第72話 きっと、慕われてたんだろうなあ
本日更新予定3話中の2話目です。
「――アレを呼んでください」
弾麻ダイカツがその命を下してから、少しばかりの時間が過ぎた。
◇
弾麻興業の事務所。
その奥の役員室には、冷え冷えとした空気が漂っていた。
かつて「センパイ」と慕われた男は、椅子に縛りつけられていた。
腫れ上がった顔には無数の青痣。息をするたび、かすかに身じろぎし、そのたびに顔を歪める。
その姿を囲んでいるのは、いやらしい笑みを浮かべた男たち。
中には、新事業関連の査定係――野口の姿もあった。
「……おや、どうしました? しばらく見ないうちに、ずいぶん顔色が悪くなりましたね」
ダイカツが眉をひそめ、心配そうに声をかける。
センパイは唇を震わせるが、うまく声が出ない。
「そりゃ、こんな失敗しちゃあ真っ青にもなりますよねえ」
野口が声を張り上げると、取り巻きたちは待ちかねたように笑い出した。
「センパイ、どうしたんすかぁ?」
「チビのガキに伸されて、そのまま気絶とか――」
「くはは、だっせぇ!」
嘲笑が室内に響く。
センパイの虚ろな瞳が彼らを睨み返すが、その目に宿っていた威厳はとうに失われていた。
「センパイ、もっと前みたいに稽古つけてくださいよ~。ほら、こんな風に――」
野口がひときわ悪意に満ちた笑みを浮かべ、振りかぶった――その瞬間。
――パンッ。
乾いた音が響く。
野口の額に小さな穴が開き、体がくずおれる。
取り巻きたちは息を呑み、室内の温度がさらに冷え込んだ。
煙を立ち上らせる銃を手に、ダイカツは困ったように肩をすくめる。
「……彼の顔――君たちがやったのですか?」
その声は穏やかだが、ぞっとするほど冷たい。
「いけませんねぇ。君たちは仲間でしょう? どうしてお互いに、仲良くできないんですか」
取り巻きたちは震え上がり、一斉に頭を下げた。
「さあ、謝りなさい」
その優しい声に促されるように、男たちは口々に声を絞り出す。
「せ、センパイ! す、すいませんでしたっ!」
「っ……。あ、ああ……お、俺の方こそすまねぇ……」
センパイのかすれた声が、かろうじて続く。
ダイカツは満足げに頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「なんと美しい。赦し合いの精神こそ、この荒涼たる世界において最も尊いものです。皆さん、どうか忘れないでくださいね」
その言葉は穏やかで、感動的な場面にすら見えたかもしれない。
足元に広がりつつある血だまりさえなければ――
「そう――赦し合いは必要です。とはいえ……信賞必罰。それもまた、無視はできませんね」
ダイカツがそう呟くと、センパイの体がびくりと震えた。
その反応に気づくと、ダイカツはわざとらしく眉を寄せ、ふう、と静かなため息をついた。
「ノルマが少々キツ過ぎましたかねえ」
あくまで柔和な口調。しかし、その声の奥底に潜む冷たい棘を、センパイは敏感に感じ取っていた。
「無理をする必要はなかったのですよ? 一言、言ってくれさえすれば――私はいつでも、相談には乗ったのに」
「あ、は……はい……す、すいませ……」
か細い謝罪が漏れる。
「そうすれば、ここまでの事態にはならなかったでしょう」
ダイカツの視線が、足元の死体へとゆっくり滑る。
センパイの体がびくりと跳ねた。
「――ですがね。よかったこともあるのですよ?」
ダイカツは優しく微笑んだ。
「君のおかげで、財津課長との絆がいっそう深く結ばれることになりました」
その笑顔は、まるで子どもの成長を喜ぶ父親のようだ。
しかし、その無垢な笑みの裏に潜む鋭い刃を、センパイは嫌というほど理解していた。
「とはいえ……失敗は失敗。新事業の停滞を招き、組の名を危機にさらしたのもまた事実。赦しだけでは、優しさとは言えませんよねえ?」
ダイカツは顎に指を当て、しばし思案する素振りを見せる。ふと何かを思い出したように、目を細めた。
「そういえば、つい最近――用心棒が一匹いなくなってしまいませんでしたっけ」
その一言で、センパイの額からぶわっと汗が噴き出した。
「なぜいなくなったのでしたっけ?」
ダイカツはゆっくりと首をかしげる。
その目は柔らかく微笑みながらも、じわりと圧力を増していく。
「……ねえ、君。何か心当たりはありませんか?」
センパイの喉が鳴る。
額の汗が滴り落ちるのも気にせず、ただ黙って震えていた。
用心棒――
アブレたちがアジトに住まわせる、制御不能の巨大クリーチャー。
敵を味方もろとも葬り去るためだけに存在する、最終手段。
その不在を、看過できるはずがない。
「あれは抑止力なんです。いなければ無駄な抗争に発展してしまいます。どうしていないのか……」
ダイカツはわざとらしく天を仰ぎ、ひとつ息をついた。
「どうしました? 私が、君に、聞いているんですよ?」
穏やかな声。柔らかな微笑み。しかし、その足取りは静かに、確実に、センパイとの距離を詰めていく。
「あ……あれは……」
センパイの唇が震える。喉がこわばり、言葉が出ない。
「あれは?」
ダイカツの顔がさらに近づく。その圧に耐えきれず、センパイの口から、とうとう言葉がこぼれた。
「あ、あれは……お、俺が……」
「――ああ、そうですか。君が逃してしまったんですね」
ダイカツは満足げに頷き、ゆっくりと微笑む。
「では、ちょうどいい。捕まえてきてください」
その一言に、センパイの顔から血の気が引いた。
