努力を知らぬ人間は
元婚約者の話です。こいつが一番のクズです。
2026年8月12日
[日間]総合 - すべて
1 位
[日間]総合 - 短編
1 位
[日間]ヒューマンドラマ〔文芸〕 - すべて
1 位
[日間]ヒューマンドラマ〔文芸〕 - 短編
誠にありがとうございます。
誤字脱字などの報告大変助かります。至らぬ点が多々ございますがこれからもよろしくお願いします。
「やはり『サン゠ジュスト家の怪死事件』ですね」
「もちろんです。読んでから思わず自分の過去の行いを振り返ましたよ」
「あのような物語には初めて触れました。恐ろしくもあるのにどこか甘美で……つい何度も読み返して……今日の集まりにも参加させていただいたのです」
「でも、あの噂って本当なのかしら?」
皆、おしゃべりに興じる。
話題となっているのは『サン゠ジュスト家の怪死事件』だった。
僕はその本を読んでいない。あまり読書は好きじゃないんだよね。そんなものは歳をとってからでもできる。若い内は身体を使った遊びをしないとね。
招かれたパーティーで夫人や令嬢たちの話が聞こえてくる。
最近、巷を騒がせている人気の小説『サン゠ジュスト家の怪死事件』。主人公のトレードマークであるマスカレードマスクが印象的で、そのあまりにも人気のため近年行われていなかった仮面舞踏会までも催されるようになったと聞く。
今も僕たちは仮面を被りお互いの素性を知らないまま話をしている。素性を知られないというのは何とも気が楽だ。最近は事業のことでいろいろと話を聞いてくる人が多いからこんな風に肩の力が抜けるパーティーは久しぶりだった。
僕の名前はザイアン゠サンチェス。
妻のクリスの家であるサンチェス家に婿入りした。
クリスも今日は来ているが少し気分がすぐれないらしく席を離れている。
最近、妻の様子が変だと思うことがある。
水や暗闇を恐れるようになった。笑顔も減ってきた。
眠るとうなされていることも増えてあまり眠れていないようだった。目元には隈もできていてその顔はまるで姉のエリスのようだとちょっと思った。
事情を尋ねてみたが妻は何も言わなかった。
暗いのは変わらず気分転換になると思ってこのパーティに連れてきた。
この仮面舞踏会に来てからもどこか落ち着きがなさそうだった。
「……キミ、ザイアンだろう?」
美味いワインに酔いしれていると声をかけてくるものがいた。シンプルな青い仮面の男。顔は見えないが体格や声で誰か分かった。
仮面をした客たちは正体が誰か分からないような服装をし、互いの正体を当てあうゲームも催されることもあるが、今日は素性を尋ねてはならないのがマナーだ。
「キミは……ヨハンか。今日はマナー違反だぞ」
学院時代の知り合いだ。
僕とは違っていつも本を読んでいることが多くて読書家だったのを覚えている。卒業を期に今まで連絡を取り合うこともしていなかったが元気そうだった。
「ゴメンゴメン。いや……むしろ、この場にキミがいることに驚いたんだけど。もしかして奥様——次期当主様も来ているのかい?」
「今は体調がすぐれなくて休んでるよ。今日は息抜きで誘ってみたんだ」
最近は体調を崩すことが多いみたいだ。仕事が忙しいのだろう。そういう時は美味いワインを飲めば気分も晴れる。
「でも、本をあまり読まないキミがこの場に来るなんて珍しいね」
「……何を言ってるんだ? 仮面舞踏会だろう?」
僕は仮面舞踏会だが踊るよりもワインに夢中になる。
このパーティの主催者はかなり有名なワイン評論家だからだ。今も珍しいヴィンテージワインを味わっている。やはりワインと言えばヴィンテージ付きだろう。新しいワインにはない特別な価値がある。
僕は高等学院を卒業してからワインに夢中になっていた。昔は色々な趣味を持っていたが今はワイン一筋だ。ワインは知れば知るほど面白い。知れば知るほどワインは奥深く、終わりのない探求ができる。素晴らしいものだ。とある学者は言った『一本のワインのボトルの中には、すべての書物にある以上の哲学が存在する』まさにその通りだ。
