七章 [9]
「…………ごめんなさい。私余計なことを訊いてしまったわね」
志閃に亡くなった父と兄のことを話させてしまって、泉蝶はわずかに頭を下げて小さくなった。
「いーのいーの。俺は全然気にしてないし。兄貴が死んで、次男の俺が家を継がないといけなくなったのは面倒だけど、それくらい」
志閃はいつも通りへらへら笑っている。
「……良いお父様とお兄様だったのね」
「まぁ、仕事人間で、あんまり家に帰ってこない人たちだったけど、あの二人が完成させた術はすごいし、尊敬もしてるよ。『あんまり家に帰ってこない』ってのは、俺が文句言えた立場じゃないしね」
「これは親父の失敗作だけど――」と志閃は、立ち上がって書き物机の引き出しから札を一枚取り出した。
「少しの時間なら大丈夫だから」
そう言ってその札を泉蝶に差し出す。「失敗作」「少しの時間なら大丈夫」と言う言葉に不安を感じつつも、泉蝶は恐る恐るそれを受け取った。
その瞬間、周りの世界が一変した。
自分の中心に澄んだ何かの存在を感じる。今、札を受け取った自分の手、視界に入る体から、キラキラした光の粉が舞い上がる。それと同時に自分の中の澄んだ存在がゆっくり溶け出して、体から発される光の粉になっているのだと理解した。光の粉は常にたくさん舞い上がるが、その根源は枯れることなく自分の中心から湧き出ているらしい。
すぐ近くに陽だまりのような温かな熱を感じでそちらを見ると、志閃が穏やかにほほえんでいた。
「どよ?」
そう得意げに尋ねてくる。命に満ちた鮮やかな緑の気を纏う彼は、さんさんと降り注ぐ陽光を浴びて天を目指す一本の大きな木のようであり、輝く陽光そのものであるようにも見えた。
「すごく……、すごく、きれいだわ」
泉蝶は思わず志閃のほほに手を伸ばしていた。子どものころ、太陽に近づきたくて高い山に登っては、空にめいいっぱい腕を伸ばしていたことをふと思い出した。こちらの太陽なら、触れる。
志閃は泉蝶が触れやすいように、彼女の隣まで寄ってきてくれた。
志閃に触れると、指先からじんわりと彼の気のぬくもりが伝わってくる。それがゆっくりと全身にいきわたり、春の陽だまりのような温かさが体を包んだ。
「ごめんね」
そう断りつつ、志閃が泉蝶の腰を抱き寄せてきた。太陽が近づく。そのぬくもりがもっとほしくて、泉蝶も陽光のあたたかさを放つ志閃に寄り添った。眠気をはらんだ安心感に、目を閉じる。
「空を見てごらん」
若葉のような緑色の気を放つ志閃の手が、窓の外を指さす。その声もいつもよりやさしく、あたたかく、穏やかに聞こえる。
命の光が尾を引く志閃の指先に誘われて、泉蝶は顔を上げた。
空の青と地上の間に淡い光の帯。赤かと思えば黄色に、青に、紫に、緑に――。薄い絹のようにひだを寄せたかと思えば、磨き上げた宝石のように照り輝く。常に色と形を変えて世界を覆っているそれは、桃源国を守るように広がる気の流れだ。
「……すごい」
もう吐息交じりのそんな言葉しか出ない。
「これは、俺たち、気を感じられる人間が見ている世界だよ。たぶん、術のおかげでたいていの仙術使いが見ているのよりもより鮮やかにはっきりと気が見えてると思うけど……。俺もこの札に触ると、少し世界が変わる。……やばい、ぜんぶがめっちゃきれい」
志閃のあたたかな手が札を持つ泉蝶の手を強く握った。
「神様や仙人様にはきっとこんな世界が見えてるんだろうね。泉蝶ちゃんの気、俺なんかが触れていいのか不安になるくらいきれい」
「あなたは、おひさまね」
泉蝶は志閃のほほに触れていた手を彼の頭に回した。軽く抱き寄せると、彼もやさしく抱き返してきた。
「やばい……、むっちゃ幸せ……」
そんな吐息交じりの声が泉蝶の耳元で聞こえる。
「……でも、この術は失敗作だから、長く使うと気を食われるんだよね」
しかしそう言って、志閃は泉蝶の持つ札を強く握りつぶした。そのまま指先で穴をあける。
その瞬間、世界が戻った。急にあたりが暗く、体が重くなる。いまだに寄り添っている志閃の体はあいかわらずあたたかいが、そのぬくもりが生々しい。
「……っ! はなれなさい! 変態!!」
泉蝶は思わずそう叫んで、彼のほほに平手打ちを見舞っていた。パチンと言う気味の良い音が響く。
「いやいやいや、先に触ってきたの泉蝶ちゃんの方だかんね!」
志閃は慌ててその場を離れつつ文句を言っている。




