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図書館に住む幽霊

作者: 之近唯人
掲載日:2025/09/11

図書館に住む幽霊


 4月も終わりに近づいた日曜日、午後2時15分、横山透は県立図書館の前に1人で立っていた。5月もまだ迎えていないと言うのに日差しは強く、半袖シャツでも大丈夫なくらいだ。透は着てきた薄手のパーカを脱ごうかどうか迷っていた。どうせすぐに建物の中に入るのだから問題はない。そう分かってはいるのだが少しずつ汗ばんでくるのが分かる。

「ああ、くそっ」

 透はそう言いながらカバンを下ろし、パーカを脱ぎ始めた。

「よう、待たせたか?」

 透がパーカから首を抜くのに手間取っていると、友達の櫻井毅が声を掛けてきた。

「おい櫻井、お前どっから来た?」

 透は服を畳みながら聞いた。自転車置き場は図書館の入り口の目の前で、櫻井が自転車で来たのなら透の視界に間違いなく入っていなければならないはずだった。

「ああ、すまん。ちょっと山の上の公園の方に行っててな。ちょっと遅れた」

 櫻井は悪びれることなく言った。どうせ彼女と一緒にいたんだろう。そう言うと櫻井は素直に、

「ああ、そうなんだ。朝はモールに行っててさ。あいつがもうちょっと一緒にいたいって言うから上の公園で一緒に散歩していたんだ。ほら、あいつ一万南小学校出身だろ」

「そんなことは知らん」

 透は素っ気なく言った。櫻井には中学校から付き合っている彼女がいて、今の南高校にも一緒に通っている。受験勉強を一緒にするうちに仲良くなったらしく今でも一緒によく勉強しているらしい。彼女の名前は粟飯原摩耶というのだが、透はまだちゃんと紹介してもらったことはない。透は櫻井とは高校になってからの友達で、一年生の時、一緒のクラスだった。2年のクラス発表の時、同じクラスだと分かって櫻井が嬉しそうに「俺たちまた一緒のクラスだってよ」と話しかけてきた時透は、

(俺と櫻井って仲良かったっけ?)

 と1人首を傾げたものだった。1年の時も他の男子と一緒にノリでふざけるくらいで、それほど仲の良い友達というわけでもなかった。ましてプライベートで2人でどこか行くなんてことはなかった。

 4月の初め、新しく担任になった社会の豊田先生が

「2人でペアになって、図書館で何かを調べてきてくれ。そして後で発表してもらうから。ほんと、何でもいいからな」

 という無茶なお題を出した時、たまたま席が隣で、たまたま1年の時クラスが同じで面識があった奴が櫻井だったわけだ。当然、透と櫻井はペアになった。櫻井もわざわざ新しいクラスで今まで話したことのないやつと一緒に図書館に行って、得体の知れない『何か』について調べることを楽しいと思える年頃ではなかった。


「とりあえず中に入るか」

 櫻井は足はすでに図書館の方へ向かっていた。『文化の森』は山の一部を切り開いて作られた総合施設で、山の上には家族連れを満足させる遊具の多い大きな公園もある。公園を起点に山の中をめぐるたくさんのハイキングコースもあり、糖尿病患者の多い徳島県の健康改善に一役買っている。我が県が誇る県立図書館は美術館、博物館や文書館、各種イベントを催すことが出来る建物と同じ施設にある。『文化の森』という名前がぴったり当てはまる施設だった。図書館の面積は広く、蔵書数も多い。だが図書館としてのグレードの割には来館者は少なく。広い駐車場は山の上の公園や建物中の冷房が目当ての家族連れ、散歩コースを歩くために来た人生の先輩たちの車に占拠されていた。本来メインであるはずの図書館や博物館にはそれほどの人は集まっていない。図書館ヘビーユーザーの透にとってはこれはむしろ都合が良かった。それにいくら駐車場が満員でも駐輪場が満員になることはない。文化の森は自転車では少しアクセスしづらいとこにあったが、透にとっては車の通行量の多い土手の道も、文化の森へと続く大きな橋もこれから会うまだ見ぬ本との出会いへの期待感を上げてくれた。橋を渡り川を超える行為は別世界への誘いだ。

 透は櫻井の後に続いて中に入った。図書館は2階建てになっているのだが1階は書庫でメインフロアの2階に並べられない古い本などが収納されているらしい。書庫の本が読みたい時には図書館の係の人に頼んで取ってきてもらわなければならない。煩わしさもあるが、どんな本なのかワクワクして待っているのは空腹時にレストランで頼んだ商品が出てくるのを待っている時の期待感よりもはるかに大きい。もしかするとそれは透だけかも知れないが。

 2階へ続く真っ白い階段を登りながら透は胸を膨らませていた。

「で、『何』を調べる?」

 透は櫻井に聞いた。出来れば、わけの分からない課題などは早く終わらせて本でも2、3時間読んで日曜日の午後を有意義に過ごしたい。透はそう思っていた。朝早くからゴールデンウィーク明けにあるはずの中間テストのためにずっと勉強していたのだ。これくらいのご褒美はあっても良い。どうせまた夜も勉強するのだから。

「いや、分からん。何かあるか?」

「適当に、音楽の歴史とか風土とかを調べてまとめればいいんじゃないか」

 櫻井は頷きながら奥に入って行った。

「まて、櫻井。カバンはロッカーに預けないと」

 櫻井は振り返って、”ああそういうシステムか”と呟きながらロッカーに登山にでも行けるじゃないかというくらい大きいバッグを押し込んだ。先に100円を入れて施錠しなければならないが、あとで100円が戻ってくるタイプのロッカーだ。間違いなく幾らかの子供は、いや大人も、回収し忘れられた100円を狙って図書館に来ている

 透と櫻井はとりあえず、図書館の中を歩き回って何を題材にするか決めることにした。

「こういう時は、好きな物を調べちゃだめだと思うんだ。凝ってしまうしな。時間がかかる」

「確かにそうかも知れない。あまり興味のないことを表面だけなぞる方が時間はかからないだろうな」

 透は櫻井に同意した。けれどなかなか決まらない。

「ああー面倒だ」

 櫻井は少し怒り気味に言った。透は思わず周りを見回した。図書館で大きな音を立ててはいけないのは常識だ。それに透はいつも図書館にきている。係の人に変な印象を持ってほしくない。。櫻井は目を閉じてその場でぐるぐると回り始めた。そして急に止まり、バッと指を指した。

「この方角」

 と櫻井は言って自分がさした指の方へ歩いて行った。そこにあったのは『美術』のセクションだった。

「オッケー。美術について適当にしらべるか」

 透は笑って櫻井に言った。櫻井も自分の選択に満足だったのだろうニコッと笑って頷いた。

「30分で終わらそう」

「同意だ」


 透たちは『美術』と看板がかかった本棚の前で佇んでいた。透も小説は好きだが、流石に美術の本までは読まない。学校でも書道を選択していて最後に美術らしいことをしたのは小学6年の時に描いた「私の町」と題した鳥瞰図を描いたのが最後だった。それも適当に飛行機から写された写真を模写しただけでなんの気持ちも入っていなかった。中学校の美術の授業は基本的に画家や、訳の分からない彫刻作家の名前をテストのために覚えただけで今となってはほとんど記憶に残っていない。

「分からんな」

 透は独り言を言った。

「分からん」

 櫻井も独り言を言った。

「ゴッホは知っているぞ」

 櫻井は一番下の棚にあったゴッホの作品集に手を伸ばした。

「それで決まりだな」

 透は櫻井がその本に触れる前に言った。

「ああ。この本はラッキーな本だ。おそらく俺たちが取り出さなければ、あと数年は誰にも触られることなくこの本棚に座っていただろう」

 櫻井は本の上側に人差し指を引っ掛けてゴッホを引っ張り出した。

 後は見事に流れ作業だった。ゴッホの略歴をほとんどそのまま写し、いくつかの作品に対する感想を自分たちなりにまとめた。

「このゴッホって人、自分の耳を切って、最後は自殺したんだってな。悲しい人生だな。有名になるってのも考えもんだ」

 櫻井が言った。透は画家の略歴を読みながら、

「いや待て、ゴッホは生きている間はほとんど作品が売れなかったらしい。なるほど、全くお金が稼げないのではそりゃ嫌にもなるな。それでもやめずに描き続けたってのはなかなかのモノだ」