「まあ、それもあるんだが……今日は招待客の多くは『サン゠ジュスト家の怪死事件』のファンさ」
「またそれか。そんなにも面白いものだろうか。さわりを聞くと復讐の話だろう。よく人の不幸を笑えるものだ」
「シャーデンフロイデ——他人の犠牲において楽しむ娯楽だよ。古来も剣闘士の死闘や罪人の残酷な処刑などといった見世物を楽しんだこともあって——」
しまった、こんな風に一度話し始めると止まらない奴だった。
◆
僕の名前はザイアン゠アンカーストレム。
貴族の家に生まれた次男だ。
跡目は兄が継ぐため僕は何処かの家に婿入りするという形になる。
幼いころから貴族教育を受け、貴族たちが通う初等学校に進学した。
初等学校に通ってから数年するとある一人の女生徒が入学しその名前を聞くことが増えてきた。
クリスティーナ゠サンチェス。
なんでもあらゆる部門で天才の名をほしいままにしている才女らしい。遠目に見たことがあるが外見もかなりいい。その可愛らしい姿に骨抜きになる男子生徒が多かった。僕もその例に漏れずその一人だった。
そんな彼女には姉がいるという。
しかも同じ学年。あのクリスティーナの姉……そんな人物には心当たりがなかった。
どんな人間かと思い探してみたががっかりした。妹とはあまり似ていない地味な女生徒だった。名前をエリスというらしい。僕はあっという間に興味を無くし、それ以上は何も思わなかった。僕はクリスティーナを遠目に見つめる日々が続いた。
中等学院に進学すると貴族らしく僕にも縁談の話が上がってきた。
共同事業を進めるための政略結婚だ。
その相手がサンチェス家の令嬢だと聞いて舞い上がった僕を誰が責められるだろうか。次の瞬間には姉のエリスが相手だと分かって一気に気落ちした。
だからと言ってエリスを蔑ろにするつもりはない。
何せ自分が婿入りする相手だ。未来のご当主様との揉め事なんて面倒でしかない。
最初に婚約者と紹介された2人で過ごす時間になったときに彼女は言った。
「……私よりも妹の方がふさわしいのではありませんか?」
そんなこと馬鹿正直に答えられるわけがないだろう。
クリスティーナ嬢と違ってこっちは本当に暗い。僕にも配慮してほしいものだ。
しかも妹にコンプレックスを持っている。持たざる者の嫉妬か。もうちょっと気楽に考えていいだろうに。
「僕は君がいいよ」
事を荒立てないように答えて僕たちの婚約は成立した。
婚約者として共に過ごす時間はいつも僕の方から話を振った。
「エリス嬢はいつも図書館で勉強をしているね。学生会にも所属して仕事も忙しくないのかい?」
「……忙しいですが、やりがいもあります。才能のない私に唯一できることですから。それに新しいことを知ることは楽しいこともあって——」
「そうか。頑張ってるんだね。でも、勉強ばかりしたら息が詰まるよ。今度、乗馬に行かないかい?」
「……はい」
僕の誘いを特に喜ぶこともなく淡々と受け入れる。
けれどもエリスから遊びに誘うことはない。遊びに誘うのはいつも僕からだ。
エリスの話は小難しい仕事のことばかりだった。せっかくの休日に仕事を持ち出してほしくはない。だが、労いの言葉は忘れない。
僕たちはまだ子供だ、難しい話は大人に任せておけばいいのにと思う。正直に言って、エリスはあまり話をしていて楽しい相手ではなかった。
僕たちは高等学院を卒業した。大人になったということだろう。
時期が来れば結婚だ。僕はそのことに少し憂鬱さを覚えていた。
「はあ、どうせ結婚するならクリスティーナ嬢の方がよかったのに……」
いつまでも未練がましく彼女を思ってしまう。むしろ、思いは募るばかりだった。
姉妹ということがあって中途半端にクリスティーナ嬢の面影がある。なればこそ、余計にクリスティーナ嬢を恋しく思った。
「申し訳ありません、遅れてしまいましたっ!」
そんな願いが通じたのかエリスとの顔合わせの時にクリスティーナ嬢が来た。
一瞬、女神の幻覚が見えたのかと思ったが本物の女神だった。
「あ、あれ? エリス嬢は?」
