四章 [23]
* * *
その夜、飛露はひとり宮殿内を歩いていた。赤覇や水蓮とは禁軍の拠点近くまで帰ったが、用があるとそこから引き返したのだ。
王宮内――特に飛露が今歩いている南岸部分は、多くの官吏が出入りする公の場なのだが、誰も飛露に意識を向けない。禁軍の部下とすれ違うこともあったが、飛露を視界に収めはしても彼に気づいてはいなかった。
今の飛露からは、全く気配を感じられないのだ。
気を絶って辺りの気にまぎれ、その存在を希薄なものとしていた。
急に気を絶ってしまうと気の感度が良い者に怪しまれる可能性があるので、飛露は辺りを無意味に歩きながら時間をかけて気を消した。準備は万端だ。
飛露は踵を返して禁軍の拠点へと戻った。目指すは、水蓮。飛露は時間がある時にはできる限り彼女を監視するようにしていた。
気を絶っていても、そこに存在する事実を消すことはできない。飛露は足音を消し、自分の動きで生まれる空気の流れさえ最小に抑えつつ水蓮のいる場所へと向かった。水蓮が部屋に戻って休む可能性もあったが、今日は運が良かった。
人気のない訓練場の隅にたたずむ彼女の近くには、もう一つ小さな気。大きさは小動物のそれだが、気の質は鳥獣のそれよりももっと複雑だ。かつて志閃が「人が鳥になっている」と例えた気と同じもの。今日なら、その正体がわかるかもしれない。
気配を消した飛露は、思い切って水蓮の姿が完全に視認できるところまで近寄った。建物と植木の間に身を寄せ、息をひそめる。
水蓮は小鳥を肩にのせて瞑想しているようだった。かすかに唇が動いているように見えるが、声は聞こえない。
小鳥はよほど水蓮になついているのか、彼女のほほに頭を摺り寄せ、ときどきリュリュと高く愛らしい声で鳴いている。
――何を話している?
飛露は小さく動く水蓮の口元に集中したが、あまりに小さな動きのため口の形から発している言葉を推測することは難しそうだ。これ以上近づくと水蓮に気付かれるかもしれない。
飛露は首に提げた小さな宝玉を取り出した。普段衣服の下に隠しているそれは、先日志閃の頼みごとを聞いた際に受け取ったものだ。彼と共に王宮中に気の流れを監視する仕掛けを施し、この宝玉はその受信機にあたる。これに意識を集中すれば、王宮中の気の動きがわかる。
しかし、王宮中の気の流れを把握しようとすると、目が回ってしまいそうなほど多量の気を感じることになってしまうため、飛露は自分の周りだけの気を感じるように調整した。
水蓮の気は、瞑想しているせいもありとても静かで落ち着いている。流れのない深い深い湖の底に浮かんでいる気分だ。目の前の光景が群青がかって見えそうなほど水蓮の気が満ちているものの、それはすべて彼女を中心に停滞しており、不自然な流出はない。
飛露はもどかしい思いをしながら、水蓮が立ち上がり禁軍の宿舎を目指すまで監視を続けた。最後まで彼女が敵国の内通者である決定的な証拠はつかめなかったが……。
水蓮が立ち去った後も、飛露は気配を消したまま、しばらく無言でたたずんでいた。影にまぎれ、気も完全に感じられなくした彼に気づく者はいないだろう。
気の流れで水蓮が完全に去ったと確信してやっと飛露は身じろぎした。ゆっくりと歩きはじめながら、消す時と同様徐々に気を戻していく。
太り始めた月とかすかな星明りしかない空のもと、彼の表情は見えなかった。
「わたしは、騙されぬぞ。水蓮」
そうつぶやいた言葉も、生暖かい夜風に溶けていった。