 透は半ば感心し、また半ば呆れながら言った。

「それだ。まとめはそれでいこう」

 そう言いながら、櫻井はシャーペンを走らせた。


 30分とかからずに透たちは「何かについて調べる」というミッションを完遂した。櫻井は今ならまだ粟飯原真耶もその辺にいるかもしれないと急いで図書館から出ていった。

「100円とるの忘れるなよ」

 透は櫻井の背中に向かって言った。

「ああ!」

 櫻井は走りながら上半身だけ振り向いて大声で言った。周りで本を読んでいた人たちは一斉に櫻井の方を見た。透は他人のふりをして本棚の方へ向き直った。


 透は小説の棚の辺りを水槽で飼われている小さな熱帯魚のように行ったり来たりしながら読みたい本を決める。しかし今日はいつも読んでいる本とは違う分野の本が収められているコーナーに来ている。そこはまさしく図書館の隅で、透が普段来ないところだった。透はあたりの本棚にかけられている看板を見回した。「武道」「スポーツ」「音楽」等々、透があまり興味のない物が並んでいた。図書館の隅とは言っても屋根は自然光が入ってくるように一部がガラス張りになっていて、むしろ中心よりも明るくなっていた。たまにはちょっと変わった本も読むのもいいかなとなんとなく「生花」の本を引っ張り出した。座るところを探していると大きな4人掛けの円形のテーブルが見えた。高校生女子らしき人が先に座っていた。しかし大きなテーブルだ、邪魔になることはないだろう。透は正反対側の席に腰掛けた。上目遣いでチラッと見て、その子が透と同じ南高校の制服を着ているに気がついた。見たことのない顔だ。ちょっと不機嫌そうな顔はまるで、友達と映画を見る約束が面倒臭くてすっぽかしたものの、いざ一人になったらやることもなく、仕方がないので近所の図書館にきたという感じだ。

 透は詮索をやめて先程取った生花の本を開いた。数ページ読んでみたが、意外と指が進んだ。さっきまで全く興味のないゴッホの本を見ていたためだろうか、同じく全く興味のない生花の本も苦なく読むことが出来た。写真が多い生花の本も半分に差し掛かったとい時、

「ねぇさっき何を調べていたの」

 目の前で声がした。


 透は最初誰が誰に話しかけているのか全く分からなかった。それは別に透が我を忘れるくらい生花の本に熱中していた訳ではなく、ただ図書館で他人に話しかけられることなんて普通はなかったからだ。透は本から顔をあげてゆっくりと目だけで辺りを見渡した。見える限り、透の周りには先ほどの女子高生しかいない。多分さっきの声の主はこの女子高生だと思った。そして恐らくそれは透に向けての質問だったに違いない。彼女は肘をつくのをやめ、背筋を少し伸ばしてて透の方を真っ直ぐに見ていた。透は目を近くの本棚の方に逸らしてから、もう一度周りを見て再度、目の前に座っている女の子を上目遣いで見た。

「あなたに話しかけているのよ」

 女の子は表情変えずに透を真っ直ぐに見ていった。

「あなたもう一人の男の子と一緒だったでしょう。何かの調べ物をしていたみたいだったし。なんとなく気になったの。ただそれだけ」

「ああ、」

 透は気の抜けた声を出した。なんて答えていいのか分からない。でも何か言わないといけないと思い直して、

「ゴッホについて調べていたんだ。学校の課題で。なんでもいいから調べてこいって課題だったから、だからそんなに深い意味はないんだ」

「ふーん。で、今は生花の本について読んでるのね。そう言うのが好きなの?」

 そういうのというのは恐らく「芸術的」な何かのことを差しているのだろう。

「いやそんなことはない。いつもは小説ばかり読んでいるから、こっちの方にはあまり来ないんだ。だからちょっと今日は新鮮でいつも読まない本でも読んでみようかと思っただけなんだ」

「知ってる。あなたいつも図書館にいるものね」

 女の子は目で微笑んで言った。透は一瞬言葉を失った。

「なんで」

 知っている?最後まで言葉が出なかった。透は手のひらに爪が深く食い込んでいくのを感じた。女の子は続けて言った。

「私もずっと図書館にいるの」

 そう言って彼女は「武道」の方を見た。でも多分、彼女は武道には興味はない。

「本は読まないの?」

 透は彼女が何も持たずに座っているのに気がついた。彼女は視線はそのままに「うん」と心なく言った。

「それ南高の制服だけど、何年生?」

 透は何を言っているんだ自分に少し嫌気がさした。これでは自分が女の子を尋問しているようだ。それにたまたま席が一緒になっただけで別に話しを続ける義理はない。けど待てよ、この子の方から話しかけてきたんじゃないか。と透が考えていると、

「私は2年生、あなたは?」

 彼女が言った。

「僕も2年。けど学校で見かけたことないな」

「南校は人数が多いから。あなたは何組?」

「僕は2組だ」

「私は12組」

 12組といえばそもそも棟が違う。1組から8組までは、美術室や書道室、音楽室が揃っている南棟にある。しかし9組から12組は3年生と同じ、クラスだけが集まっている北棟にある。生徒が北棟から南棟に来ることはあってもその逆はほとんどない。それに12組といえば特別進学クラスだ。透にとってはなおさら接点がない。

「それは知らないわけだ」

 透は呟いた。その女の子は透と話している間、ずっと横を向いていた。透は生花の本が色々な流派の説明に差し掛かった時、静かに閉じて席を立った。

「じゃあ」

 と言って僕はくるりと回れ右をした。早く小説の所に行こう。

「待ってよ」

 透は反射的に踵を返した。彼女が透を見つめていた。

「もっと話がしたいんだけど」

 彼女は口元だけで微笑んでいた。透は手のひらに先ほどとは違う場所に爪が食い込んでいくのを感じた。


 一度閉めてしまった生花の本を再び開けるのは少し白々しい。綺麗に飾り付けられたシンビジュームの写真(名前は気になって後で調べた)が机の上から透を見ていた。透は生花にとても興味があるように、しかも特にこの表紙の作品が世界で一番好きと言わんばかりに見ていた。時折チラッと彼女の方を見てみる。彼女の方もずっと僕を凝視するでもなく僕の肩越しに明後日の方を見ていた。時々目が合うのがとても気まずい。彼女もそう思っているらのか、途中から完全に下を向いてしまった。沈黙が続く。これなら櫻井とあーだこーだ言って2、3時間かけて「何か」について調べているほうがよっぽど気が楽だ。

「あー、えーと、何?」

1時間とも思える、けれど実際は数分の沈黙の後、透は仕方なく口を開いた。

(話がしたいと言ったのはそっちだぞ)

 透は自分の運命を呪った。沈黙の間、透は今日の朝のニュースの天秤座の運勢はどうだったか思い出そうとしていた。きっと最下位だ。透は彼女が何か言うまでの間、恥ずかしさも相待って心の中で自分にずっと話しかけていた。よく考えたら透はこの女の子の名前すら知らないことに気がついた。

「あの、名前はなんていうの?」

「秘密」

 彼女の横顔が急に笑顔に変わり、そして透の目を見て言った。顔全体が笑っている。恐らく透がからかいやすい性格だということに気がついたのだろう。昔から、透は特に女子からからかわれることが多かった。ある意味こういった扱いにも慣れている。

「あ、そう」

 透は出来るだけ冷たく無味乾燥に言った。彼女は一言も言わずに何となく透の方を見つめ続けていた。

「で、名前は何?」

 情けない、結局聞いてしまうのだ。こういう弱みが他人にすぐに見透かされるのだろう。彼女は図書館で許容される大きさで笑った。

「吉田優子。イニシャルはY.Y.、 誕生日は10月20日。天秤座。生まれた日は雨だったらしいわ。嫌いな食べ物は麺類。どうも食べ物を音を立ててすするってことが嫌いなの。そういう意味でスープとか味噌汁とかもあまり食べないわ。お母さんは昔はよく作ってたけど、最近は食べていない」

 新種の喋るリスを見つけたかのように透は彼女、吉田優子を見た。

「ああ、そう」そうとしか言えない。

「僕は横山透。イニシャルはY.T.、か、誕生日は10月8日。当然、天秤座。恐らく今日の運勢は下から数えた方が早い。麺類は結構好きだ」

 なかばヤケになって言った。

「私は今日の天秤座の運勢はいいと思うわ。あなたに会えたし。横山透くん」

 透は優子にはっきりと見えるように、肩が落ちるくらいのため息をついた。

 その後、透と優子は取り止めのない話をした。特に本の話を。透はいろんなジャンルの本を読むが、優子は小説と料理の本を読むらしい。

「たまに子供向けの本も読むの。特に夏休みの課題図書とかいいのが多いから好きよ。でもいつも冬までは借りないようにしているの。一通り読書が好きな子供たちが読んでから借りるの。私はこれでも人のことは考えているつもり」

