春の結晶
俺は、教室から出て職員室に向かって歩いた。
目の前に、大勢の新しい一年生たちがいた。瞳は、キラキラと輝いていて、これからの高校生活に期待を膨らませているのが手に取るようにわかった。みんな制服は真新しく、顔もあどけなかったなぁ。
俺は、卒業する頃までこの期待に夢膨らませている若い希望を、一つでも多く叶えたい。もちろん俺の野望は簿記部の再生だ。
階段を駆け下りていると、広川先生が下の階から登ってきた。
広川先生は相変わらず高校教師とは思えないような洋服を着て、男子生徒を誘うような謎のフェロモンを振りまきながら歩いている。2年生や3年生にも広川ファンは多い。広川ファンは、上の階から下の階へと降る時に広川先生が下の階から上がってこないだろうかと期待をし、そして、下の階から上の階へと上がる時に広川先生が、前方で階段を上がっていっていないかと淡い期待を毎日抱いている。しかし、俺は知っている。広川先生は広川ファンの行動を実はよくわかっているのだ。大変な女性である。いや、女帝である。この南商業に広川ありと言われる日はそう遠くないかもしれない。
「広川先生」
俺は、広川先生に声をかけた。
「あら。諸星先生」
「広川先生は、授業ですか」
「ええ。先生は何をされているんですか。確か、今年から新入生の1年生のクラスを担当しているんじゃなかったでしたっけ」
先生は、下の階から俺の方を見上げていた。うっすらと視線が、ある場所に行きそうになるが、これは通称広川トラップである。このトラップの犠牲者になった男子生徒は後を絶たない。広川トラップの恐ろしさは、この南商業と関わりのある人間であるならば、よくわかっているはずである。そして、視線をずらせば後で何を言われるかわからないのである。
「ちょっと、忘れ物を職員室に取りに」
「そうでしたか。あ、そういえば先日居酒屋で話した先生の野望は叶いそうですか?」
先日は、俺は広川先生と他数名の同僚教師と一緒に飲み屋に行って教育談義を行っていた。いや、というか酔った勢いで、俺の考えている商業高校のあり方を語っただけだ。一部の人から見れば、単なる厚い若手教師であるが、違う一部の人から見ればウザイ新人教師である。
「そうですね。叶えられるかは後で配るプリント次第だと思います」
俺は、先生に笑顔で答えた。
「叶うといいですね」
先生は、俺に笑顔で答えた。
「はい」
俺は、広川先生と別れたあと、職員室に入り、自分の席に向かった。
俺の机の上には、人数分コピーした紙が置いてあった。これは、自分で作ったプリントである。
「お。いよいよ配るんだね」
後ろから、情報処理の室井が現れた。
「なんだよ。そんな、人を変人扱いするような目でみるなよ」
情報処理の室井は、ワイシャツにカーディガンを着て、その上から白い白衣を黒縁メガネをかけて俺の後ろから現れた。室井は、とても痩せているし、情報処理科の先生なのにどうして白衣を着ているのか未だに俺にはわからなかった。
「変人だろう」
「否定はしない」
室井は、片手を左右に振って、否定をしないアピールをしてきた。
「それで、いよいよ君のその涙ぐましい努力で作られたプリントを配るのかい?」
室井はプリントに指をさして言った。
「ああ」
俺は、プリントに手を置いた。
「おまえ、春休み中ずっとそのプリント作ってたもんな。春休みだってのに」
「春休みくらいしかまとまって作れる時間ないだろう」
「いや、そうだけさぁ……」
室井は、白衣のポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手で頭をかいた。やれやれといったような表情だった。
「このプリントを見たら彼らは、やる気になってくれるだろうか」
「すまない。凡人の俺が言うのものなんだけど、多分嫌がる」
俺は室井を悲しい目で睨みつけた。
「おいおい。そんなチワワみたいな目で俺を見んなよ。冗談に決まってんだろう」
俺は、一瞬自信を失いかけたが、なんとか踏みとどまった。室井の悪いところでもあり、俺の悪いところでもある。俺は自信家ではあるが、ちょっとしたことでメンタルが崩れることもある。自分のやっていることが100%正しいと思っている人間は、それは単なる過信とは知らない。俺はそう思うから自分のやっていることは間違うこともあると思っていて、そのあると思っている隙間にメンタルを崩す何かが侵入しているのだと最近気がついた。
「まぁ、いいわ。そろそろ教室に戻らないと」
俺は、プリントを両手で持って、職員室から出ようとした。室井は「まぁ、頑張れ。数名は情報処理部に人員をわけてくれると助かるよ。健闘を祈る」と捨て台詞を吐いた。俺は「はいはい」と適当な返事をして職員室を出た。
階段を上がって、行く途中、広川先生が男子生徒と話している姿をみかけた。
俺は、ちらっと横目で見てから、もう一度階段を昇り始めたのだった。