「お、お姉さまは少しお忙しくて。私が代わりに来ました……よろしいでしょうか?」
「……ああ。一緒に過ごしてくれるかい?」
自分の胸の内を知られないように紳士ぶって彼女に着席を促す。
そこから夢のような時間が流れた。
いや、夢であっては困る。
いつも遠目に見ていた彼女が触れられそうなほど近くにいる。
鈴を転がしたような綺麗な声が僕の耳を楽しませてくれる。
僕の話に楽しそうに相槌を打ってくれて気分がいい。
この幸せはこの日だけではなかった。
エリスとの顔合わせの日にはクリスティーナがいつも私を待ってくれていた。エリスはどうやら仕事が忙しいようだ。
お茶だけではなく一緒にショッピングも楽しめる。
エリスへのお土産と言えばクリスティーナもついてきた。メインはもちろんクリスティーナへの贈り物だ。僕の送ったプレゼントが彼女が身に着けていてくれると嬉しくてたまらない。
未来の義妹との交流と言えば周囲にも面目も立つ。エリスと一緒にいる間には満たされなかった僕の何かが満たされていくのが分かる。
「お姉さまはいつも夜遅くまで仕事をされてほとんど眠れていないようです」
「……そうか。色々大変らしいからね。僕にも何か手伝えることがあるといいんだが」
卒業したばかりの僕たちに任せられる仕事なんて大したことはないだろう。もう少し気楽にやればいいのに。
「そのお気持ちは伝わっていると思いますわ」
僕の仕事については部下が優秀なのでうまく回っていると両親から聞いていた。
「……あーごほんっ! またこうして話してくれると嬉しいよ。これからも彼女のことを教えてくれ未来の妹殿」
彼女の笑みに咳ばらいをしてにやけるのを誤魔化す。
「はいっ!」
それからクリスティーナと一緒に過ごせる日を楽しみに日々を過ごした。
だがこうなってくると欲も出てくる。エリスよりも愛らしいクリスティーナに目移りするのは男として当然だろう。
そんなある日にエリスが倒れたと聞いた。
倒れたことをクリスティーナが真っ青な顔で私に話してくれた。
どうやら過労のようだった。そのことに僕は思わず落胆した。
——もし、身体を壊してくれればクリスティーナが僕の……
さすがにその非道な考えをすぐ振り払った。
その日のお茶会はキャンセルということになった。クリスティーナを見送り、お茶会が無くなったことに少し残念な気持ちがあった。
倒れたエリスを見舞うという発想は最初から頭には無かった。
◆
不純ながら僕の望みは叶った。
「申し訳ございませんが、お姉さまとの婚約を無かったことにしていただきたいのです」
クリスティーナからの呼び出しに僕はすぐさまその場へと向かった。
聞かされたのはエリスとの婚約を白紙するという話だった。
「……それはできないよ」
もしもそんなことになればクリスティーナと過ごす時間が無くなってしまう。
クリスティーナと離れてしまうのは嫌だった。この時間を守るためならエリスとの結婚を受け止めるくらい何でもない。
「今、僕たちが携わっている事業はもう両家だけでおさまるものではなくなってきている。今更無くなったなんてできない。分かってほしい……」
家の事業の話を盾に僕は断る。
「いえ。方法はあります。ザイアン様にはお姉さまの代わりに私と結婚していただきたいのです」
まさに青天の霹靂。
その突然の提案にすぐさま飛びつきたかったが、そんな尻軽男のような真似でクリスティーナの心証を悪くするわけにはいかないので、やや渋ったように声を発した。
「……だが、エリスはどうなるんだ?」
「両親と相談しましたが、お姉さまには領地に戻っていただきゆっくりとお身体を休ませていただきます。当主と事業は私が引き継ぎます。領は田舎にあるのでそれほど仕事も多くないと父がおっしゃっていました。お姉さまでもこなせると思います」
はきはきとしっかりと答えるクリスティーナ。
「……そうか」
願ったり叶ったりだ。
エリスは療養で王都からもいなくなる。
何より大義名分であのクリスティーナを手に入れられる。