「課題図書はいいよな。僕も基本的に全学年のを全部読むようにしている。何年か前の、ほら熱帯魚が女の子の友達になるって話あれ良かったよな」

「コバちゃんね」

「そうそれ」

 2人でその本のタイトルを思い出そうとしたのだがどうしても思い出せない。

「思い出せないな」

「思い出せないわ」

 2人は笑って同時にため息をついた。

「おーい」

 後ろの方から呼ぶ声が聞こえる。透が振り向くとそこには櫻井と粟飯原摩耶が歩いて向かってくるのが見えた。

「あ、散歩でもしてたのか」

 透が櫻井に言った。隣にいた粟飯原摩耶に最低限失礼にならないように、何となく目で挨拶した。

「ああそうなんだ山のハイキングコースは結構日当たりが良くてさ。今日はとても気持ちがよかったぞ。もう帰ろうかと思ったんだけどさ、もしかしたらお前がまだいるかと思って。やっぱりいたな」

「そろそろ帰って勉強しないといけないけどな」

 透は言った。優子のことを紹介しようと思ったが、透も会ったばかりなので何と紹介して良いのか分からなかった。それにまだ櫻井は粟飯原摩耶のことをちゃんと紹介していない。今知り合ったばかりの女の子とはいえ、透が先に紹介するのは何か負けたような気がして何も言わずにいた。そんな透を気にすることも優子のことを聞くでもなく、帰ってしまった。

「じゃあな!」

 周りの人がまた一斉に櫻井を見た。粟飯原摩耶が肘で櫻井の腕を突っついているのが見えた。それを見て透はなぜかおかしくなって笑った。

「あの2人とは友達?」

 優子が聞いた。透は優子の方を見た。優子を紹介しなかったことが急に悪かったような気がして、「ああ男の方とはね」という声にもハリがなかった。優子はそんなことは気にもせず「お似合いね」と言って、彼らが消えて行った方を見ていた。

「あー、僕ももう行くよ」

 透はそう言って席を立った。

「流石にテスト勉強をしないと。ほらテストだろ」

「ああ、そうだったかしら。ゴールデンウィーク明けは確かに中間テストね」

「進学クラスは勉強しなくても余裕か。じゃあまた学校かどこかで」

「私大体この辺にいるから」

 優子はそう言って顔の横で手を振った。

 透は「じゃあ」と言って優子と別れ、図書館を後にした。

 変な日だった。けれど悪い日ではなかった。課題は簡単に終わったし、単純に優子のような面白い子と偶然知り合いになれたことが達には嬉しかった。図書館の外に出ると西の空が少し赤くなっていた。少し肌寒い。透は自転車にまたがり、思いっきり自転車を漕いだ。


 櫻井と透の発表はことのほか上手くいった。『何かについて調べる』という課題に対してちゃんと取り組んでいたのは数組で、その中でも透たちの組みはずば抜けていた。と言うより櫻井がゴッホについて、まるで昔から知っている隣のおじさんのことについて話すように朗々と語った。ゴッホの頭が少しおかしくなって、耳を切り落としたシーンで大爆笑が起こるなんて誰が予想したか。最後に櫻井はゴッホを悲劇のヒロインのごとく仕立て上げて、彼の人生を締めくくった。

 櫻井は透の肘を突っついて言った。「これはダントツで一位だな」

「ああ、間違いない。プレゼンってのは読み手にかかっているな」

 櫻井と透は先生から激賞されたが、別に中間テストに加点がつくわけでもない。

 その日の昼休みふと吉田優子のことが気になったが、わざわざ北棟に行く理由が思いつかなかった。『私は大体この辺にいるから』と言っていた。恐らく図書館にはよく行くのだろう。今日も図書館に行ってみようかな。別に吉田優子に会いたいからというわけではないのだ。図書館にはよく行っているからそのついでだ。そう自分に言い聞かせながら教室に戻っていった。

 ホームルームの後、委員会の集まりがありそれが延びてしまい、学校を出るのが5時を過ぎてしまった。図書館の閉館時間は7時で、前回借りた本もまだ読み終わっていない。そのまま家に帰ろうかと思ったが透は思い直して図書館へ向かった。透の家は学校から自転車で1分のところにある。自転車でわざわざ通う必要もないのだが、下校後図書館へよく行くのでいつも自転車で高校には通っている。図書館は学校とは真逆の方向にあって、今から行けば閉館時間まで1時間半はある。よし行くか…。別にあわよくば吉田優子に会えるかもしれないという期待をしている訳ではない。そう自分に言い聞かせて自転車のペダルを立ち漕ぎで踏んだ。

 透はいつも通り新着の小説をパラパラと物色し、いつもは行かない『料理』の本棚をぬけて『美術』のコーナーを目指した。昨日吉田優子と会った所だ。

 吉田優子はいた。

 昨日と同じように本も読まずに肘をついて後ろ姿からでも明らかに退屈を持て余していた。

「やあ」

 透は自然な感じで後ろから声をかけ、目の前にあった「能」の本を無造作に本棚から取り出した。能は『美術』の一種なのか。透はそんなことを考えながら、できるだけ自然に振り向いた。優子の目が真っ直ぐに透を見ていた。

「やっぱりまたあったわね」

「ああ、偶然だな」

「ええ、今日もね」

 透は無造作に優子の前の席に座った。透が前屈みに体重をかけても全く傾かないくらいこの円形のテーブルは頑丈に作られている。机の硬さに無機質感を字案じながら、透はさっき取った能の本をぐいっと真ん中あたりから開けた。

「早いな。僕も委員会が終わってからすぐに出たんだけど」

「なんの委員会」

「美化員会」

「わたしは人権。人権委員会って別にこれと言って話し合うことがないの。ほとんどすることは決まっているし」

「そうか次は人権委員になろう」

「人気があるから、結構狭き門よ」

「チャレンジするのはタダだ」

 透は本のチョイスを完璧に間違ったことに気づいた。どこまでページをめくっても能の動作を写真入りで説明するページが続いていた。せめて面の歴史についてでも語っていればいいのに。恐らく実際に能をしている人のための実践的な本なのだろう。本当に興味がない。能をしている人には申し訳ないけれど。

「その本面白い?」

 透の心を見透かしたかのように優子は聞いた。

「日本語で書かれているということに関しては100点だ」

 優子は鼻の奥で笑って、そして黙った。透もこれ以上何を話して良いか分からなかったので目の前にある本に目を落とした。

 透は2、3ページ読んだが、優子の視線が気になって全くページが進まない。

「あのさ、なんか読まないの」

「本は好きだけど、そんなに読まないわ。図書館は雰囲気が好きだから」

「分かる。図書館はどれだけ人がいても静かだしね」

 透は能の本を机の上に置いていった。

「けど、先週の火曜日はカウンターで騒いでいた人がいたわ。男のお年寄りだったけど。貸出期間の延長をしたかったみたいだったけど、もうすでに期限切れで一度借りた本を返却しなければならなかったみたい。『今から家に帰って取ってこいって言うのか』ってすごい剣幕で怒ってた」

「先週の火曜日といえば、僕は学校が終わってからずっと図書館にいたんだけれど、そんなおじいさんいたっけかな」

 透はいつもカウンターに近い席で本を読んでいる。図書館で本を読むことも好きだが、人の出入りを見ているのも楽しいのだ。

「お昼前よ」

 そう言って優子は黙った。

「と言うことは君は学校をサボって図書館にきていたってことか」

 優子は目線を僕の後ろの本棚にうつして

「そう言うことになるわ」

 と言った。僕の後ろの本棚には確か園芸の本が並んでいたはずだ。優子の趣味がガーデニングとは思えない。

「意外だな。進学クラスの生徒が学校をサボるなんて」

「ええ、学校に行かないことは悪い事だと私も思っているわ」

 優子は急に透の目を見てニコッと笑った。

「ねえ、料理の本が見たいの。透くん、何か本を選んできてもらえないかな」

「えー、自分で選んだら?僕は料理なんてしないし。全くイメージが湧かない」

 透は『透くん』と呼ばれてすぐに声が出なかった。『透くん』なんて透のことを呼ぶのは今ではおばあちゃんくらいだ。同年代の、しかも女の子に呼ばれたことなんて小学校以来ない。いつの間にか『透くん』から『横山くん』に変わっていったものだ。ここは日本だ。名前で呼び合うなんてのは同性のしかもかなり仲の良い間くらいでしかない。

