塁、涙、るい Ⅰ
お久しぶりです。
ごんっ。
夏休みも終盤の8月末、るいがルーフバルコニーへ続く階段を降りていた時のこと。るいはスカッと階段を踏み外した。あ、と思った時にはもう遅く、手すりを掴もうとしたるいの手は虚しく空を掴んだ。るいは衝撃に備えて目をぎゅっとつむった。そして冒頭の様な、鈍い、重たい音がして、1階の地面に不時着した。と同時に体の打ったと思われる部位が痛みを訴え出す。
「いたぃ……」
涙目になりながらるいは痛いところをせめて撫でて落ち着かせようと、お尻と頭に手をやった。しまったなぁ……。痛む後頭部を撫でながらるいは顔をしかめた。これは後日ちょっとしたたんこぶができる予感がする。
「大丈夫? 今なんかすごい音したけど……」
悠乃が駆け寄ってきて、階段の麓で頭やお尻をさすっているるいを見て目を見開いた。
「え、まさか落ちたの? 階段から?」
「あー、うん、ちょっとね」
「大丈夫? 頭さすってるけどもしかして打ったの?」
心配そうな顔をする悠乃。るいは苦笑した。
「ちょっとね。でもこれくらい大丈夫でしょ」
「いや、音凄かったよ? 澪ー! るいが階段から落ちて頭が打ってるー!」
ちょっと、そんな澪を呼ぶほどの大袈裟なことじゃないってば、と言うるいの静止も聞かずに悠乃はリビングに向かって大声を上げた。
「え、大丈夫か?」
声を聞きつけた澪がやってくる。
「いや、本当に大丈夫だから」
「本当に?」
「本当に」
るいをじっと見つめる澪。るいも澪をじっと見つめ返した。
「まあでも今日は安静にしといたほうがいいよ、激しい運動とか控えてさ」
騒ぎを聞きつけた湊音が澪の後ろからヌッと現れて言った。
「で、後日それでもおかしいとこがあったら病院行きなよ?」
悠乃と澪がそうだな、と言わんばかりに、うんうんと頷いた。
「え、こんなことで病院行っていいの? たかが階段数段落ちただけだよ?」
るいがキョトンとした顔になった。
「頭打ってる時点で、それ、たかがって言わないよ」
悠乃の返事にるいは驚いた様な顔をしたかと思えば、一瞬、ほんの一瞬だけ無表情になったようにみえたが、にっこりと笑って言った。
「わかった、何か変だったら病院行くよ」
****
それが2日前のこと。結局、あの後様子のおかしいところもなく、本人も全然平気、とのことで、るいの病院行きは見送られた。そして今日は星蘭学園の夏休み最後の登校日らしく、朝から文句を垂れ流しながら登校していった。
「ねえ、るいってさ」
お昼過ぎ、るい不在のいつもより静かな男3人のリビングでふと洗い物をしていた悠乃が口を開いた。
「……るいの病院行く基準ってちょっと変だよね」
悠乃がちらっと他の2人を見ながら聞いた。
「わかる」
皿を拭いていた湊音が即答した。湊音の手元の皿が拭われてキュっと音を立てた。
「病院に行く基準のハードルが高いって言うかなんて言うか……」
次々と皿を拭く湊音。キュッキュと言う音がその度に鳴る。
「1年前の風邪の時も僕が無理やり病院に連れていった記憶あるわ」
澪が食器を棚に戻しながら思い出した様に呟いた。
「ああ、そういやそうだったね……」
1年前、38度の熱があったるいを澪が半ば引きずる様に病院に連れていったあの光景はなかなか忘れられるものではなかった。
「……僕、思うんだけどさ」
湊音が吹き終わった皿を皿の山に重ねた。カチャンという、陶器特有の軽くて重い音がした。
「何?」
「るいに病院行ったら? とか言った時、一瞬真顔っていうか、無表情になる瞬間がある気がするんだよね。今回もるいがこれくらいで病院へ行っていいのか、って聞いて、悠乃がいいでしょって言った時、見た気がする」
そうじゃない? とばかりに湊音は顔を上げた。
「その時だけじゃなくない? あいつ結構いろんなところで無表情になるよ」
「そうだよね、割と多いと思うけど」
悠乃と澪が今更? と言わんばかりに首を傾げた。
「僕は基本なにか、気を遣われるとそういう顔をするんじゃないかなって思ってるけど」
「僕もそういうふうに思ってた」
「え、マジか、僕は他のシーンあんまり気づかなかったけど」
「おまえが誰かに気を遣う様なやつじゃないから、るいにもそのまま接してて見たことがないだけ、ってとこじゃないか?」
「いや、言い方」
「事実だろ」
「事実だね」
「まあとにかく言えるのは、気を遣われることに慣れてないんじゃないか、ってこと」
澪が棚の扉を静かに閉めながらまとめたその時だった。
「うーん、ちょっと正解で大方間違いかな」
リビングの扉に寄りかかったるいが答えた。
続きます。