「お願いします。お姉さまは……十分頑張りました……ですがもう限界なのです。私の婿になってください」
懇願するようにクリスティーナが僕を見上げてくる。
あのクリスティーナからの告白。所有欲や独占欲。男が女性に抱くありとあらゆる欲が満たされる思いだ。
僕に非はないのもいい。
すべてサンチェス家——エリスが原因だという事実が非常によかった。僕が罪悪感を抱く必要はないのだから。
にやける顔を必死に抑え込み嫌われないためのゆっくり言葉を探して口を開く。
「……そうか。分かった僕の両親の説得は任せてくれ。きっと問題ない……これからよろしくクリスティーナ」
「はい。宜しくお願い致します」
それから少しだけ話をしてその日は分かれることになった。
彼女が家に帰る馬車を見送り、僕も馬車に乗り込み周りに誰もいない空間で僕は大きな声を挙げて感情を爆発させた。
馬車を急がせて家に戻る。
今日クリスティーナと話したことを両親に伝えた。
あくまでも残念そうにエリスのことを心配するかのように。
「……そうか。エリス嬢が……それは仕方が無いな。それにあのクリスティーナ嬢が代わりの婚約者にか……悪くない」
父の最後の言葉は誰も聞こえないふりをした。
ここにいる誰もが内心で僕の婚約者がエリスからクリスティーナに代わったことは喜ばしいことだと思っているのだった。
「分かった、了承しよう。ザイアンもそれでいいな」
「はいっ!」
◆
そして、婚約者を変更する旨をエリスに伝える。
彼女が怒るのは当然だった。だが、分かってほしい。
それでここにいるみんなが幸せになれる。
キミも身体を休めることができる。君の家の人間は誰もがキミを心配している。事業だってクリスティーナが進めればもっと効率よく進められるのだろう。
「……私は最初から妹の方がふさわしいのではと言いましたよね? それでもあなたは私がいいと言った。私は期待外れでしたか?」
そんな昔の話を持ち出してこなくてもいいだろうに。本当に暗い女だ。
「私が何かミスでも致しましたか? 成果もしっかりとあげられていますが。貴方たちには物足りませんでしたか?」
私たちに向かって放たれる言葉には堪えたが、それでもこの先にクリスティーナとの幸せが待っているならと僕は耐えた。
エリスは本当にクリスティーナに嫉妬してたのか。
「お前にはうちの所領に行ってもらう。そこでゆっくりと休みなさい」
「……なるほど、私はもう用なしですか」
「違う……そうじゃない……違うんだ……ただ身体を休めてほしくて」
クリスティーナたちの父親の言葉が助け船のようだった。僕はそれに合わせる。
「キミはもう限界だ。もうこれ以上は無理をさせるわけには……」
「ボロボロのお姉さまは見ていられないの」
クリスティーナも僕の言葉に合わせる。
「私の今までの努力は? すべてなかったことにしろということですか? 今までの成果もすべて妹に渡せと? 私の身体が心配? 今更、私の身体のことを考えられるのであればなぜ私の心のことを考えてくださらなかったのですか!? すべてを奪われて終わってもなにも思うことはないのですね!?」
クリスティーナの頬を叩き、エリスは出て行った。
「クリスティーナ!? 大丈夫か?」
「え、ええ。この痛みもお姉さまの辛さに比べれば何とも……」
こんな時にも姉を思う心の優しく美しいクリスティーナが手に入ったことに僕は嬉しかった。
◆
クリスティーナが婚約者となり呼び方もクリスと改めた。
クリスが卒業したら結婚だ。年を重ね少女から女性へと成長し、立派な令嬢であり次期当主にふさわしい品格を持ち始めていた。
僕は周囲からの妬みもあったがそれらはすべて自分が手に入らなかったことに対する八つ当たりだと思えば小気味よくすら思えた。彼女の助けとなるべく僕も仕事に携わる。
「ザイアン様。こちらの土地のことですが、所有者が少しゴネて価格を上げてきていますが」
「え? ああー……キミの判断に任せるよ。期待している」
「はい」
「分からないことはクリスに聞いてくれ。うまくやってくれるだろう」
