第9話 命令は上書きされるもの
「ずいぶんお悩みのようだな」
古びた工場跡に、機械のように無機質な声が響く。
振り向いたセンパイとカスの前に、ソレは現れた。
黒いローブを纏い、顔の全面を白一色の仮面で覆い隠した人物。
怪しさを画に書いたような風貌。
センパイは舌打ちしながら、仮面の者を一瞥する。
「仮面野郎が。なんの用だ」
この仮面の人物は、いつの間にか組に入り込み、ボスに重宝されるようになったらしい。
だが、しょせんぽっと出。
センパイのような下の人間たちにとっては、もっぱらやっかみの対象だった。
「そんなに怖い目で見ないでくれ。ボスに会いに来ただけなんだよ」
仮面の者がひょうひょうとした口調で言うと、センパイは苛立たしげに舌打ちする。
「こんなところに来るわけねーだろうがよ」
「そうか、それは残念だ。ボスの機嫌を取れそうな、いい話があったんだがね」
思わせぶりな口ぶりに、センパイの眉がぴくりと動く。
あからさまに、センパイたちの事情をしっているような態度だ。
「おや、気になるか?」
仮面の者は、変声機越しに挑発的な笑いを漏らした。
普段のセンパイなら、こんな舐めた態度を取られたら即座に怒鳴りつけていたはずだ。
だが、今日ばかりはそんなわけにもいかない。
センパイは今、藁よりはマシなものに縋りつく必要があった。
「テメェが話したい、ってなら好きにしろよ」
「では、そうさせてもらおうかな」
仮面の者は、一枚の写真を差し出した。
センパイは手に取り、訝し気に眺める
――この女がなんだっていうんだよ。
そう言いたげなセンパイに、仮面の者は静かに告げた。
「ボス好みの女さ」
センパイの眉間にしわが寄る。
――コイツが?
その反応を見透かしたように、仮面の者は言葉を継いだ。
「信じたくないなら、それでいい。だが、私が今まで組にいかに利益をもたらしてきたか、君も十分知っているだろう?」
センパイの胸がざわつく。
くやしいが、それは事実だった。
この得体の知れない人物は、組の内外の情報に精通し、的確な助言を与え続けてきた。
だからこそ、ボスはこんな怪しい奴を使い続けている。
「もしこの女を用意できれば、少しはボスの機嫌もよくなるんじゃないかい?」
悪魔のささやきだった。
センパイとカスは、小秋市の東部へと向かっていた。
仮面の者が示したのは、年季の入ったリサイクル店が並ぶ一角だった。
――いいぜ、やってやるよ。
今さら一人増えたところで、大して変わらない。
◇
ホカゼは帰り道を急いでいた。
空はすっかり暗くなり、星が煌めいている。
――都市の灯りが乏しい分、星がよく見えるんだ。この時代の、数少ない利点かもしれねえな。
ホカゼはふと、イヒトがそんなことをかっこつけて言っていたと思いだした。
時計に目をやると、もうとっくに夕飯の支度を始める時間を過ぎていた。
ため息を一つ。
ホカゼは買い物袋を両手に、足早に歩きだし――
背後から迫る影があった。
「きゃっ……!」
誰かに腕を掴まれた瞬間、ホカゼは悲鳴を上げた。
だが、その相手の顔を見て、驚きの声がすぐに変わった。
「――イヒトさん?」
「お前、な……出歩くなって、言っただろ……」
乱れた呼吸を整えながら、イヒトはホカゼに言った。
ホカゼは驚いていた。
何がって、急に現れたことじゃない。いや、それもびっくりはしたんだけれど。
ホカゼは帰り道、イヒトへと連絡していた。これくらいの時間ならまだまだ平気だとは思うけれど、一応、念のためと。
イヒトが帰ってきて自分がいなかったら驚くと思うし、買い物に出かけたことくらいは知らせておいたのだ。
でも、送ったのはついさっき。だっていうのに、まさか、追いつかれるなんて思っていなかった。
