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第77話 追われる者を追う者は

本日更新予定3話中の1話目です。




 ホンゴウビルがよく見える位置に、一台の車がぽつんと停まっていた。


 早朝。

 誰も通らない道端。


 風が涼しく吹き抜ける車内に、エンジンの低い振動音だけが響いている。

 その静寂を切り裂くように、助手席から声が上がった。


「あっ……! ちょっと春日井さん、寝ないでくださいよ」


 エコロジカルアーカイブズの社員、手島は眉をひそめ、運転席でハンドルに突っ伏している男の肩を揺さぶった。


「んぁ……なに、動きあったんッスか?」


 春日井――弾麻興業で「カス」と呼ばれた男――は、半分閉じたまぶたで手島を見た。

 その顔には、やる気の欠片も見当たらない。


「それを見張るのが、私たちの役目でしょう!」


 手島は苛立ちを隠せず、声を張り上げる。しかし、カスは眠そうな顔を崩さない。


「いやいや、テジマさんが見てくれてるじゃないッスかぁ……」


 カスは口元を緩め、まるで他人事のように答えた。


「だから違いますって! 見張りは私たち二人で――」


 手島が声を張り上げる。


「えーっと……つまり?」


 だが、カスは頭を掻きながら欠伸を噛み殺し、面倒くさそうに呟いた。


「ああ……! アンタが俺の役目も果たしてくれればぁ……? 俺は寝てていいってことッスよね……?」


「ちょ、せ、せめて交代を……!」


 手島が詰まるように言い募る隙に、カスは座席を倒し、シートに深く沈み込んだ。


「じゃ、おやすみッス……」


 瞼がゆっくりと閉じていく。


「か、春日井さん!? 春日井さん! ……ああもう、なんでこんなことに!」


 手島は頭を抱え、苛立ちを飲み込んだ。

 昨夜の出来事が、ふと脳裏に蘇る。




 ◇




「申し訳ない!」


 エコロジカルアーカイブズの事業所、役員室。


 手島は目の前の光景に言葉を失っていた。

 社長の江越が、深々と頭を下げていたからだ。


「や、やめてください社長! わ、私はそんなつもりで来たわけでは……」


 手島は慌てて手を振るが、江越は顔を上げない。


「いや、手島君の言う通りだよ。これは私のミスだ」


 低く沈んだ声には、深い自責の念がにじんでいた。

 手島は困惑を隠せない。


 進退を覚悟して直言しに来たのは事実だ。しかし、こうもあっさりと非を認められるとは思っていなかった。


「弾麻興業に不穏な噂があることは知っていた。だが、弾麻氏本人と会って、所詮は噂だと……軽率だったよ」


 江越は苦い表情で呟く。


「そ、そんな。調査した我々にも責任が……」


「いや、君たちのせいではない」


 江越は静かに首を振った。


「どうやら、弾麻氏すら把握しきれていなかったようだからね。一部の部下が、狩協の財津課長と結託していたらしい」


「か、狩協の……!?」


 手島の顔が強張る。

 小秋市での狩協の影響力は計り知れない。財津課長は、その中でも名の知れた功労者だ。


 その名前が出た瞬間、手島の胸に嫌な緊張が走った。


「弾麻氏自身も、部下たちを完全には掌握できていないらしい」


 江越はため息交じりに続けた。


「か、狩協に知らせては……」


 恐る恐る提案する手島に、江越はすぐさま首を振る。


「証拠もなしに、騒ぎ立てるわけにはいかない」


 沈黙が落ちる。

 手島は逡巡しながらも、意を決して口を開いた。


「……その……弾麻氏自身が、財津課長とつながっている可能性は……」


 江越の視線がまっすぐ手島に向けられる。その重みで、手島は息を詰めた。


「――うん、そうだね。当然、その可能性も捨てきれない」


 静かな声が、ずしりと響く。


「そこで、手島君。君に頼みがあるんだ」




 ◇




 現実に引き戻された手島は、隣でいびきをかく春日井の姿にため息をついた。

 昨夜の江越の言葉が、頭の中で繰り返される。




 ◇




「か、監視、ですか?」


「弾麻氏は財津課長を部下に見張らせると言っているが……手島君の言う通り、どこまで信用していいかわからないからね」


「し、しかし、私にそんな経験は……」


「大丈夫。名目上、君は『怠け癖のある部下のお目付け役』を請け負っただけだ。遺跡に行くより、よほど危険はないよ」


 そう言われても、手島の心中は重い。

 弾麻興業。狩協。財津課長。


 絡み合う影の中に、自分が足を踏み入れようとしている実感だけが、じわじわと胸を締め付けていた。




 ◇




「確かに危険はないけど……」


 手島のつぶやきは、溶けるように消えていった。

 隣で、監視対象のはずの春日井――通称カス――が、呆れるほど気の抜けた様子で座っているせいだ。


 手島の緊張感も、すっかり削がれていた。


「都市外の方がよっぽどマシですよ……」


 ため息混じりの独り言が、車内の静けさに溶けていく。

 手島自身、まさかこんな探偵まがいのことをさせられるとは思っていなかった。


「お目付け役って話だったじゃないですか……監視なんてプロに任せた方がいいでしょうに……」


 ぼやく手島の声には、自嘲の色が滲む。


 ターゲットの目的もつかめず、行動の予測もできない。素人が闇雲に追いかけたところで、何の成果が得られるというのか。


「こんなの、失敗するに決まって――」


 言いかけたその時だった。

 手島の視線の先で、ホンゴウビルの前に人影が動いた。


「あっ……か、春日井さん、起きてください!」


 手島は慌ててカスの肩を揺する。


「んぁ……? なんだよぉ……」


 カスはけだるげに目を開けた。その眠そうな態度とは裏腹に、手島の心臓は激しく跳ねている。

 ビルの前では、財津が小型ワゴンの後部座席に荷物を積み込んでいた。


「ど、どうしま……あっ、もう車に乗り込んで! す、すぐ追いかけないと!」


 声が裏返る。


「んな急いでもダメッスよ」


 カスはゆっくりとシートを起こし、ハンドルを握る。その動作には不思議な落ち着きがあった。


「人通りも少ないし、もっと距離をとってからでも大丈夫ッス」


 カスの目は、いつの間にかしっかりと開いていた。眠そうだった表情は消え、代わりに妙な余裕が漂っていた。


「いやぁ……だいぶ急いでるみたいッスねえ」


 財津の車を目で追いながら、カスはアクセルを軽くふかす。




 カスは内心うきうきとしていた。


 こんな機会でもなければ、狭い市内で車を乗り回す贅沢など許されない。尾行という名目さえあれば、しばらくはこのドライブを楽しめる。


 カスはそんな軽い気持ちで、アクセルをさらに踏み込んだ。




 ◇




 その様子を、物陰から見ていたサクは目を細める。

 二台の車が発進するのを確認すると、すぐに動き出した。


 軽快にビルの影から飛び出し、止めてあったママチャリにまたがる。

 全力でペダルを踏み込みながら、サクは前を行く車のテールランプを見据えた。




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