「聖剣物語」(はち様)より
日本文学専攻に、この前トンデモない留学生が入学したらしいと教えてくれたのは中田だった。
「ま、あたしもよく知らないのよね」
シャツを脱いだら毛先が乳首を覆ってしまうような長髪が、ツユに浸らないように気にしながらでラーメンを啜る彼は、ツユで汚らしく光る髭を指で拭いながらでそう言った。
「知らんのに、トンデモないって何故分かる?」
学生食堂の、美味しいなどというセリフは百円もらっても言いたくないウドンに万遍なくコショウを振りかけながらで僕は問いただした。
「まずネ。その子、大した美人らしいのよ」
「可愛いんか……でも、トンデモない、とは違うな。それ」
ウドンを口元に運びながらで僕は答えた。味覚を侮辱するだけの香辛料が、食い物への冒涜の天罰と言わんばかりに舌の上で怒り狂っている。
「ううん、それだけじゃないのよ」
「じゃあ、何だって言うんだ」
「その子ね。気に入らないものみると、こう、ね、目に血管浮かび上がらせて中指を立てるんですって」
たまらない話だ、と言わんばかりに中田は目を細めて頭を軽くふった。手入れされない髪が、当然のようにラーメンのドンブリへと『突撃』していく。
その光景をみた僕はすっかり食欲を失くし、この場は話のみに集中することにした。後で駅前の喫茶店のトーストでも食べたらいい。
「ああ、アメリカのだっけ。『いてもうたる』みたいなサインだったか?」
「そう、そう!」
中田は女の子のように軽く胸元で両手をあわせる。トーストもいらない、コーヒーだけでいいと思った。この男と飯を食うという選択がそもそもの誤りだ。その出で立ちと仕草は、食欲だろうがなんだろうが、全ての欲望を減退させてしまいかねない威力をもっている。
「確かにトンデモないな……ってことはアメリカの女の子か?」
「ううん、中央アジアか東欧のどこかだったはずよ」
「中央アジアやて?」
「そう。ホラ、世界史で『なんとか~ハン国』とかあったでしょ? あのあたりの出身だって」
「しかし、そこいらソビエトの支配下だろ? そんなハン国なんてまだあるのかね?」
「知らないわよォ」
中田がこちらの眼の前まで身を乗り出した。ツユに漬けこまれた彼の髪が、洗い立ての青いシャツに容赦なく飛沫をまき散らしていく。
僕は泣きたくなった。世の中に失恋以上の悲劇があるとするなら、クリーニング店にまで出したお気に入りのシャツを、次の日にまたクリーニング店に持ち込むことだろう。
「でも、あのあたりだったらヨーロッパとアジアのいいとこどりの顔してるに決まっているワ。それでいてこう、強気なところがあるなんてたまらないわよねえ……」
十字架に祈りをささげるようなポーズに両手を絡ませた中田は、ため息をついて天井を仰いだ。
講義があるからと言って、中田は一号館に消えていった。その姿を見送りながらの僕は、どうも調子が上がらない。吾妻多英といい今の中田一誠といい、どうも東北の人間というのは調子を狂わせる何かをもっている。
いてくれることは助かるのだが。
そんな僕は、午後最初の講義を飛ばしてしまった。中田の姿が見えなくなった途端に、猛烈に空腹が蘇ってきたのだ。授業を受けるにはいささかの不安があった。
十五分後、僕は駅前の喫茶店でスポーツ新聞を読みながらトーストを齧り、アイスコーヒーを啜っていた。タイガースは六連敗を喫していた。江夏がまた、負けたのだ。