「透くんの食べたい物で良いわ。もしくは何か珍しそうな物」

「難しいな」

「大丈夫、信じてるわ」

 透は席を立った。信じているなどと言われることは日常生活でそうあることではない。しかも昨日今日あった人間に言われるとさらに実感がなかった。ただ優子の『信じてるわ』にはこう言った言葉にありがちな軽薄感がなかった。透は、

「ああ、わかった」

 優子の目を見て言った。”カレーかな”、独り言を言いながら料理の棚へ向かった。冒険物の小説は好きが、ここは安全第一でいこう。

 透は『料理』の棚の前で固まっていた。いかにカレーが日本人の間で人気があるといってもここまでとは思わなかった。恐らく30冊以上はあるだろう。インドカレー、欧風カレー、タイカレーはまだ理解できる。ハワイアンカレーっていうのはなんだよ。パイナップルでも入っているのか?透は30秒ほど考えてからタイカレーのレシピ本を取った。別に深い意味はなかった。昔一度食べたことがあり、それなりに美味しかったというのは覚えている。それ以降食べたことがないといことは無茶苦茶美味しかったということはないのだろう。

「はい」

 優子の反応をあえて見ずに本を手渡した。

「ふーん」

 優子はひとしきり本の裏側の著者紹介を読んだり、中身をパラパラみたりしたのちおもむろに本を机に置いた。

「おい、おい。もしかしてタイカレーはお気に召さないのか。結構おいしいんだぞ」

 透は優子をキッと見据えて言った。当然本気ではない。優子もそんな透をあからさまに無視して、

「だって食べたことないんだもの。とても辛いって聞くし」

「ああ、確かに辛い。でも食べられない程ではないぞ」透は昔食べたことがあるハズのタイカレーの味を思い出そうと必死になった。が努力も虚しく舌も脳もその味を忘れていた。透は一息ついて「駅前にしばらく前に開いたタイ料理屋があるけど、行ってみるか?」透は自分で何を言っているのか疑った。優子はそんな透の緊張を無視して、

「ダメ。行けないの」

 と言って今度はタイカレーの本の表紙に目を落とした。優子は本の表紙に映っていた著者であろうおばさんの写真に目を落とした。おばさんはあからさまに不自然な笑顔でカメラに向かってガッツポーズを決めたていた。透は全く関係ないおばさんを恨みながら、空気が抜けて役に立たなくなったシャチの浮き輪のようにしょんぼりして、

「ああ、そうか」

 と言って黙った。

(三角巾なんて誰がつけるんだよ)

 透は表紙のおばさんを睨んだ。

 中間テストも終わり、日常が戻ってきた。透はテスト期間中、律儀に図書館にも行かず家で勉強した。図書館もそうだが北棟には絶対に近づかないようにした。別に優子に鉢合わせるのが嫌だった訳ではない。と自分に言い聞かせていた。今も北棟一階にある職員室に数学の提出物を持って行っているのだが、12組の隣に出る2階の渡り廊下を使わず、わざわざ一階に降りて行っている。

「おい、今日は何か用事あるのか」

 振り返ると階段の柵に身を乗り出した櫻井がいた。

「もしなかったら一緒に本屋にでも行かね?ちょっと小説を買いたくてさ」

 ほとんどのクラスメートは部活に入っているか塾に行っているか、はたまたその両方かでいつも忙しい。放課後に気軽に何処かへ一緒にいける友達を見つけるのも難しい時代になったものだ。櫻井と透は部活にも塾にも行っていない。かといって成績が良い訳でもないのだが、確実に暇を持て余していることだけは双方共が理解していた。櫻井は本を読むタイプではない。透もそれはよく知っていて、櫻井が本屋に行こうと行った時は大体マンガを買いたいときだ。だから櫻井が、小説を読みたいからと言った時、透は吹き出してしまった。

「おいおい、俺も高校生2年生だし、受験生になる前に何か文学的な物をよんでみたいんだよ。もしかしたら面接で聞かれるかもしれんしな」

 櫻井は怒った表情を作ってみせた。

「わかった、わかった。けど本を買うのは勿体無いから、図書館で借りたらどうだ?」

 透は『図書館』という言葉を自分で言いながら、胸の中に鈍い重さを感じた。図書館にもしばらく、と言っても一週間だが、行っていない。

「自発的に読む最初の本だから、なんとなく手元に置いておきたいのさ」

 櫻井は笑顔を作りながら言った。

「ただ何を買えば良いのか全くわからない。最初に買う本が人に見せられないようなんじゃ困るしな」

「分かった。友達にも将来の子供にも誇れるような本を選ぼう」

 透は笑いを堪えながら言った。

 図書館に行けない、ということが嬉しいと思ったのは初めてかもしれない。そう思いながら櫻井と自転車置き場へ向かった。

 

 結局櫻井が買ったのは夏目漱石の「坊ちゃん」だった。あまりにもベタな選択に、

「おいおい、こういうのこそ図書館で借りないともったいないぞ。むしろ学校に図書館にも絶対あるぞ」

 櫻井は透の口撃を無視して、

「ベタだからこそ、安心して読めるんじゃないか。それに読んだ後手元に置いておくのがどっちかっていうと目的だし」

「分かったよ。けど、ベタな本だからって好きになるとは限らんぞ」

「天下の夏目漱石だぞ。俺でも知っている作者だ」

 櫻井はそのまま近くの靴屋によって帰るらしい。

「ともかくありがとよ」

「感想聞かせろよ」

 透は自転車にまたがりながら、これからどうしようか考えていた。時計を見るとまだ5時になったばかりだ。家に帰ってもいいけれど、時間的に十分図書館にも行ける。透は一つため息をついて自転車を漕ぎ出した。

 

 ゆっくりこいでも図書館までは15分とかからなかった。いつもの場所に自転車を止め、ちゃんと鍵をかけたかどうか3回チェックし、鍵をちゃんと持っているか何度も確認した。ゆっくり歩いても入口はいつものところにあるし、図書館に続く階段の数は変わらない。

 カウンターが見えた時、透はもう一度深いため息をつき覚悟を決めて美術のコーナーに向けて歩き始めた。

 優子はいた。いつものように本も読まず、しかし今日は浅く椅子に腰掛けて、背もたれに自分の体重を預けていた。視線はぼんやりとガーデニングの棚の方に向けられていた。

「よう」

 透は優子の前に立った。なんと言おうかずっと考えていたのだけれど、結局出てきたのは友達に話しかけるような陳腐な呼びかけだった。優子は顔もあげず、

「遅かったじゃない。最近顔も見せないし。ずっと待っていたのよ」

「ああ、美味いタイカレー屋を探していたんだ」

「それで、見つかった?」

「いや、この辺にあるタイカレー屋は駅前にある一軒だけだった」

「そう、じゃあそこが本当に美味しいかどうかなんてわからないわね」

「ああ、分からない。ここ座ってもいいかな」

「この机は私の物ではないわ。だから『いいえ』という権利は私にはないわ」

「ありがとう」

「それに対して私が『どういたしまして』という筋合いもない」

「ああ、ない。ただの礼儀みたいなもんだ」

 透はテーブルに肘をついて前屈みになって道すがら適当に手に取った本を読み始めた。小説の棚から取ったのだ、少なくとも能の本よりはましだろう。

「今日は普通の本を読んでいるのね。それ面白い?」

「ああ、でも内容は全く分からない。題名は、『夏・短くて長い旅』らしい。題名は悪くないな」

「そう?短くて長い旅なんて訳がわからないわ」

 優子は初めて顔を上げた。本の題名に怒っているのではなく、その苛立ちは明らかに透に向けられていた。

「まあ、読んでみれば分かる。で、テストはどうだった」

 透は笑顔を作っていった。一瞬優子は、驚いたような顔をしてから、

「悪くはないと思う。でもあまり勉強してなかったから」

「こんなに図書館に来てるのに?」

 透は呆れた。いかに透といえども節度は守る。学生の本文である勉強を、すべき時をわきまえている。

「もしかしてテスト期間中も来ていた?」

「ずっとここにいたわ」

 優子は悪びれる風もなく言った。そして透が持っている本のぐっと押し上げて題名を確認した。

「やっぱりこの題名、変よ」

「読み終わったら感想は聞かせるよ」

「ええ。でも元々英語の本でしょう。どれだけ訳者が上手でもどこかで必ず、作者が意図していない意味に翻訳されてしまうわ。だから私は訳された本は嫌い。それに話し方一つで登場人物の性格まで変わってしまうから」