「かしこまりました」
急に仕事の話を振られても困惑する。勝手に判断していいわけでもない。
最初からクリスのところへ持っていけばいいのに。天才様にかかれば僕なんかよりも手早く上手いこと処理してくれるだろう。そっちの方が効率がいい。持ちつ持たれつだ。
今まで指示を出していたエリスがいなくなり部下たちもまだ混乱しているのかもしれない。
「さて、次のデートの準備をしないとな」
婚約者のクリスを楽しませるのが僕の最優先事項であり僕の仕事だ。
デートの日。
クリスが神妙そうに口を開いた。
「……私もお姉さまにお会いしてもよろしいでしょうか?」
どうやらエリスはまだ怒っているようで自分の両親にも会わないようだった。そんな人間に僕たちがあったところで何かできるとは思えない。何より僕が彼女に会いたくはない。もうあんな風に責められるのは御免だった。
「やめておいた方がいい。今、僕たちが行っても火に油を注ぐ様なものだよ」
「……そうですね」
クリス自身もすでに答えは出ていたのかそれ以上この話が続くことはなかった。
過去によりも未来に目を向けることが大切だ。
◆
そして、ついにクリスと結婚し僕はサンチェス家に婿入りした。名前もザイアン゠サンチェスになった。
事業も軌道に乗り始め、事業は国にも認められた。
来期には陞爵が約束され、跡取りとなる子供も生まれた。
まさに人生の幸せの絶頂だった。
そんなある日。
「お姉さまのいる所領に行こうと思います。子供もお見せしたいですし、渡したいものもあるんです」
クリスが手に持っているのは自身が開発したバラだった。
天才であるクリスにしては珍しく苦戦しているようだったがようやく完成したようだった。
エリスとの婚約が無くなって5年以上が経過していた。
サンチェス家の所領にある屋敷はそれなりに立派だった。
クリスの話では領主の仕事を無難にこなし、幸せに暮らしているらしい。そろそろエリスの溜飲も下がったことだろう。
だが、結果は悲惨だった。
久しぶりに見たエリスは何処か魅せられる女性になっていた。陰りの中に感じる美しさというものだろうか。少し惜しくも思った。
だが、僕は一言も話をすることができなかった。
クリスの努力の結晶は踏みにじられ、館を追い返される。
王都へ帰るための馬車の中はまるで葬儀中のようだった。誰も何も話せない。そんな中に響く子供の笑い声が酷く歪だった。
◆
「……それで、その小説が今日のパーティに何の関係があるんだ?」
長ったらしい話を途中で止めて僕は話を戻す。
ヨハンは懐から1冊の本を取り出す。
噂の『サン゠ジュスト家の怪死事件』だった。
「おいおい、持ってきてたのか?」
思わず笑ってしまった。ヨハンはよほどこの小説ファンらしい。
「ああ。このパーティーに招待されている人間は間違いなくほとんど持っている」
「どうしてさ?」
「だって今日は……」
ヨハンの答えとかぶるように会場の入り口が大きく賑わった。
どうやら有名人が現れたようだ。
著名な人らしく多くの人がそちらへと集まる。
だが、この仮面舞踏会で素性を尋ねることがマナー違反であれば逆に素性をさらすようなこともマナーがいいとは言えない。
「あれは——!!」
「まあまあまあ!! まさに思い描いてた通りのミズ・フューリーですわ!!」
「本物ですの!?」
「では、あの方が? 本当にこのパーティーにいらしたのね!!」
「ああ、ここが小説の舞台のように見えますわ」
歓喜の声が挙がる。
人混みの奥からわずかに姿が見えた。赤い羽根をつけた目元だけの半面型の仮面。黒いマーメイドドレスを着ている。ミズ・フューリー? 知らないな。
そのミズ・フューリーは従者が持っているワインを主催者に渡す。
その主催者は目を見開いて驚いていた。あの辛口の評論家が瞠目するくらいだからよほどのワインなのだろう。それを味わえる時が楽しみだ。
ミズ・フューリーは常に人に囲まれている。
集まった人たちがみんな本を持っている。どうやらサインを求めているようだ。あの女性が作者なのか?