ただ、今の僕にとっては江夏が王に二本も打たれたなどささやかな失望に過ぎなかった。
向かいのソファー席には吾妻多英と、それから何といったらいいのだろうか。一頃のリンゴ・スターのような綺麗なマッシュルーム・カットの金髪の少女がにこやかに佇んでいた。
「波多野クン、紹介するわ。先日ウチの大学に留学してきたベルちゃん。スナイルスタン共和国の出身よ」
いきなり我がボックス席に闖入した喜多方の少女はそう言うと、左隣の席の少女を紹介した。どことなくエキゾチックな瞳の色をした少女は、吾妻多英がしゃべっている間こそその声を曇りのない表情で聴いていたが、やがて愛嬌のある丸く愛くるしい顔をこちらへと向けた。
そして、僕に向かって両腕の中指を天を射ぬくかのように突き立てた。
「あのさぁ……吾妻さん。さっき中田と話をしていたんだけど、凄い女の子が日本文学に入ったって聞いたんだけど。それってまさか……」
「ああ、多分、このベルちゃんのことでしょ」
やってきたウエイトレスにチョコレート・サンデーとオレンジ・ジュース、それからライス・カレーを二つずつ注文した後、吾妻多英は事もなげに言った。
「そう……。色々言いたいことはあるけど、なんでまたここに来たのさ」
「学科違うけど、一緒の講義で会って話をしたら私達気が合うみたいなのよ。で、波多野クンが授業も受けずに校外に出ようとしているの見かけたから引き合わせてみようと思って」
「はぇー」
色々の事情が呑み込めない僕は、アホのような声を昼下がりの喫茶店で発するしかなかった。店内で流れているデイヴ・ディー・グループの古いヒット曲のかけ声に、こちらのマヌケなため息がなだれ込んでいく。
「『失恋して虚脱状態になっているモルモット見ない?』って誘ったら授業サボっても見物したいって言ってくれたのよ」
「それはそれは、光栄なこって」
僕は『わかば』に火を点けた。女性二人に「観察」されるとなると、落ち着かない以上はタバコでも吸って曖昧のままにやりすごすしかない。
その時だった。
「オーケイ!」
ベルと呼ばれた少女が叫んだ。そして、メニューが書かれた厚紙のボードを掴んで立ち上がると、それでもって僕の頭をしたたかに打った。異国の少女がまとっているスカートの鮮やかな赤と、目から飛び出るような火花が視界を同時に占領し、鈍い音がボックス席に満ち溢れる。
「ぎゃん!」
「ベルちゃんね、波多野クンに『不誠実な態度はやがて剣に滅ぼされる』って言ってるわ。共和国の古い格言ですって」
「絶対嘘や! 流れている曲の『オーケイ!』いう掛け声にあわせただけやないか」
周りの客とウエイトレスとウエイターが不安げにこちらの様子をうかがっているな、と思った瞬間、ベルと呼ばれる少女の第二弾が攻め上がってくる。
「オーケイ!」
「ひゃん!」
「ベルちゃんね、『女の言葉を疑う王は破滅する』ですって。これも共和国の格言で、向こうでは小学生でも知ってる言葉なんだって」
「そんな!」
僕は長髪を掻き毟りながら、少女に打たれた部位を右手で抑えた。結構、痛い。タイガースに入ってくれたら軽く十本は打ちそうなスイングだ。
ただ、痛みの中にもおかしさがあった。遠い国のことわざだかなんだか知らないが、美人に「王」だなんて言葉をほんの少しだけでも自分のものとして使われるのは悪いものではない。そういえば、石堂あたりだったらこの少女を女優の誰だと形容しただろう?
