやくような問いかけに、僕はアホとしか思えない言葉で応じるしかなかった。本当に美しいものを目にしたら、凡百の形容詞など、出てこないものなのかもしれない。石堂は言葉を続けた。
「美しいだけやない。なんや、凄まじい威厳があるなあの女」
「イシ、中国史で女の権力者って誰がおった?」
ようやくに美しいものに呆けるだけの時間を終えた僕は、繁みの中で彼に尋ねた。
「ん……。呂后、則天武后、韋后に西太后……」
「それ、悪女ばっかりやないかい」
「そこまで知らんのやさけ、しゃーな……いや、お前待て」
「ん?」
「馬車を見い、何か動きがある」
屈んだ格好のままの彼は、そっとアゴで女性たちの方を見るように促した。馬車の中では栗毛色の髪の持ち主が少女の黒髪を優しく撫ぜながら語りかけている。
「サクよ、沚馘軍との模擬戦は見事であったぞ」
赤服の凛とした声が風にのってこちらに届く。続いて肩をすぼめた少女の、気恥ずかしそうな声も同じようにして漂ってくる。
「ありがとうございます……。しかし婦好様、今回は弓臤様がおっしゃられたように『まぐれ』の勝利かもしれません」
「ハッハッ! そう謙遜するでないサク。お前の用兵は沚馘が言うように見事なものであった」
赤服は愉快そうな高笑いを発した。愉快さが伝播したように馭者の女性も笑い始める。
「そうよサク。まあ……あなたに欠けているものといえば、こうして女のみで草原を駆けるような豪快さだけね」
「リツの言うとおりだぞサク。だからこそこうして何者が潜んでいるや分からぬ草原まで遠乗りをしている」
「婦好様……ありがとうございます」
少女は勿体ない一言だと言わんばかりに着ている服の、ゆったりとした袖口をあわせて赤服にお辞儀をした。
「要は分からんけど、ハタ坊」
二十メートル先で繰り広げられる会話に耳をそばだてていた石堂は、お辞儀を続ける少女から視線を外すと、こちらに向かってひそやかな声を出した。
「ああ」
「馭者の名前が『リツ』、少女が『サク』、ほんであの赤服が『婦好』いうらしいな」
「ああ、どうやらホンマにここは古代の中国かもしらん。……何故か僕らがあの女性達の会話を理解できるという事実を除けば」
会話の途切れた馬車に目を運びながらで僕は答えた。至極当たり前の疑問だった。
彼女たちの衣装や武器は確かに本で見た古代の東洋、中国のそれだ。が、会話が聞き取れるとなるといったいここはどこなのだ?
が、そんな戸惑いを親友は僅か八文字で吹き飛ばそうとする。
「どうでもええわい」
「はえー」
「大貫さんに勝るような異国の美女達の言葉が分かるほど涙ちょちょぎれる話もあらへんわい」
「はえー」
僕は、煩悩のみで構成された石堂の明朗な回答を、再びアホみたいな返事をしながらで受け入れた。確かに、だ。言葉が理解できないよりかはできるほうがよっぽどいいのだ。
が、一寸先の馬車から漏れ聞こえる会話を聞いたら、「よっぽどいい」などとは間違ってもいえなくなった。
「ハッハッハッ! サクよ、婦好軍の我ら三人しかいないところで礼など不要だ!」
「婦好」と呼ばれる赤服がまた、朗らかな高笑いを発した。「リツ」がそれに続いて笑い声をあげる。が、馭者のその先の言葉が問題だった。
「本当に……しかし、婦好様。女は我ら三人ではありますが」
「リツ、流石に気づいておったか」
「ええ……あの先の繁みに『けもの』が潜んでおります」
そう言うと「リツ」は左手で手綱を握りつつ、もう片方の指先をもって僕と石堂の方向を指し示した。
「ハッハッハッ!」
馬車の主人は、三度明朗な笑い声をあげた。そして「サク」の黒髪をもう一度だけ撫ぜると、車体の中から矛を取り出した。
古井戸に落ちてから何度目かの泣きたい気分だった。言葉が分かったとしても、「敵」と認識されたのじゃその効用がどこまであるかは分かったものではない。
「イシ、こらアカン、こらアカンでぇ」
傍らの石堂に僕は縋りたい気分だった。
しかし、彼は僕には答えてくれなかった。彼が答えようとしたのは、今しもこちらに向きをかえようとしている車上の女性達にだった。
「ベッピンさーんやーあ! これ、打ってみんかい!」
彼は、背中を丸めるという自制心を突如解放すると、その巨体をもって草むらから立ち上がった。
そして、彼のヒーローである南海ホークスの杉浦ばりに身体を低くくねらせると、馬車の主人に向かってありったけの力で野球のボールを放り込んだ。予想外すぎる一投だった。
着ている服の色にも似た、少女の蒼ざめた表情が見えたような気がした。
一体全体、古代中国には杉浦ばりの華麗さで球を放り投げる男などいなかっただろう。そういう意味ではこちらへと走り寄り始めた馬車に軟球を投げつけた石堂の選択はまあ、間違ってはいなかったのかもしれない。
しかし、彼は別に万能なわけではない。所詮はスポーツが出来て勉強も出来る、優秀ではあるがそこらのクラスに一人か二人はいる十七歳の高校生にすぎないのだ。
だから、彼のそんな速球を平然と矛で打ち返す美女がいるなどということを彼が予想だにしなかったとしても責められはしないだろう。
「アッハッハッハッ!」
また、高笑いが草原に響いた。そして、古井戸に二人して落ちてまで見つけたボールは軽やかな音と共に百メートルの彼方へと飛び去って行ってしまった。矛でもって。
「鬼公の兵ではないようだなあ、リツ!」
「ええ。しかし婦好様、油断は禁物です」
手綱を握る「リツ」の凛々しい顔が馬の速度と共にこちらの視界に広がり始める。
「な、ハタ坊」
「イシ……こんボケェ」
大アーチを描いたばかりの矛を持った「婦好」の綺麗な瞳が迫ってくる。しかし、その吸い込まれるような聡明さに見とれるなど無理な話だ。が、また泣きたくなってしまった僕に、石堂がかけた言葉ほど単純なものはなかった。
「とりあえず逃げよか」
言うや否やで彼は繁みをぬって駆け出した。仕方なく僕も後に続く。そしてもちろん、車輪の響きと大音声の笑い声が僕らを追いかけはじめた。