「確かにね」

 透は基本的には日本の作者の小説を読む。ゆうこの言うような変に訳された本を読んでしまったからかもしれない。何作か心当たりはある。

「しかも昔に訳されたものはその当時の日本語を使って訳している場合もあるから、そうなるともう原書を読んで確かめるしかないな」

「そうね。でも原書も面白くなかったら、本当に時間の無駄になってしまうわ」

「英語の勉強になったと思うしかないな」

「私、英語は嫌いなの。けどその本の感想は聞かせてね。私は絶対に面白くないと思うの」

「分かったよ」

 透はしばらくその場で読んでいた。40ページほど読んだところで、閉館30分前を知らせる放送が流れた。

「僕はそろそろ行くよ。君は?」

「私はまだ残るわ。明日も来る?」

「ああ多分。この分なら今晩のうちにはこの本は読み終わる。明日感想を聞かせるよ。4分の1位読んだけれど、賭けには負けそうだ」

「最後までわからないわよ」

 明らかに感情のこもっていない。

 透はよく効く薬を噛み締めてしまった時のように笑って手を振った。

「じゃあ」

「じゃあね」


 透は山の向こうに今にも消えそうな太陽と競争したい気分だった。完全に太陽が沈む前に家に着いたら透の勝ち。自分でも馬鹿なことをしているなと思いながら息を切らしてペダルを踏んだ。夏目漱石よりも太宰治の『走れメロス』の方を櫻井にオススメすればよかったと思った。


「お前、毎日毎日図書館に行ってそんなに楽しいか?」

 上を向くと櫻井が立っていた。驚いたことに粟飯原摩耶が櫻井斜め後ろから透の方を見下ろしていた。彼氏がこんな冴えないやつと友達とは思いたくないだろう。

「まあな」

 透は櫻井方だけを無理に見て答えた。

「放課後みんなでイオンにボーリングに行こうと思うんだが一緒に来ないか?それとも今日も図書館に行くのか?」

「ああ図書館には行く」

 言った後、透はしまったと思った。櫻井はともかく、粟飯原摩耶は恐らく透に良い印象はもたないだろう。せっかく数少ない友達が誘っているのに無碍に断るなんておこがましい、とでも思っているに違いない。と透は思った。

「今日は学校昼までじゃないか。たまには付き合えよ。どれだけ遅くなったって4時には帰ってくるさ。それからでも図書館に行くのは遅くないだろう?」

 櫻井に言われるまで、透はその日が昼までの3時間授業だということを忘れていた。市内の進学科のある高校の教師は全員、どこかの高校で会議があるらしい。言われてみれば、昨日の帰りのホームルームで担任が言っていたような気がする。つまるところ、授業は昼までで終わりということだ。

(優子は学校が終わったらすぐに図書館へ行くのかな)

 昨日見た、優子の不敵な笑みが透の頭をよぎった。

 昨日借りた本は帰ってすぐに読み終えた。賭けは優子の勝ちだ。読み終わった本をベッドの上に置いて寝転がった。透は笑いを堪えきれずに顔を枕に押し付けた。



「な、行くだろう」

 櫻井が透の肩に手を置きながら言った。

 優子の顔が頭に浮かんだ。でも優子は夕方行ったとしても、昼過ぎに行ったとしても図書館にいるような気がした。たとえ閉館間際に行ったとしても。

「分かった。行くよ」

「じゃあ、昼飯はモールでな」

 他に誰が来るのか聞く暇も与えず櫻井は踵を返して廊下に向かって歩き始めた。粟飯原摩耶は透の方を去り際ちらりと見て櫻井を追いかけて行った。意外とこのカップルは亭主関白なのかもしれない。そんな馬鹿なことを思いながら透は図書館で借りた本を取り出し何気なくパラパラとめくった。

 放課後、と言ってもまだ12時にもなっていなかった。透は自転車置き場で櫻井たちが来るのを待っていた。他に誰が来るんだろうかと少し不安になった。しかし櫻井も帰宅部だ、そこまで交友関係が広いとも思えない。まさか優子が来るんじゃないかと思ったが、どう考えても櫻井との接点が見つからず、それに奴がそんなに気が利くとは思えなかった。

「よ。待たせたか」

 櫻井が粟飯原摩耶と一緒に現れた。

「いやそんなに待ってはいない。で他に誰が来るんだ?」

「いや、これだけだ」

「まて、3人てことか」

 もしそうだとしたら意味が分からない。いや櫻井の性格だ。透には何となく事情が分かった。こいつは元々粟飯原摩耶と一緒にモールに行く約束をしていたのだろう。そして1人でいる透を教室で見つけた。どうせなら3人で行こうと言ったに違いない。どうせなら、人が多い方が良いとでも思ったのかもしれない。

 どおりでさっきの粟飯原摩耶の目が冷たかったはずだ。透は完全な部外者で、粟飯原摩耶からすれば二人の間を邪魔する邪魔するパッとしない男でしかなかった。

「そうか」

 透は櫻井の肩越しに遠くの空を見た。透は二人に見えないように鼻でため息をつき、覚悟を決めた。恐らく櫻井にデートの邪魔はしたくないと言って逃げることはできただろう。ただ櫻井は逆に何でそんなことを気にするのだと怒ったに違いない。透は櫻井の鈍さがうらやましかった。だからこそ、そんな櫻井を自分の都合で傷つけてはいけない、と透は思った。

(読みたくない本でも読まなきゃいけない時もある)


「じゃあ、行こうか。昼飯はもちろんマックだよな。粟飯原さん、それでいい?」

 透は明るさを振る舞って粟飯原摩耶の目を見て言った。もしかすると粟飯原摩耶の目をちゃんと見て話したのはこれが初めてかもしれない。 

「え、うん。もちろん大丈夫」

 粟飯原摩耶は、透が驚くほど素直な声で答えた。

「けどマックってカロリー無駄に高いからあんまり行きたくないんだけど」

「まあまあそこは許してよ、シェイク奢るから」

 櫻井がご機嫌をとるように言った。粟飯原麻耶は透の方を見て、『仕方ないわね』というふうに肩をすくめた。

(もしかすると僕は粟飯原摩耶のことを間違って認識していたのかもしれない)

 透は思った。

— 僕は優子のことを正しく理解してるのだろうか—

 2

 最初は少し緊張した。ハンバーガーの味なんてわからないんじゃないか、と透は心配していた。しかし、櫻井が事前に透が読書の虫だと言うことを伝えていたのだろう。粟飯原摩耶は透の好きな作者が誰か聞いてきた。そしてた二人の好きな作家が同じと言うことが分かると、二人は櫻井をそっちのけで話し始めた。特に二人が好きだった本は、舞台がヨーロッパのあるという設定の架空の国。日本人の主人公が突然その国へ魔法で召喚され、なんとか生き抜いていくという話だった。10代の子供が好きそうなありきたりな設定だ。結局はこんなわかりやすいストーリーが好まれるのだ。しかし、この本は少し変わっていて、主人公の相棒が女装好きの元おじさんと言う設定になっていて、これが多くの読者を混乱させる要因になっている。ファッションも奇抜すぎて、ミニスカートをはいてみたり、中世のドレスを着てみたりと節操がない。この本の主要な読者は10代。こんな本が受け入れられるのだから、若さっていうのは素晴らしい。

「この前出た、最新の12巻は読んだ?」

 摩耶が聞いた。

「ああ、もちろん。まさかジョージ(そのトランスジェンダーのおっさんの名前だ)がスカートであんなふうに攻撃するなんて。天才だよな」

「そうそう」

 櫻井は話について来られず、半分解けてしまったいちごシェイクをわざと音をたてすすった。

「なんだよ12巻て。そんなスカート履いているおっさんの話で12冊も本が持つのか」

 そう言いながら櫻井はとっくに食べ終わったてりやきマックバーガーの包みを綺麗にたたみ始めた。

 最初、櫻井は透と摩耶が仲良くなったことに喜んでいたのだが、二人の会話の内容が櫻井には全く解らず、話にも入っていけないのでもう黙っているしかなかった。透は横目で櫻井が上手に鶴をハンバーガーの包み紙で折っているを見ながら、この間櫻井が本を読みたいと言い出したのは、摩耶と共通の話題を作りたかったのかもしれないと考えていた。