そんなことを考えているうちに、僕は少し愉快になって顔がほころんだ。が、昼下がりの明大前の「王」には言葉通り「破滅」しか待ってないようだ。
「オーケイ!」
「ヒェーッ!」
「『自惚れる王を剣が貫く』ってベルちゃん言ってるわよ。波多野クン」
「吾妻さん、この子こちらの心のうちでも読めるのかい?」
厚紙とはいえ、流石に三連発はこたえるものだ。僕は目尻に涙を浮かべながらで、小柄な少女に問うた。
「さあねえ」
吾妻多英は笑いながら『クール』を一口吸った。それと同時に、少女達の前に注文したメニューの品々が運ばれてくる。
しばらくの間、「オーケイ!」はこだましなかった。何せ、二人はライス・カレーとチョコレート・サンデーを続けて平らげなきゃならないのだ。アイスクリームが溶けるのを気にしながらにカレーをかきこみ、それからでサンデーを攻略するのは時間との勝負なのだ。二人ともどうしても無言になるというものだろう。もちろん厚紙も襲ってはこない。サイレンス・イズ・ゴールデン。平和である。
「そういやベルさんが日本文学専攻って聞いたんだけど、好きな日本人作家がいるの?」
嵐のような食事が終わり、口直しのコーヒーを飲んでいる少女に向かって僕は質問した。「オーケイ!」なんてかけ声の曲はとうに終わっていた。質問もまあ、真面目なものだし、殴られる心配はなさそうだ。
「ジュンイチロー・タニザキ、ネ」
少女は会ってから初めてで、まともな会話を僕との間にもってくれた。笑顔の中でストローを口にふくんで品よくアイスコーヒーを飲む姿は、さっきこちらが一言発する度に頭を打ってきた人物と同じとは到底、思えなかった。
「谷崎かあ」
「だから波多野クンに引き合わせたかったのよ」
吾妻多英が横から会話に加わった。
「え?」
「だって、波多野クンの情けなさって、ある意味谷崎の世界に出てくる男達に似ていると思うのよ。モルモット、谷崎の世界のハジっこにいるような学生でもあるのよ、って言ったらベルちゃんもすぐに『オーケイ!』って」
吾妻多英は肩を揺らして楽しそうに笑った。華奢な肩が揺れる度に、グラスの中の氷が小気味のいい音を立てる。
「うーん……」
そう言われてしまうと僕は少し腕を組んで考え込んでしまった。谷崎といえば、最後に読んだのが『瘋癲老人日記』なのだ。
「文豪の書く人物に似ているだなんて、こんな私と甲乙つけがたい美少女に言われたのよ。名誉よぉ、波多野クン!」
吾妻多英はその言葉を最後に立ちあがった。続いてベルが立ち上がる。金髪の少女の赤いロングスカートが、通路にてその華やかな出で立ちを今一度アピールし始める。
「さて、私達は途中からだけど講義に戻るわ。波多野クンもサボってないで、サッサと戻るのよ。……あ、ベルちゃん、最後にこのモルモットに伝えておきたいことってある?」
吾妻多英に促されたベルは、狭い通路で体の向きを変えた。そしてもう一度、こちらに向かって両の手の中指を突き立てたのだった。
「ベルちゃんのお国のサインよ。昔の戦争で、『いい加減もっとしっかりしなさい』って前線に伝えるために伝令が馬上からこれをしたんですって」
「ガンバルノヨ、ハタノ、サン」
「ふむ……」
店の入口にすえられた鐘が鳴り、二人は出て行った。しばらくの間僕は、雨が降りそうな曇り空の中、窓外を並んで歩きながら遠ざかっていく二人を見送っていたが、やがてその姿が陸橋の先に消えていったのを見届けると、テーブルに向き直り食べかけの冷えたトーストを口に放り込んだ。
「ガンバルノヨ、か……」
食後の一服を咥えると、僕は遠い国から来た少女の言葉を繰り返してみた。わけのわからないままに、電光石火で額を打たれたが、ああいう美少女にかけられる言葉としては上等の部類だろう。煙を一つ吐き出すと、何となくではあるが明るい気分になった。タイガースだって、そろそろ勝つかもしれない。
上機嫌のうちに、僕はテーブルの隅に畳んでおいたスポーツ新聞を取り上げた。が、すぐに表情を一変させることになる。
紙面の間からコツリと鈍い音をして、こちらのものではない伝票がテーブルに転がったのだ。優に千円を超えて、二人前ずつでの複数の品が書かれているそれが、何を意味するのかは言うまでもなかった。
「これはオーケイ! ……じゃあないよなあ」
財布の中身を睨みながらの僕は呟くしかなかった。頭の片隅で二人の少女が笑っている、そんな気がした僕は何とはなしに苦笑した。一日分近いアルバイト代が吹き飛ばされたが、不思議と愉快だったからだ。
梅雨に入るか入らないかという、金曜日の午後だった。僕はソファにもたれて伸びをすると、この一本を吸ったら学校に戻ろうかと思った。