「……噂で……なら、この話は本当に……? いえ、失礼を……」
人の中にはヨハンがいる。彼女の話を聞いて何か驚いているようだったが、それ以上に緊張しているようなたどたどしさだった。
「……申し訳ございません。ただいま戻りました、何かございましたか?」
猫を模した仮面をかぶっているのは我が愛しの妻のクリスだ。騒ぎを見て僕に事情を尋ねる。
「ああ、なんでも有名な人が来ているらしい。キミはミズ・フューリーって知っているかい? その人が来たんだよ」
「……え……?」
私の視線を追ってクリスがミズ・フューリーの姿を捉える。
「き、きゃあああああああああああああああああああああああああああっ!!」
姿を捉えた瞬間に妻は大きな悲鳴を挙げた。その悲鳴はこの世で最も恐ろしい存在を見たようなものだった。
突然の悲鳴に会場の全員が仮面越しでも驚いたの分かった。一斉にこちらを向く。
その中でミズ・フューリーだけが笑っているようだった。
「ど、どうした?」
「………」
だが、事情は聴けなかった。
クリスは悲鳴を上げるとそのまま気を失って倒れてしまった。
人が突然倒れたことにあたりは騒然となる。急ぎ休憩室に案内され、ベッドに横たわらせる。
屋敷のお抱え医師が妻を診てくれる。
「少し気を失っているだけのようです。気つけ薬としてブランデーを口にさせましたのでご安心なさってください」
「そうですか。最近、眠れていないようだったので……」
僕は妻をこのまま休ませ会場へと戻った。
あのミズ・フューリーが持ってきた評論家をも驚かせるワインを飲まないのは勿体ない。
会場に戻ると私の正体を知っているヨハンがこちらへとやってきた。
「ザイアン。奥さんは大丈夫だったのか?」
「ああ。過労みたいだ。それよりワインは? あのミズ・フューリーとやらが持ってきたワインはまだ飲んでないよな?」
「……まだだよ。けど……キミも飲むのかい? あまりお勧めはしないよ、「もしも」という可能性がある」
そう言って彼はまた『サン゠ジュスト家の怪死事件』を出した。
「ミズ・フューリーというのは彼女が書いた小説の主人公の名前だ。その話の中でワインを飲んで毒殺される人がいるんだが……その人ってキミのな——」
「……やめてくれよ。ワインが不味くなる」
そんな話を聞きたくなくてヨハンの話を打ち切った。
そして、待ちに待ったワインがサーブされる。
皆がそれを口にするのを確認してから僕も口をつけた。
「……ん?」
正直、肩透かしを食らった気分だった。
美味いと言えば美味い。だが先ほど飲んだヴィンテージワインの方が格別に感じる。若いっていうのかなやはりワインと言ったらヴィンテージだ。仕方がないか。
そして主催者夫婦がこのワインを持ってきたミズ・フューリーのもとに向かうので僕は耳を澄ませて話を聞いた。
「このワインをまた飲めるとは思わなかった。妻と恋人時代の思い出の味だ」
「この人はずっとこのワインを探していたの。けれど、あそこの土地は買収されて」
「葡萄畑もなくなってしまったからもう飲めないものと思っていた。どのようにしてこれを?」
「……昔の知り合いから頂いたのです。主催者様がお探しと耳に挟んでいたのでお持ちしました。お気に召されたのであればお譲りいたしますが?」
「……ありがとう、ぜひ頂きたい。妻と一緒に飲ませてもらうよ。ワインというのはヴィンテージであればいいというわけではない。生産者たちの腕もまた大きくかかわる。このワインは新たな——」
「あなた。ワイン講義を始めないでください。ごめんなさいね。この人ってばワインの話となると止まらなくって」
「いえ。とても興味深いですわ」
