七章 [7]
「そしてもう一つ――」
妖舜は泉蝶に歩み寄った。突然距離を詰めてきた妖舜に泉蝶は身構える。
「な、殴るなよ! 俺は本当にすぐやられるからな」
彼女の強く握りしめられたこぶしを見て、妖舜は慌てて両手を上げた。
「急に間合いに入られたら警戒するに決まってるでしょ」
泉蝶はこぶしを解きつつも、妖舜の一挙手一投足に注意を払っている。
「こういう、男性が突然近づいてきて耳打ちする状況に、女性はときめくものだろう?」
「あたしには当てはまらないわね」
泉蝶の答えは冷たい。男女の駆け引きとは全く縁がないらしき姫将軍に、妖舜はため息をついた。殴られたくはないので、しぐさで泉蝶に耳を貸すよう示す。
「変なこと言ったら承知しないわよ」
そうくぎを刺しつつ、妖舜の目の前に立った泉蝶の耳に、妖舜は二つ目の頼みを呟いた。誰にも盗み聞きされないよう、術で工夫して。
「そんなことできないわ」
泉蝶は目を丸くして、ささやき返した。
「いざと言うときは王紀将軍に協力してもらっても構わない。志閃を禁軍に戻すために必要なことだ。だが、その時が来るまでは、誰にも言わないでほしい。もちろん、志閃にもだ」
この言葉にも泉蝶以外には聞こえないよう術をかけている。
「でも――」
泉蝶は心細そうな顔で妖舜を見上げた。
「万一の話だ。万一そうなったら、頼みたい。仙術部隊と禁軍のためだ。どうしても無理そうなら、忘れてくれても構わないが……」
妖舜は泉蝶に逃げ道を与えてくれたが、彼の二つ目の頼みは、志閃の副官としての指示のようにもとれた。それならば、うなずくしかない。……のだろうか。
「そうならないよう祈るわ」
泉蝶は胸の前で両手の指を組み合わせた。
「一応、あなたの頼みは聞いたことにしておくけれど」
多くを語らない飛露の態度も、妖舜の頼みも不安の種でしかない。それでも、仲間のことは信じなければ。泉蝶は、胸に広がりそうになる暗い感情を、無理やり心の底へ追いやった。
「助かる」
妖舜の陰を帯びた顔には、はかなげな笑みが浮いている。
「負担をかけて申し訳ない」
そして、妖舜は仙術部隊兵舎の自室へと戻っていった。様々な場所から依頼された占い結果を送る仕事があるのだと言う。
一方の泉蝶は、軽い昼食をとって、外出準備を始めた。向かうのは、妖舜に言われた通り、志閃の実家だ。もらった地図は簡潔だが丁寧に描かれている。
場所は帝都の中央部。広い通りに面した大きな屋敷だ。周りには同じような頑丈な塀と広い敷地を持つ屋敷が立ち並んでいた。貴族や要職に就く人々が多く住む一帯のようだ。
――良家の出身なのね。
志閃の家の前まで来た泉蝶は、重そうな門扉を見上げてそう思った。
初めて来たものの、わかりやすい地図と大きな目的地のおかげで、全く迷うことなく来れた。門扉の脇には小部屋があり、そこで老年の男性が一人机に向って何かをしたためている。
「ちょっといいかしら」
泉蝶は老爺に声をかけた。耳が遠くないか不安だったものの、ちゃんと聞こえたようで彼は顔を上げた。
「禁軍の泉蝶将軍ですね」
泉蝶の顔を見知っているようで、老爺はそう顔をほころばせた。
「そうよ。志閃に用があって来たのだけれど……」
「かしこまりました」
老爺はうなずくと、向かっている机から紙を一枚掬い上げて、それを宙に放った。ふわりと浮いた紙は、空中で折りたたまれて簡素化された鳥の形になると、小刻みに羽をパタパタさせて泉蝶の目の前に浮かんだ。
「志閃様はご在宅です。こちらの式神がご案内いたしますので、ついていってくださいませ。現在、この屋敷にはわたくししか使用人がおらず、式神による案内になります無礼、お許しください」
「構わないわ」
こんなに大きな屋敷なのに、志閃とこの老爺しかいないのか。寂しいものだ。
泉蝶はせわしなく羽ばたく式神の案内で広い庭園を進む。よく手入れされているが、どこか物寂しく感じる。本来なら季節の草花が植えられるべき花壇には、よく肥えた腐葉土が満たされているだけで、大きなに池の水は澄んでいるものの魚の気配はない。
普段あんなに騒がしい志閃が、こんな殺風景で生活感のない屋敷に住んでいるのが意外だった。
泉蝶を案内する式神は、彼女の歩みの速さに合わせて飛ぶ速度を変えつつ、庭をまっすぐ横切っていく。視線を式神の先に向けると、そこには見慣れたぼさぼさ頭の人影。庭に面した廊下の端であぐらをかき、目を閉じて瞑想しているようだった。
式神はすぅっと志閃の肩にとまると、もとの紙切れに戻ってしまった。志閃がゆっくりと目を開けながらその紙が地面に落ちる前に受け止める。ぼんやりとそれを見て、ゆっくりと泉蝶に目を向けた。ほんわかとうれしそうな笑みを浮かべている。




