序章 [3/3]
「人っ!?」
泉蝶はそう認識した瞬間、急な山肌を滑り下りはじめた。普段ならゆっくりと蛇行しながら降りる斜面だが、今は倒れているものをはっきりと確認したい気持ちが先にたった。
手近にあった木の棒を拾い、それを自分の後ろの地面に刺して勢いをころしながら、革製の長靴で小石を蹴散らす。跳ね上がった砂利や小枝がむき出しの腕や顔を打つが気にしない。
幸い良く通る斜面なので、障害になりそうな大岩やくぼみの位置は全て把握してある。それらを避けつつ、器用に身体の均衡を保ちながら谷底まで下りることができた。
まだ下へ行く慣性が残っていたので、それをころすために一度転がり、それでも消えなかった勢いは目の前にあった岩を蹴って無理やり消す。
大小様々な岩が敷き詰められた上を転がったせいで体中が痛んだが、受け身はとった。体を動かすのに支障はない。
泉蝶は普段と変わらない所作で、倒れた人へと歩み寄った。
もう完全に疑いようもなく人だ。うつぶせに倒れた小柄な人間。気を失っているのかピクリとも動かない。
「生きていますように」
そうつぶやき、心の中ではこの国――桃源の真上に住むと言い伝えられる神仙の加護を祈る。
そっと触れた肌は冷たかった。
はっとして手に力を込めると、弱いながらも鼓動を感じられる。
とりあえずは安心したものの、この肌の冷たさは異常だ。渓流の雪解け水でかなり冷やされてしまっている。
泉蝶はうつぶせに倒れていた人を素早く仰向けにした。
少女だった。歳十七、八くらいの。
体の下に抱き込まれていた右腕は袖が裂け、その下から大きな生傷がのぞいている。獣の爪痕のように見えた。血はあまり出ていないが深そうだ。
泉蝶は腰に提げていた袋から、手拭いを取り出した。清流で顔を洗った後拭くために持ってきていたものだが、ためらいなく縦に裂いて包帯代わりに強く巻きつける。
体が冷たかったのは、ただ水で冷やされただけでなく、血が少なくなっているせいもあるのだろう。
「まずいわね……」
どうも急を要するようだ。
泉蝶は少女を背負った。より安定性を増すために、鞘におさめた剣で少女の尻を支える。
そしてできるだけ少女に衝撃を伝えないように、しかし素早く、十分な医療設備の整っている禁軍の拠点を目指した。