主催者夫婦と歓談するミズ・フューリー。
自分のワインの価値観が砕かれたような気分にもなった。
——いや、それよりもこの声——
「……エリス?」
僕の声が届いたのかミズ・フューリーがこちらを向く。
焦らすようにたっぷりとためてから声には出さず唇だけが「せ・い・か・い」と動いた。
エリスだった。ミズ・フューリーがエリス。
『サン゠ジュスト家の怪死事件』は主人公の復讐の物語。
エリスは持っているワインを口に含む。
先ほどのヨハンの言葉を思い出す。僕はワインを飲んだ。
すべての点が線に繋がった。
僕は慌てて会場から離れトイレに駆け込んだ。
『ワインを飲んで毒殺される人がいる——』
「う、うおおえええええええええええええええ!!」
——毒だ。毒を盛られたっ!
◆
ワインを吐き出すがすでに毒は回っているのか、立ち上がることはできなかった。
仮面をかぶった女——ミズ・フューリーが笑みを浮かべながらこちらを見る。
「ま、待て。ぼ、僕がし、死んだら事業はどうなる。く、国を傾けるのは、き、キミも本意ではないだろう」
ミズ・フューリーは特に慌てた様子もない。
それどころか自分のした行いや目の前で苦しんでいる人を見ても何の感情も抱いていないようだった。
「貴方がいなくとも仕事は問題ないでしょう。貴方にできることなんてせいぜい自分の財布に入ってきた金貨を数える程度のことです」
数字を覚えた子供でもできること。仕事ではなくお手伝いでもない。それ以下の存在と言われたも同然だった。
男は死体となって発見された。
男の身体からは毒が検出はされなかった。
つい最近に妻を事故で亡くし、自棄になって大量のワインを飲んでいたという周囲の証言もあったことで急性アルコール中毒——彼は病死として扱われた。
男の名前はサイクス・サン゠ジュスト。かつてミズ・フューリーの婚約者だった男だ。
◆
僕——ヨハン゠アーネストはエリス嬢の小説のファンとして今日のパーティに参加した。
あの後のパーティーは大騒ぎだった。
ワインを飲みすぎてトイレで倒れたというザイアン。
すぐに覚醒したようだったが、会場に戻ってきたザイアンはエリス嬢がワインに毒を盛ったのだと汚物まみれの口で大声で叫び、パーティーを台無しにした。僕に対して素性を暴くことはマナー違反だと言っていたがそんなことは頭から抜けているようだった。
もちろん、エリス嬢は毒なんて盛っていない。
にも拘らずエリス嬢に向かって「人殺し!」「殺人鬼!」「悪魔が!」などあらん限りの罵倒を向けてきたが、彼女は本当に何もしていない。
ザイアンが飲んだワインは僕も口にしたし、ここにいる全員が口にしている。何よりエリス嬢も飲んでいた。
「それはお前が何かトリックを——!」
何かと彼女を犯人扱いしているが、周囲の目は呆れたものを見るものばかりだった。
だって、誰も死んでいないのだから。
毒を盛られたというこの男もとても毒を飲んだと思えないほど元気だった。
「ザイアン様、お酒の飲みすぎですよ」
エリス嬢は彼の前に立ち彼を見据える。
「それに——」と言葉をつづける。
「物語と現実を一緒にしてはいけません。もう子供ではないのですから」
彼女が子供を窘めるように言えばザイアンは間抜けた顔をし、周囲は笑いをこらえきれないといったふうに笑い出した。
僕はエリス嬢と婚約しているときのザイアンに常々思っていたことがあった。
よく彼からは「彼女は忙しそうにしている」という言葉を聞いたが、なぜ彼は手伝わなかったのだろう。
疑問に思ってそれを一度口にしたことがあったが彼は気まずげに視線をそらした。きっと仕事の内容も理解できていない。