「サイズは……そうですねえ。ビルの二階ほどの高さのもので構いません」
軽い調子で告げられる指示。しかし、その意味は明白だった。
用心棒の捕獲――それは、命を賭けた行為だ。単独での成功など、ほぼありえない。
つまり、「死ね」と言われているのと同じだった。
「あ、あっ……あっ……」
センパイは言葉にならない声を漏らす。
「それをもって、全ての禊としましょう」
ダイカツは、慈悲深い笑みを浮かべながら、ゆっくりと告げた。
それまでの数々の失態を、たったひとつの功績で帳消しにする。これが優しさでなければ、何だろう。
少なくとも、ダイカツはそう信じていた。発言しているその瞬間だけは、本気で。
だが、その優しさが、相手に伝わるとは限らないらしい。
「ま、待ってください! お、俺のせいじゃないんです!」
センパイの上ずった声が、室内に響いた。
額には脂汗が浮かび、血走った目が必死にダイカツへと縋りつく。
「あ、あれは……アジトに乗り込んできた不審者が、やっちまったんです!」
「ほう?」
ダイカツはわずかに首を傾げる。その仕草には、うっすらとした愉悦の色が滲んでいた。
「つまり君は、不審者を引き込んだ挙句、手に負えない用心棒まで解放される事態を招いた、と?」
「……か、カスの野郎が、勝手に……!」
絞り出すような言葉に、ダイカツは鼻で笑った。
「ああ、春日井君が、ですか。彼も、まったく勝手な人だ」
それは事実だった。用心棒を解き放ったのは、カスこと春日井に違いない。
ただ、そもそもの話――
「ええと、それで? なぜ、その不審者を呼び込むことになったんでしたっけ」
ダイカツは視線を天井に向け、考え込むふりをする。そして、あっさりと結論を導き出したように、センパイへと目を戻した。
「ああ、そうでした。君が――誘拐なんて真似をしでかしたせいでしたね? 新事業を控えたこの大事な時期に」
センパイの喉がひくりと震える。
「い、いや、それは……」
言い訳を続けようとするが、口が上手く回らない。
それでも、なんとか声を絞り出した。
「あ、あれは……ぼ、ボス好みの女がいると、仮面の野郎が言って……そ、それで――ぼ、ぼ、ボスのためだったんです!」
「ほう。私好みの、ですか」
ダイカツは、一瞬だけ驚いたように眉を上げた。しかし、すぐに冷笑へと変わる。
「アレが、そんなことを。まあ、利をもたらす存在だったのは事実ですが――潮時、ですかねえ」
こうも虚仮にされては手の切り時だ.
ダイカツはそう結論づける。
もちろん――
それは、目の前の男についても同様だった。
「ああええと、なんでしたっけ?」
ダイカツは指先を軽く振りながら、のんびりと問いかけた。
「私好みの女? それは、どんな女性だったのですか?」
何気ない調子の問いだった。
だが、それは気まぐれの産物――あるいは、心に燻る疑念の小さな種火に過ぎなかった。
センパイはその変化を、最期の好機と勘違いする。
顔を引きつらせながらも、血走った目に必死の光を灯し、つかの間の猶予にすがりついた。
「そ、そりゃあ面もスタイルも抜群で。ひ、氷解者だってんでちょっと頭はアレでしたが、かえって扱いやすそうなバカ女で――」
「……氷解者?」
ダイカツの声が低くなる。
その一語に含まれる違和感に、わずかに細められていた目がかすかに見開かれた。
漂っていた柔和な空気が、瞬く間に張り詰める。
氷解者。
遺物でありながら遺物ではない、特殊な存在。
データベースにも登録されず、売買も管理もできない。
ダイカツが把握しきれない数少ない例外だった。
「その女は、氷解者だったのですか?」
声の調子は先ほどと変わらぬまま。けれど、その奥底に潜む鋭い棘が、センパイの喉を締め上げていく。
「は、はい! つい最近氷解したばかりだと……か、仮面の野郎がですね! そ、それで――」
「……つい最近だと、あの仮面が言ったのですね?」
「え、ええ!」
ダイカツの目がゆっくりと伏せられる。
呼吸が、わずかに深くなる。
「…………それほど、容姿が優れていたと?」
「そりゃもう、人間離れしてるんじゃないかってくらい不自然に面の整った――ッ!??」
その瞬間――ダイカツの手が、センパイの首をわしづかみにした。
「ぐっ!? が、か、はっ……!!?」
センパイの喉から、濁った音が漏れる。
突然の暴挙に理解が追いつかぬまま、爪を立てて必死に抵抗するが、無駄だった。
指が食い込み、首の骨がきしむ。
ダイカツの顔はみるみるうちに赤く染まり、怒りに震えている。
その怒りは、目の前のセンパイに向けられたものではない――少なくとも、直接的には。
だが、容赦はない。
「――――っか――はっ!」
センパイの目が血走り、舌がだらりと垂れ下がり――最後の痙攣を見届けることなく、ダイカツはその首を握りつぶした。
「あの野郎ぉおぉ~~~~ッ!!」
轟く咆哮。
投げ捨てられた死骸が床に沈むと、ダイカツの怒りが解き放たれる。
血に染まった拳が震え、合皮のソファを蹴り飛ばし、重厚なローテーブルが叩き割られ、残骸が床に散った。
恐怖に竦みあがる部下たちをよそに、破壊の嵐はしばし続く。
やがて、息を切らせたダイカツは、ぐしゃりと潰れた亡骸を一瞥し――
「……がせっ! 氷解者の女を探し出せぇ!!」
怒声混じりの指令を叩きつけた。
部下たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
ダイカツは、自らの手で貴重な情報源を失ったことに気づく余裕すらなかった。