「そうだ、櫻井がこの間本を買ってのは知ってる?」

 透は話題を変えて摩耶に聞いた。

「もちろん。急に『坊ちゃん』なんて読んでいるからびっくりしちゃった。まあ『坊ちゃん』なんてね。図書館で借りればいいのに」

「そうは言ったんだけど。まあ最初の本だしね」

 櫻井は僕たちの方を不機嫌そうに睨みつけた。ただすぐに二羽目の鶴を摩耶のハンバーガーの包みで作り始めた。

「さてそろそろボーリングに行こうか」


 透は櫻井はが鶴を作り終わるまで待って言った。

「お、乗り気だな」

「まあな」

 透は薄くなったコーラを一気に飲み干してながら席を立った。


 ボーリング場は予想に反して大盛況だった。

「ボーリングってそんなに楽しいか」

 家族連れやカップルで埋め尽くされたフロアを見て櫻井は唸った。今度は本当に不機嫌そうだった。

「それは誰とするかによるんじゃない」

 摩耶腰に両拳を当てて言った。

「ねえ、映画って今何やってるかしら」

 摩耶の一言で櫻井が調べ始めた。

「ああ、なんか海外のなんか有名みたいなやつをやってるって。後20分で始まる」

 まあ外国の映画、というのだけはわかった。

「そうだな、ボーリングも特にしたかったというわけでもないし。別に格別したくないことに何十分も待つなんてめんどくさいしな」

「映画でいいんじゃない」

 摩耶の一言で決まった。映画のタイトルも聞かずに。


 映画の内容は、第二次世界大戦を舞台にしていて、最初は仲の悪かった兵士たちが最後は仲良くなる、しかし誰かが死んでしまうという誰にでも分かりやすく、安心して見られるストーリー展開だった。主人公が今も戦争をバリバリ現役でしている国の出身なので、『戦争反対』的なメッセージは必然的に強くもなく、終始『友情』が全面に押し出されていた。

 映画の内容よりも初めて食べたキャラメルポップコーンの味に透は感動して、上映中映画館を抜けて売店に、もう一箱買いに行った。

「いやあ感動したな」

「ポップコーンにでしょ」

「俺は映画も良かったと思うぞ」

 櫻井が取り繕うように言った。

「まあまあだったな」

「『まあまあ』ね。いつも映画に行ったら寝てるくせに。起きていられたってことは、まだマシだったってことね」

「あれだけ銃声やら爆撃やらを大音響でやられたらな。流石に寝られん」

 その後、透たち3人は大声を立てて笑った。


「じゃあ、僕は図書館に行くから」

 透は映画館の外で二人と別れた。

「相変わらずだな。まぁ俺たちはモールを少し回ってから帰るよ」

「また学校でね」

 摩耶が手を振った。


 透は時計を見た。4時30分。今から自転車で、ゆっくり行っても5時30分には図書館に着くだろう。けれど透は自転車を立ち漕ぎで走った。土手の上は向かい風で、焦る気持ちとは裏腹に自転車のスピードは上がらなかった。川の反対側に図書館が見えたが自転車を漕いでもこいでも近づく気配はない。

 やっとの思い出図書館に着いた時、腕時計は5時5分を示していた。急いで自転車を停め、図書館の階段を二段飛ばしで駆け上がった。足がもつれそうになりながらたどり着いた2階の貸し出しカウンター前には人は誰もいなかった。受付の女の人がとても驚いた顔をしているのに気づいて、透は伏目がちに会釈し、早歩きで『美術』のコーナーに急いだ。


「やあ」

 透は息を整えながら、できるだけ平静を取り繕って言った。優子は透が来るのを知っていたのか、いつも通りの口調で、

「うん」

 と言って、彼女の前の椅子を指差した。座れということだろう。

「元気?」

「ああ、まあ」

 透は答えながら座った。『元気』と聞いた優子の言葉には感情がこもっていなかった。。

「そっちは?」

「私も元気よ」

 そう言う優子の視線は丸テーブルの真ん中に向いていた。

「もしかしたら、透君は今日来ないんじゃなかって思ってたわ」

「今日は友達と一緒にいたんだ」

「前の男の子とその彼女?」

「ああ。でもなんで分かったんだ」

「あなた友達そんなに多そうじゃないもの」

 優子は少し斜めに透を見て言った。

 透は反論しようとして口を開いたが、言葉は出てこない。

 確かに優子の言ったことは正しかった。透はあまり友達がいない。正確には『親しい』友達を意図的に作るつもりがなかった。特定の友達と仲良くなって、学校で話をしたりどこかへ遊びに行ったりすることは楽しいかもしれ得ない。だが透は自分の好きな時間を諦めなければならなくなる友達関係なら元々ない方がましだと思っていた。それは読書の時間であり一人で何も考えずに図書館の椅子に座って窓の外を眺める時間のことなのだ。透のことを知ってか知らずか、自然な距離を保ってくれる櫻井みたいなやつが今日みたいにボーリングに誘ってくれたりすることは透にとっても嬉しい子だ。平凡で単調な毎日に危険を感じない程度の変化があるということは、透も大事だと思う。しかし少しでも許容範囲を超える事態があると変に緊張してしまう。

 今目の前に座っている女の子態度は明らかに透の許容範囲を超えていた。だからといって透に出来ることは何もなかった。

「今日も本を借りに来たの」

「いや今日は、もしかしたら君がここにいるかもしれないかと思って」

「いるわ」

「分かってる」

 沈黙。長い、長い沈黙。

「今日も図書館が閉まるまでいるのか」

「答えは知っているでしょ。私はいつもここにいるわ」

 優子は今日初めて笑った。

「ああ、そうだな。多分、僕より長くいる。今まで会わなかったのが不思議なくらい」

 そこからしばらく、今日櫻井と摩耶と見に行った映画の話や、櫻井が買った本について話した。摩耶が実は本が好きで、その話題でかなり盛り上がったと言うことは言わないでおいた。

「今日は、ちょっと早いけれど帰るよ。なんか急に疲れが出た」

「知ってる?自転車に乗るのも運動の内よ。なれないことをするから。気をつけて帰ってね。明日も待ってるから」

「ああ、また明日」

 透は自転車に跨りながら、今日出された大量の宿題のことを思い出した。振り返ると図書館が沈む太陽に照らされて朱色に染まっていた。この時間の図書館はいつもは、悲しいような寂しいような佇まいを漂わせている。透は真っ暗になってから帰路に着くより、この時間に図書館を出るのが好きだった。この物悲しさが、なぜか明日への希望を与えてくれるような気がした。

『ニャー』

 三匹の猫が、自転車に跨ろうとした透の前を、おしゃべりをしながらゆっくりと横切っていった。

「猫ってのは群れを作らないんじゃなかったっけ」

 独り言を言いたい気分だった。そして、なぜかそれは自然なような気がした。  

 『文化の森』には図書館の他に博物館や文書館、大きな公園などががある。ちょっと小高くなった、八の中腹には神社があり、そこでは猫が神様として祀られている。同時に、飼えなくなった猫の捨て場となっていた。『猫神様』と親しみを込めて呼ばれているだけあって、そういった猫たちの住処となってしまっていた。参拝客も猫に食べ物を持って来るので、猫たちは『食』と『住』には全く困らず穏やかに暮らしていた。安心感からくる不思議なコミュニティが猫たちの中にできていた。人も動物も、争いが起こるのはだいたい欲しいものが手に入らない時だ。彼らは人間を全く怖がることはなかった。どちらかというと、人間は餌を持ってくる『召使い』程度にしか見ていないのかもしれない。

 透は猫が横切り、神社の階段を登っていくのを見送りながら自転車を漕ぎ始めた。空は、もうすでに暗くなってきていた。

 その日はなんとか11時までに宿題を終わらせ、風呂の前に30分だけ本を読んで寝た。ベッドに横になると急に疲れが出た。今日は色々とあった。窓から入ってくる心地よい風に肌に感じながら、透の目は静かに閉じていった。


「おい横山、すまんが理科室の鍵を12組の下窪先生に持っていってくれないか。今日、12組は実験があるはずだから」

 透の担任と12組の下窪先生の専門は化学だ。多分、職員室に理科室の鍵を返す時間がないないんだろうな、と思いながら透は鍵を受け取った。

 もしかすると優子に会うかもしれない。速くなりそうな歩調を抑えるために床を見て歩いた。もしかしたら優子は学校にすらきてないかもしれない。

 北棟と南棟の間の渡り廊下を渡りながら透は、もし優子にあってしまったときの対処を考えていた。手を振るのはちょっと照れくさい。かといって見かけても何も反応しないと、後で絶対に何か言われそうだから会釈だけはしようと心に決めた。もし走って透の方に走ってきたりしたらどうしよう。けれど12組には別に親しい友達もいないしな。いろいろなことが頭を巡っているうちに気がつけば12組の前に来ていた。とりあえず先生に頼まれた鍵を下窪先生に渡なければならない。ドアの近くの生徒と目を合わせないように、先生の所へ早足で向かった。