エリス嬢が仕事を手伝ってほしいと声をかけた時も「キミの方が詳しいだろう。問題があればクリスティーナ嬢に聞いた方が助けになるんじゃないかな」と逃げていた。
彼女は自分には才能がないと言っていたが、何もかも足りないのがザイアンだ。結果、すべての負担がエリス嬢に偏り、彼女はつぶれてしまった。
今はクリスティーナ嬢が優秀なためこの男に仕事が回ることがないのでうまく機能しているのだろう。むしろ、いない方が役に立つ。
持たざる者の嫉妬とも言うかもしれないがクリスティーナ嬢は結果を急ぎすぎる。
その被害がこのワインだ。
僕はワインを一口飲む。エリス嬢が持ってきたワインだ。
うん、美味しい。甘く、苦く、そして冷たい。
今回エリス嬢が提供したワインはサンチェス家とアンカーストレム家の事業によって影響を受けた土地から作られたものだ。
提供されたワインはその影響を受ける前に作られた物だ。その土地で新しくワインが作られることはもう無い。環境の変化により水質や地質が変わり、葡萄の味も変わったのだ。
エリス嬢は開発により土地が影響を受けることを考え、慎重に行動していた。学者たちとも意見を交え動いていたのに、その話は貴族や商会の利益のために土地の買収が強行されることになった。
主催者の方がその土地のワインを求めていると聞いたのでお渡ししたのだろう。
土地でワインを作れなくなり仕事を失った人もいたが、そんな人のために新たな仕事の斡旋や新たな土地に残る人のために産業の相談に乗っていた。そんな事までも考えていれば忙しいのは当然だった。エリス嬢は彼らに連絡を取りワインを譲ってもらったのだという。自分たちのために心を砕いてくれたエリス嬢にその土地の人間たちは応えた。
彼女は自己満足な行いのようなものだと言っていたが、それを人は「優しさ」というのだ。
だが、僕が今日感じたのはエリス嬢の狂気だった。
あの物語を書いた彼女を前に緊張してしまった僕はつい「噂ではこの話は何処かの家をモデルにしていると聞いたのですが?」と尋ねてしまった。
彼女は怒ることや不快感を表すことはなかった。
ただ、彼女は笑っただけだった。
肯定もしていない。
だが、僕は確信できた。
無論、証拠なんてものはない。
だが、エリス嬢の周囲の環境を知っていればあまりにも重なる部分が多かった。
この作品の登場人物であるサイクスとザイアンは名前が似ているし、殺された妹の名のチーナは他国におけるクリスティーナの一般的な愛称だった。
この事実にゾクリと震える。気がついた人もいるだろう。この話は徐々に浸透していくはずだ。
彼女の優しさと狂気を同時に見えた。
僕は彼女の書く物語により一層深くのめり込むのを感じた。
◆
仮面舞踏会の後、作者のエリスから『サン=ジュスト家の怪死事件』の事件で扱われたワインの詳細が語られた。それに加え、そのワインは有名な評論家が「私の人生の最も幸せな時に飲んだ最高のワインだ」と言った。
それから間もなく、その評論家は持病が悪化し亡くなる。その評論家が人生で最後に口にし「ああ、幸せだった。ありがとう」と言って人生を締めくくったワインということもあり、小説のファンやワインコレクターたちはこぞってそのワインを求め、空前のワインブームを引き起こすことになった。
このワインを飲んだことのある人はこのワインを「恋の味」といい。また別の人は「復讐の味」と言った。
自称ワインが趣味だった男は仮面舞踏会以降ワインを飲むことはなくなった。
それどころか非常に恐れるようになったという。
小説『サン=ジュスト家の怪死事件』の犠牲者は全部で4人。
妹、妹婿、両親だ。
あと2人。