あまりに大量の汗を浮かべるイヒトに、ホカゼは少しだけ悪い気がしてくる。
「わざわざ来なくてもよかったのに」
「んなわけにいくかよ」
そう言って、イヒトはホカゼから買い物袋をひったくった。
「ったく、これからはもっと前に知らせろよな」
「……うん」
ホカゼは小さくうなずいた。
イヒトにはいろいろ言いたいことがあったはずなのに、すっかりどこかへ行ってしまった。
そこまでなら、ホカゼはイヒトを少し、見直したかもしれないのに。
次の瞬間、イヒトは相変わらずの口調でつぶやいた。
「どんだけ買い込んでんだよ。やっぱり忘れものが多いじゃねえか」
ホカゼの眉がぴくりと動く。ホカゼの目はもはや、笑っていなかった。
「――そうだ、イヒトさん。話があるんだけど」
「あ? なんだよ」
「リィズリースさん、って知ってる?」
その名前を口にした瞬間、イヒトの顔色が面白いように青く変わったのを、ホカゼは見逃さなかった。
◇
リィズリースは、ホカゼに「好きに過ごしていい」と言われた。
だから、リィズリースは外へ出た。
イヒトからは「おとなしくしてろ」と言われたが、ホカゼは「好きにしていい」と言ったのだ。
もし「絶対に」と強く言われたなら、リィズリースはてこでも動かなかったかもしれない。
その程度には、イヒトの言葉を尊重したはずだ。
だが、イヒトの指令は曖昧なものだったし、ホカゼとの力関係を見るに、上書きして問題ないと判断したのだ。
だから、リィズリースは靴を履き、裏口の扉を開けて、街に出た。
リィズリースには探したいものがあったのだ。
◇
リィズリースは、人気のない街角に佇んでいた。
景色を見ることもなく、まるで置物のように、ただじっと立ち尽くしていた。
その様子を、物陰からひそかにうかがう者がいた。
センパイだ。
仮面の者の情報は正しかった。写真の女は、確かにそこにいた。
整った顔立ちの、美しい女だった。
だが――センパイは眉間にしわを寄せる。
「ボスも趣味がわりぃな」
女は、この場にあまりに不釣り合いだった。
異様な美貌、上品な身なり。舗装もされていない田舎道では、浮きすぎている。
なにより――まるで抜け殻のように黙って立ち尽くすその姿は、不気味ですらあった。
「……ったく、目立ちすぎだ」
さすがにこのまま「招待」するのはリスクが高い。
日を改めるべきか――
そう考えかけた瞬間、センパイは思い出した。ボスの帰還まで、時間がない。
煙草をふかし、逡巡する。
どうするか。
その点、カスは潔かった。
別の場所で見張っていたカスは、女を見つけるなり即座に結論を出した。
「さっさと車に乗せればいいじゃん」
簡単な話だ。
カスは、自分には物事の本質をとらえる能力があると自負していた。
こういう時は大胆に動いた方が成功するに決まっている。完璧な理論だ。
そうと決まれば早かった。
「なあ、ちょっと来いよ」
何の前触れもなく、カスは女の手を掴んだ。そのまま強引に路地裏へと連れ込む。
通行人が一瞬目を留めたが、すぐに日常へと戻っていった。
「ほら、楽勝じゃん」
満足げに頷くカス。
だが、次の瞬間にはセンパイが血相を変えて駆け込んできた。
「カスてめぇ! 殺されてぇのか!」
「でも、センパイ。ちゃんと『招待』したッスよ」
「……っ!」
無邪気に言い放つカスを見て、センパイの頭が沸騰しかける。
――自分のしたことを何も理解しちゃいねえ!
今すぐにでもぶん殴ってやりたい衝動にかられる。だが、そんな場合ではない。
一刻も早く、女を車に引きずり込もうとして――
「お待ちしておりました」
リィズリースの言葉に、センパイの動きが止まる。
「……あ?」
「案内、よろしくお願いします」
あっけにとられるセンパイをよそに、リィズリースは、静かに車へと乗り込んだ。