第83話 一方的で感動的な再会
本日更新予定3話中の1話目です。
小秋市郊外にある、元中学校。
その体育館だった建物は、今や名ばかりの残骸だ。
高い天井に残る古びた梁。
剥げ落ちた塗装の窓枠が、その長い歴史を静かに物語っていた。
だが、漂うのは懐かしさではなく、異様な緊張感。
誰とも知れぬ昔の歌手が奏でるオペラが、スピーカーから低く流れ続けている。
荘厳な旋律が、がらんとした空間の隅々まで満たしていた。
中央にぽつんと置かれたソファ。
その周囲には十人近い人間が、何かに吸い寄せられるように集まっている。
だが、そこに立つ者たちの顔には一様に戸惑いと怯えが浮かんでいた。
ソファを取り囲むいかついアブレたちでさえ、緊張で固まっている。
場の空気に呑まれずにいるのは二人だけ。
ステージの上、大柄な男がゆったりと口を開く。
「初めて姿を見た時から、私はずっとあなたを欲していたんです」
弾麻ダイカツ。
その鋭い眼差しは、焦がれるような熱を孕んでいる。
だが、その熱の先にいるリィズリースは、どこまでも涼しい顔をしていた。
「申し訳ありませんが、記憶にありません」
声は柔らかい。しかし、その落ち着きにはどこか無関心さが滲んでいる。
ダイカツはかすかに目を細めた。
「いえ、無理もありませんよ。私が一方的に知っているだけですから」
奇妙な優しさと執着が入り混じった声。
しかし、その粘りつくような言葉すらも、リィズリースはたやすく受け流した。
「そうですか」
あまりにも簡潔な応答。
まるで、ダイカツの執着そのものを無造作に散らしてしまうかのようだった。
ダイカツは静かに一歩前に出る。わずかな動きにもかかわらず、場の空気がさらに重く沈み込んだ。
「リィズリースさん。私のものになっていただきたい」
響く声は丁寧な礼を保ちながらも、底に熱を滲ませている。
「大変申し訳ありません、お断りします」
即答だった。
迷いの欠片もない、平坦な拒絶。
それがかえって、場の緊張を極限まで張り詰めさせる。
「……なぜでしょう」
ダイカツの声がわずかに低くなる。
「現在の法律上、私の権利を保有しているのは一ノ井イヒトさんだからです」
その言葉に、ダイカツの表情がかすかに曇った。
しかし、怒りも焦りもない。ただ、静かに思考の糸を手繰るような沈黙。
「なるほど……まずは彼の説得から始めなければならないのですか」
その淡々とした言葉に、周囲の者たちは困惑の色を隠せない。
まるで何か決定事項のように語られるそのやり取りは、誰一人理解が追いついていない。
一人を除いて――
「なにわけのわからんことを言っとるんだ!」
突然の怒鳴り声が大きく響いた。
財津の声だった。
だが、その怒りは相手に届くどころか、場違いなほど浮いていた。
ダイカツは冷ややかに眉をひそめる。
「……わけのわからない、ですか」
その視線が財津に向けられた瞬間、財津の勢いはあっさりと削がれた。
冷たく計るような眼差しに射抜かれ、財津は思わずたじろぐ。
「あれほど発掘物から目を離すなと頼んでおいたのですがね」
深いため息が、失望と共に漏れた。
「よりによって――氷解者などという、この上なく目立つ発掘物を素通りさせるとは」
財津はたじろぎ、声を詰まらせた。
その無様さを見透かすように、ダイカツは鼻を鳴らした。興味を失ったように視線を逸らすと、静かにホカゼの方へ向き直る。
「さて、本郷ホカゼさん」
呼びかけは穏やかだった。
しかし、その裏に潜む危険を、ホカゼは敏感に感じ取っていた。
「……だ、だれなんですか? こんなところに連れ込んで、一体なにを……」
怯えを滲ませながらも、ホカゼの声はわずかに震えるだけで、芯の強さを失ってはいなかった。
その瞳には恐怖と警戒――それでも抗おうとする意志が入り混じっている。
ダイカツはゆっくりと目を細め、まるで優しく諭すように口を開いた。
「一言で言えば、財津課長の巻き添えですね。あなたがこの場にいるのは、その方が連れ去った結果ですよ」
その言葉に、ホカゼははっとして財津を鋭く睨みつけた。
「あなたが……っ!」
財津はばつが悪そうに目をそらした。
だが、プライドだけは捨てられないのか、尊大な態度を崩さない。