「おお、ありがとう」

「いえ、とんでもないです」

 下窪先生は透の上擦った声を気にもせず、鍵を受け取った。透は意識的にゆっくりと生徒が座っている席の方から振り向いた。もし、優子が教室にいるのなら絶対の透の方を見ているはずだ。優子はいなかった。

「よう、横山、何やってるんだ」

 不意に後ろから声を掛けられて、透は飛び上がった。

「おう、木下」

 木下は透と同じ中学出身で、一時期一緒に図書委員をしていた時がある。二人とも人見知りなので、最初は同じ時間帯に図書委員の仕事が当たってもまるっきり目も合わさずにいた。ある昼休み、いつも通り透が図書委員の仕事をしていると、その日は仕事の当たっていない木下が本を返しにやってきた。木下が持ってきた本は『海がきこえる』。氷室冴子の最新刊で、透は先週県立図書館で借りて読んだばかりだった。

「それ読んだのか。どうだった」

「ああ、これか。すごく良かったよ。特に、風景の描写が感情の描写に絶妙にあっていてな。挿絵もかなりいい線いっている」

「だよな」

 透は、まるで自分がほめられたかのように嬉しくなった。それから木下とは本について色々と話すようになっていった。どちらが学校の図書室の小説を先に読み終わるか競争したりもした。結局、その競争は透が勝った。木下は中学3年の夏前から、有名な進学塾に通い始め本を読む時間が激減してしまった。


「最近読んでいるか」

 木下にあった時に聞く事はいつも同じだ。そしてこの質問をするたびに透は、『ああ、僕は木下とは結局、本以外の会話も出来ないんだな』と寂しい気持ちになった。そして木下の答えはいつも同じだった。

「いや全然。全く時間が取れないよ」

 この理系の応用クラスに席を置いている時点で、楽しみのために本を読む時間なんてない。南高から理系の国立大、有名私立に進学するのはこの12組の生徒だった。

「けど昨日さ、図書館に行ったのよ。でお前を見かけたんだけと、お前ってなんか一人でぶつぶつ喋っててさ。僕も時間が無くてさ、声もかけなかったのよ。なんか暗記でもしてたの」

「ああそうそう。国語のさ」

 透は答えながら、木下の言った言葉を頭の中で反芻していた。昨日って、どういうことだ。

「まあ、時間があったらもっと本読めよな」

 透は木下に、いつも通りの言葉、を残して12組を後にした。

 渡り廊下を歩きながら、もう一度木下の言葉を繰り返していた。


「やあ」

 透はカウンターの間に陳列されていた新刊を丸机に置きながら言った。新刊ではあるものの『紛争の歴史 アフリカ編』などという重苦しいタイトルの本を、夕暮れ時に読む人なんかいないだろう。

「こんにちは」

 優子は無造作に置かれた本のタイトルを一瞥して言った。

「あなた、こういう本に興味があったの。驚きだわ」

「いや、新刊だったから。新刊はとりあえずチェックすることにしてるんだ。食わず嫌いはだめだからね」

「アイザック・ディネーゼンの『アフリカの日々』はもう読んだ」

「それはまた、古い本だな。読んだ事はない。有名なのは知っているけれど」

 優子は口だけで微笑んだ。

「透君は紛争の方が好きだものね」

「まあね」

 透は急に穏やかな気持ちになって、穏やかならぬタイトルの本をパラパラとめくり始めた。

「おい、横山」

 振り向くと櫻井がいた。

「よう櫻井、こんなところでお前に会うなんて」

「まあな」

「『坊ちゃん』を読み終わったか」」

「そうなんだ。一気に読んじまったよ。最後で主人公が思いっきり暴れて、結局東京へ帰ってしまってびっくりしたけど。予想を上回る結末だったよ」

「で、本の魅力に取り憑かれて図書館に来たというわけだ」

「速い話がそうだ。『取り憑かれた』ってのは言い過ぎな。けど面白いとは思った。ちょうど良かった。本を選ぶのを手伝ってくれるか」

「もちろん」

 透は優子に軽く目配せして席を立った。


「どんな本がいい」

 透は現代小説の棚の前に立っていた。

「とにかく面白いのがいいな。展開が早くて、もちろん最終的にはハッピーエンド的なやつ」

「ああ、大体の本はそんな感じだな」

「そうなのか

「ロシア文学にさえ手を出さなければ大丈夫だ」

 透は左から右に目を動かして、一冊の本を抜き出した

「『おいしいコーヒーのいれ方』どうだ」

 櫻井は表紙をまじまじと見た。

「うわ、なんか借りるのにハードルが高そうな本だな」

「まあ読んでみろ。多分今のお前に合っている」

「お前が言うんならそうなのかもな。わかった」

 櫻井はポケットの中から財布を取り出して、図書カードを持っているか確認していた。

「おお、あったあった。最後に使ったのはまあこの前の発表の時だしあるのはわかっていたけどな」

 櫻井は自分のカードを何か珍しいものでも見るように見ていた。

「そういやさっきお前、本を読みながら一人でぶつぶつ言っていたけど、何か音読でもしていたのか」

「えっ」

「結構大きな声で喋っていたからさ。図書館では静かにしなければいけないんだぞ」

「ああ、分かってる」

 透は、手に取った表紙の絵をまじまじと見ている櫻井横顔を見ながら、背骨から体全体の力が抜けるのを感じた。左手を本棚について、足首を一つずつ入念に回してみた。透の動揺をよそに櫻井は笑顔で、

「じゃあこれ借りるわ。そのまま、帰るから、また明日な」

 そう言って帰っていった。透は自分でもわからない言葉を喉の奥で発して、真っ白の頭でなんとか手を振った。櫻井は透のそんな透に気づく事なしにカウンターの方に小走りで消えていった。


「どうしたの。まるで幽霊でも見たみたい」

「ああ、かもしれない」

 透は腰掛けながら『紛争の歴史』を拾い上げた。優子は微笑みながら透の目をじっと見ていた。

「僕は今日、読む本を間違えたのかもしれない」

「そうね」

「ああ」

「今からでも遅くはないわ」

「大丈夫、今日はこの本でいい」

 透は小さく答えて、適当に開けたページを読み始めた。

 少しだけ中東の歴史に詳しくなった時、透は顔をあげて優子を見た。優子は、そこに座っていた。椅子に深く腰掛けてなんと無く、透の後ろの方を見ていた。透はほっとした。

「面白そうに読んでるじゃない」

「まあね。思ったほど悪くない。ただ、どうでもいい事で人がたくさん死ぬのは馬鹿らしいな」

「そうね。馬鹿らしいわね」

「人の死はもっと意味があるべきだ」

「そうだとは思うけれど。実際どうかは、分からないわ」

「君の死には意味があったのか」


 長い沈黙。多分実際は3秒もなかっただろう。沈黙というよりは時間が緊張で凍りついたような感覚。

「無かった」

 優子は視線を変えずに言った。

「少なくとも私にとっては」


 透は一度視線を本に落とし、静かに閉じた。題名を下にして本を置きながら、優子を見た。

「16年生きたけれど、別に大した人生では無かったわ」

「そんなことはないだろう」

 優子は透の言葉には答えず、話を続けた。

「猫をね、助けようとしたの」

 どこで?と聞こうとした、透は全てを察して口ごもった。

 去年の夏休み、図書館に救急車が来たのを透は覚いだしていた。図書館の外で、けれど近くで、救急車のサイレンが鳴っていた。夏休みが始まったばかりのとても暑い日で、透は昼ごはんを食べに外に出るのも億劫で涼しくなる夕方まで本を読むと決め机にかじりついていた。熱中症で誰か倒れたのかな、程度にしか考えていなかった。そして夏休みだったので、学校で生徒が事故にあったということは登校日になんと無く聞いたが、透にはそれが図書館での救急車と結びつくことは無かった。2学期が始まる頃にはそんな話しずらい話題にあえて触れる友達もおらず、各々が夏休み中に旅行に行った話や、高一ながら塾で一夏潰れてしまった話で夏休み明けはもりあがった。

「じゃあ君は僕の1年先輩なわけだ」

「そうなるといえば、そうね。でも私の時間は止まってしまっているから。来年になればあなたが年上で、先輩になっているかもね」

 優子は笑った。その自虐的な笑顔は哀愁というよりも、透が先輩になるかもという言葉に対するおかしさから来ていた。

「猫はね。助かったわ。多分、私が助けようとしなくても助かったと思うわ」

「そうか、それは痛いな」

「うーん、別に痛みはなかった」

「いや、そういうことじゃ無く」

「分かってる。私、血も出なかったのよ。お母さんもお父さんもすごく泣いていたけれど、少なくとも体はそんなにひどい状態じゃ無かったから。そこまでは親不孝ではないと思うの」

