詠子
その日を境に、大森の日々は一変した。
くすんだ鈍い色あいしか持たなかった毎日が、キラキラとした輝きを放ち始めたのだ。
毎日は、詠子に送るメールの中身や、彼女に勧める映画を考えることだけに捧げられた。
メールの中身はそれまで見てきた、本や映画のこと。
それまで大森が、教室の中では何の意味も持たないと諦めていた、ロメロ・ホドロフスキー・リンチ・乱歩・寺山…そんな言葉に、詠子はいちいち反応した。
それが大森には、たまらなく幸せなことだった。
思えば女性とのメールなど、茶道部女子との業務連絡以外、したことがなかった。
メールは止まらない。
報道ステーションが終わったら文庫本読んで宿題して寝る。が日課の大森が、深夜2時を回るまで、詠子と交信し続けた。
やがて二人は週末に会うようになる。
映画を見て、終電近くまで二人は喋り続けた。
背が高く、黒い髪が長く、笑うと幼くなる詠子を、大森は全ての知識を引っ張り出して笑わせた。
春休みを迎えた大森は、詠子と休みを合わせ、彼女の部屋に遊びに行った。
ホラーが苦手という詠子と、『バタリアン』というB級バカホラー映画を見るためだ。
画面の中で全力疾走をぶちかます、アスリートなゾンビを見ている時、大森ははっきりと悟った。
俺は、詠子が好きだ。
好きで堪らない。
今までの俺が阿呆だったのだ。
恋さえしなければ、無意味な自己主張さえしなければ、人生がしんどくなることはない。
そう思い込んでいた。
得る物は少ないけれど、失うものはないと。
でもそれは間違いだ。
人は人と交わって、初めてとてつもない幸せを得ることが出来るのだ。
「孤独があるのは、人と人の間」と昔誰かが言ってた。
あれ本当だ。
「間」を飛び越えた今、俺はめちゃくちゃに幸せだ。
堪らなく。
詠子が好きだ。
詠子と、ずっと一緒に居たい。
画面では、ゾンビがスパゲッティをぶら下げて唸っている。
詠子は不思議そうに画面を見つめている。
大森は、詠子の肩に手を掛ける。
詠子は、沈黙。
「詠子さん……。」
「…………。」
「す…………す………き…で……す……。」
「…………うん…。」
(うんって何じゃ!!!?)焦る大森。
「私も…………。」
詠子は、耳とほっぺを少し赤くして、スパゲッティまみれのゾンビを見つめている。
大森の体の中では、波が、感動の嵐が吹き荒れていた。
恥ずかしそうにスパゲッティゾンビを見つめる詠子の横顔に、半端ではないいとおしさを掻き立てられた。
詠子の存在自体が、宇宙成立から人類誕生を貫き奇跡よりも重大な奇跡であることを大森ははっきりと察知した。
愛している。愛している。愛している。
詠子を。
堪らなく。
詠子を抱き締めた。
詠子は大森の胸で力を抜く。
その日大森は初めて人との交わりが何たるか、愛とは何かを知った。
そして、童貞を捨てた。
大森が高3の夏休みを迎えた頃、終わりは唐突にやって来た。
その日大森と詠子は、立川のエクセルに居た。
詠子を除いて、大森だけはいつもの二人のように。
「俺、大学行ったり映画部入るよ。
やっぱり、自分で形にしてみたいんだ。
脚本書いたり、監督したり…。
そんでね………。」
「大森くん。」
詠子が言葉を遮る。
今日詠子の様子がおかしいことに、大森はなんとなく気付いてはいた。
詠子はたまに、沈む。
だから、おかしいとは思いつつ、気にはしていなかった。
「なに? お腹痛いの?」
「私ね……。」
生理なのかな?
「私……………。
私……………
彼氏と結婚する。」
何かが、大森の中で、音を立てて、切れた。
「え…………。」
詠子の目にプクリと涙が膨らんでいく。
おもちゃみたいに。
同時に、大森の崩れた何かから、全く別の何かが生まれてきていることを彼は手に取るように理解した。
何かは分からない。
ひどく居心地の悪いものだ。
「私は……
28だから……大森くんは18だから………。
大森くんのこと好きだけど…
私は28だから……。」
詠子のプクリとした涙が表面張力に耐えられず、落ちる。
やっぱりおもちゃのようで、形のきれいな透明な涙。
大森は、笑っていた。
正確には笑い顔をしていた。
しかし得体の知れない何かはブクリブクリと肥満仕切った体を膨張させる。
「何か」が大森の中で膨らむに比例して、手の先が痺れ、鼓動が半端ではなく早くなる。
詠子の言葉を咀嚼しようとする程、詠子に全く関連しない意識が、加速度的に大森の中で広がっていった。
その中には、腐った汚濁に満ちている。
大森は、それだけは理解出来た。
「もうね……好きって気持ちだけじゃね…
生きていけないんだ…」
詠子の涙は止まらない。
大森は、笑い顔だ。
「結婚………するの…。」
コクンと、詠子は頷く。
大森の呼吸が早くなる。
頭の芯が痛む。
「彼氏……居たんだね…。」
再び、詠子がコクン。
得体の知れない何かはどんどん膨らむ。
呼吸が意識出来ない。
手の先と頭が痛い。
そしてなんだか、すごくだるい。
「俺のこと…………。」
どう思ってる?という言葉を言うことは出来なかった。
意識を失った大森は、病院に運ばれた。