「その件に関しては、後でゆっくりお話しされるのがよろしいでしょう」
ダイカツは穏やかに言い添えた。
「ただ――その前に、私の話を聞いていただけますか?」
柔らかいが、その響きには圧があった。
「ちょうどたった今、私もホカゼさんに用ができたところなのです」
ホカゼの表情が強張る。その瞳に浮かんだ恐怖を、ダイカツは楽しむように見つめた。
「大したことではないのですよ。ただホカゼさんには、一ノ井イヒトさんとの交渉材料になっていただきたい――それだけです」
ホカゼは低く息を呑む。
「……人質ってことですか」
「いやぁ、言葉にされてしまうと人聞きが悪いですねぇ。ま――その通りなのですが」
ダイカツは一歩近づく。それだけで、ホカゼも財津も無意識に身を縮めた。
「彼が素直に応じてくれるなら、すぐに解放しますよ。もちろん、リィズリースさんを引き取る際には、相応の対価もお支払いします」
「た、対価って……そんな、人を物みたいに!」
ホカゼが声を荒げる。
怒りと困惑が入り混じった憤りが、張り詰めた空気をかすかに震わせた。
しかし――
「まあ、私に値段がつくのですか?」
リィズリースは平然としていた。
「……ああ、すみません。本来なら値のつけようがないのですが――」
ダイカツは申し訳なさそうに首を垂れる。
「彼に納得していただくためにも必要なのです」
その仕草が誠実に見えるからこそ、底知れぬ異様さを感じさせた。
「そうですか」
リィズリースの返答は簡潔だった。淡々とした返答が、場の温度を凍らせる。
張り詰めた沈黙の中で、誰もが息を潜める。
こらえきれなくなったのは――財津だった。
決してぶれず、決して状況を理解しようともせず、ただ己の身を守るためだけに怒声を張り上げる。
「貴様、いつまでワシをこんなところに居させるつもりだ! ワシが誰だかわかってるのか!」
財津は立ち上がり、怒りを装って自分を奮い立たせる。だが、その喚き声もダイカツには通じなかった。
「……あなたに感謝しているのは、本当なんですよ」
ダイカツはふっとため息をつき、財津に視線を向けた。その目には、冷ややかな失望が宿っていた。
「しかし、いい加減目に余る」
たった一言。
それだけで、財津の肩がびくりと跳ねる。
ダイカツは壇上から静かに降り、無言のまま財津へと歩み寄った。
ただ――歩くだけ。
それだけで、場の空気がさらに重く沈み込んでいく。
財津はじりじりと後ずさりしながら、目を泳がせた。
「な、何をするつもりだ……っ!」
威勢だけを頼りに絞り出す声は、すでに震えている。
ダイカツが財津に何をしようとしているのか、その先に何が起きるのか――誰の目にも明らかに思えた。
だから、ホカゼはダイカツの前に立ちふさがった。
「――あなたがその男をかばうんですか?」
予想外の行動に、ダイカツは目を丸くする。
「本郷ホカゼさん……記憶が混濁してらっしゃるのですか? あなたは、その男に連れ去られたのですよ? おそらく、暴力を振るわれてね」
「で、でたらめを言うな! あれは事故だ!」
財津が慌てて否定するが、その声はあまりにも浅ましかった。
背後に響く、保身しか考えないその声に、ホカゼは眉をひそめる。
だが、背後にいる男への嫌悪を押し殺しながらも、ダイカツをまっすぐに見つめ返した。
「……そ、それでもです」
わずかに震えながらも、短く、はっきりとした言葉だった。
ダイカツはしばらくホカゼの顔を見つめる。
「――ああ、とても美しい」
ダイカツは恍惚とした表情を浮かべていた。その声には、歪んだ感嘆に満ちていた。
「リィズリースさんほどではありませんが、あなたも大変お美しい女性だ」
ホカゼのわずかにたじろぐ。
穏やかな声と視線の奥に潜む不快感が、ホカゼの肌を粟立たせていた。
ダイカツはゆっくりと首を傾げる。
「だからこそ、気になってしまいますねぇ。――あなたが真実を知ってなお、その輝きを曇らせずにいられるのか」
「真実……?」
ホカゼは眉をひそめた。不安が胸の奥からじわじわと広がっていく。
ダイカツの笑みが深まった。
「昔話をしましょう――あるところにアブレの男がいました」
ダイカツはゆっくりと、まるで子供に読み聞かせるように語り始めた。