 透はなんと言えば良いか分からず、ただそこに座っていた。ただ視線だけは優子の目を見ていた。優子が消えないように。

「で、なんでここにいるようになったんだ」

 優子は机の上をぼんやり見た。

「それは、ずっと考えているんだけれど。分からない。ただ、外でずっと立っているのは嫌だったんだと思うわ。少なくともここなら、雨は当たらないし」

「雨か」

「雨、多分何も感じないと思うけど、雨の中ずっと立ってるのって寂しいじゃない」

「確かに」

「この席に座る人にずっと話しかけていたの。もちろん透君、あなたが来るまで私に気づいた人は誰もいないわ。私ね、霊感のある人ってもっといると思っていたの。けど、私に気づいてくれたのがあなたで良かったわ。多分小さい子だったら泣いて逃げていたと思うし。大人だったら、変に噂になって人が寄ってきていたと思うの」

 透は『紛争の歴史』を左手でパラパラとめくった。

「ずっとここにいるのか」

 優子は肩をすくめた。

「うん、ずっと」

「これからもか」

「分からない。そうかもしれない」

 透は図書館が好きだ。だがそれはあくまで『わざわざ時間を作って訪れる』から価値があるものだった。もし透も図書館にずっといなければならなくなったら、その時はもう『好き』とは言えないだろう。

「じゃあ、明日来てもいるんだな」

 優子は透の方を、幽霊でも見たかのように驚いた表情で見つめた。それから一息ふた息ついて、

「うん」

 と言って透の方を見た。


 その後、透は長い間お風呂に浸かった。とても長い間。透の母親がもう出るように透をせかした時はすでにお湯は冷たくなっていた。


「私、あなたはもう来ないと思っていたわ」

「なんで。『また明日』って言ったじゃないか」

「私にはもう来ない『明日』ね」

「なんだそりゃ。なんかいきなり喋るようになったな」

「そりゃそうよ。私も、私なりにどうしようか悩んでいたんだから」

「悩めるってことは、生きてる証拠だよ」

 優子は透の方を睨んだ。

「本でも読んだら」

 冷たく言って、透とは目を合わせないように遠く方を見ていた。

 透は立ち上がり、適当な小説を持って丸テーブルに戻ってきた。どれだけ優子が怒ったとしても、優子はいつもそこにいる。訳の分からない安心感があった。

「昨日の『紛争の歴史』はどうしたの」

「ああ、気が滅入るからやめた」

「『気が滅入る』」

 優子は透の言葉を繰り返した。

「あなた、私がここから動けないからって、からかっているんじゃないでしょうね」

「いやそんなことはない」

 透は笑いながら言った。周りに人がいないか気にしながら。

「で今日は何を読んでいるの」

「何かの新作。多分高校野球の話だろう」

 透は表紙を見せた。

「野球のユニフォームを着た男の子が3人、とバットをもった女子が一人」

「多分、田舎の高校が舞台で、部員が足りないから昨日までマネージャーだった女子が選手になるって話じゃないかしら」

「可能性はなきにしもだな」

「そうにきまってる。そして最後は県大会の一回戦でギリギリのところで負けるのよ。結局、層の厚い高校には勝てないし、逆に勝ってしまったらしらけてしまう。どちらにしても表紙の絵で大体の話の展開が読めるなんて本、私は読みたくないわ」

「けど、安心感はあるな」

「先が分かっているなんて、面白くない」

 そう言って優子は本のカバーに一瞬だけ目をやり肘をついて明後日の方を見た。

 優子が本の事だけを言っているのが分かって、透は黙ってしまった。適当に30ページ目くらいをめくり数行読むと、表紙の女子らしき人物がノックを受けている描写があった。どうやら、この女の子は小学校の時に野球をしていたらしい。恐らく、サポート役としてでも野球に関わりたくマネージャーになったが、部員が足りなくて選手をすることになったらしい。少なくとも、彼女が全くの素人ではないところに透は安心して、本を閉じた。素人がいきなり野球ができてしまったらそれこそ興醒めだ。

「どうしたの」

「ああ、なんと無く結末が見えた」

 優子は少し顎を斜め上にあげて、『そうでしょう』と言わんばかりの目で透を見た。けれど、目に灯った自信が溶けるように流れ落ちるのが見えた。

「ねえ、私ってこれからどうなると思う」

 

「昨日から、それをずっと考えていた。僕は今までたくさん本を読んけれど、それはあくまでも著者の空想の産物であって、登場人物は全員、結局は作者自身の投影だ。そして僕はこの物語の作者じゃない。だから、分からない」

「私はどうなると『思う』って聞いたの。どうなるじゃないの。それに私が私の物語の作者なら、あなたのアドバイスでこの話の結末を変えられるかもしれない」

「じゃあ、君はこの結末どうなると思うんだ」

「ここでずっといる。この図書館がある限りずっと。もしこの図書館がなくなったら多分、隣にある、猫がいっぱいいる神社にいるようになるんじゃないかな。そうなるとお祓いされるかもね。そうなったら今度は、近くのバス停のベンチにでも座ろうかしら。屋根があるしね」

 最後の方はだいぶ投げやりな言い方になっていた。

「つまり、結局よく分からないということか」

「そうね。じゃあ貴方が、なんとかしてくれるのかしら」

 透は優子の目をまじまじと見て、それから机の上の本の表紙の中の元女子マネージャーを見た。

「そうだな。じゃあ僕がずっと一緒にいてやろうか」

 自分でそう言いながら、透は喉につっかえていたものが取れたような気がした。

「バカね。そんなことできる訳ないじゃない」

「ああ、図書館が潰れるまでな」

 優子は目をしかめて怒った顔を作った。

「流石に図書館がなくなって神社の境内に一人で突っ立っているのは怪しいしな」

「今でも多分、あなた十分怪しいわよ。はたから見たら独り言言っている怪しい学生よ」

「本好きは変な奴も多いからな。まあ大丈夫だろう」

「あなたに家族が出来たらどうするの。好きな人でもそうよ」

「ああ、その時は別に、僕の家に移れるなら移ってきてもいいぞ。ああ一番いいのは僕がここの図書館司書になることだな」

「いま私がどれだけこの場から立ち去りたいか分からないでしょうね」

「分からない。本当にこの女の子がレギュラーメンバーになって県大会予選に出るのかどうかくらい」

 優子はまた怒ったような顔して、今度はうつむいた。

 優子は長い間うつむいていた。

 なんとなく時計を見るとすでに7時になっていた。

「じゃあ、また明日」 

 透は本を拾い上げ、立ち上がった。優子は透の方をじっと見ていた。

「明日、その本の感想を聞かせてね。最後までわからないわよ」

「もちろん」

 透は、後ろを振り返らずにカウンターの方へ向かった。


 次の日、優子はいなかった。いつもの丸テーブルの椅子はきっちりと机の下に押し込まれていた。

 透は昨日借りた本の背表紙を机の上で2回、トントンと叩いていつもの椅子に座った。本は読まず、透は日が暮れるまで座っていた。


 1週間立っても、優子は現れなかった。元々、そこに居たのだ。現れるという表現はおかしいのかもしれない。透は本も読まずにただ下を向いて椅子に座り続けた。

「これでは僕が図書館に住む幽霊みたいだな」


 次の週も透は座り続けた。


「おい、何してんだ」

 振り向くと櫻井が摩耶と一緒に透の後ろに立っていた。

「珍しいなお前が何も読んでいないなんて」

 透は体を向き直した。透は本すら持たずに座っていた。

「ああ、新刊もほとんど読んでしまったし、ちょっとな、図書館の雰囲気や本を読んでいる人の息遣いを味わっていたんだ」

「本好きもお前くらいになると、常人の理解の範疇を越えるな。まあいい。この前の本、読み終わったんだ。またなんかおすすめはないか。摩耶に聞くとさ、俺の好みと違うし、訳の分からん講義が始まるしでケンカになっちまう」 

 後ろで摩耶が透に目配せをした。透はちょっと考えて、ゆっくりと立ち上がりながら言った。

「分かった、今回は僕のとっておきの本を紹介しようか。借りられてなければいいんだけれど」

「で、この後、マックにでも行こうぜ」

「悪くないな。でもタイカレーっていう選択肢もあるぞ」

「タイカレー?」

 二人が同時に変な声をあげた。透は大袈裟に周りを見回した。

「どんな味かは分からないけれどな。美味しいかもしれない」

 そして3人は『小説』のコーナーの方へ歩いて行った。









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