第19話 それでも変わったこと
サクは端末の操作を終えると顔を上げ、ふとリィズリースの方を見た。
イヒトの部屋にいるはずなのに、まるで最初からそこに溶け込んでいたかのように、微動だにしない。
「そうだ。リィズリース……さん、ってさ――」
サクは話しかけかけたものの、途中で言葉を詰まらせる。
リィズリースは静かに顔を向けたが、サクはなぜかその先を続けられない。
「なんだよ」
怪訝そうにイヒトが促すと、サクは慌てて手を振った。
「あ、いや、その……オレ、あの時リィズリースさんに助けられたんだよ。まだお礼言ってなかったなって思ってさ」
そう言って、深く頭を下げる。
「消去印を押すの、手伝ってもらったんだよ。あの時は本当にありがとうな」
「どういたしまして。お役に立てて幸いです」
リィズリースは優雅に微笑んだ。
そのやり取りを横目で見ながら、イヒトはためらいがちに口を開く。
「あの時、か……話して大丈夫なのか?」
誘拐事件の話は、ほとんど避けてきた。
「大事に至らなかった」とだけは聞かされていたが、警察や医者からも刺激するなと釘を刺されたからだ。
しかし、サクは拍子抜けするほどあっさりとした様子で答えた。
「ムカついてはいるけど、それだけだって。……あのカス野郎め。ぶっ飛ばしてやるつもりだったんだけどなあ」
イヒトは苦笑する。取り越し苦労だったらしい。
「ああ、アイツか」
カス野郎。
その単語から、へらへらした腑抜けの顔が自然と脳裏に浮かぶ。
あのせいで、もう一人の誘拐犯にまで逃げられた。
警察への説明も面倒なことになったし、ろくなことがなかった。
「悪かったな、取り逃がしちまって」
苦々しく言うと、サクはすぐに首を振る。
「全然。それよりこっちこそだよ。あんとき、お前に殴り掛かっちまったんだよな」
イヒトはその言葉で、扉を開けた瞬間に鉄パイプで襲い掛かられたことを思い出す。
とはいえ、疲労困憊でへろへろだった奴の一撃だ。不意打ちだったとはいえ、大したものではなかった。
「あれくらいワケねえよ」
余裕ぶって言うと、サクは不服そうに頬を膨らませる。
「それはそれでムカつくんだけど」
イヒトは肩をすくめ、挑発するように続けた。
「あの時のお前にやられるとか、クソ雑魚もいいところだろ」
「そうだけどさー……」
サクはぶつぶつ文句を垂れるが、イヒトはそれを軽く流した。
確かに、あの時のサクはボロボロだった。
酷い顔で、足元はふらつき、立ち上がるのもやっとの状態で。
それでも、背後にいたリィズリースと、もう一人。あのロングヘアの子を守ろうと必死だったのだろう。
――そうだ。サクは時確かに、あの子と――
イヒトは、何かを振り払うように舌打ちした。
その瞬間、サクが何かを思い出したように、ぱっと目を見開いた。
「――あ」
間の抜けた声を漏らしたかと思えば、突然――
「あああああああああああああっ!!!」
唐突な絶叫に、イヒトは肩を跳ね上げる。
「な、なんだよ」
驚いて一歩引くイヒトに、サクは勢いよく詰め寄った。
「おま、お前っ!」
「……だから、なんだってんだ」
戸惑いながら後ずさるイヒトを、サクは逃がすまいとさらに顔を寄せ、叫んだ。
「思い出したっ! お前っ、オレの描いた漫画をネットに上げただろっ!!!」
「――あ」
今度はイヒトが間抜けな声を漏らす番だった。
「そうだよ! あの時、確かにそう言ってたよな!!」
誘拐現場での再会。その時の会話が、鮮明に蘇る。
イヒトには、当然、覚えがあった。
「……あー、そんなことあったか?」
ヘタクソな芝居をしてみるが、
「私も耳にしました」
すかさずリィズリースが横から口を挟む。
イヒトはギロリと睨んだが、サクの勢いの前では無力だった。
「ほら見ろ! とぼけてんじゃねえよっ!」
完全に火がついたサクの怒り。イヒトは観念し、両手を挙げて降参の意を示す。
「悪い悪い、ガキすぎてよくわかってなかったんだよ」
◆
これは、まだ二人が冷凍睡眠される前の話である。
あの日、サクは初めて漫画を描いた。
やたらカクカクした衣装のヒーローが、全身トゲトゲの悪役を倒す。
どこかで百万回は見たような、ノートに鉛筆で殴り描かれた漫画だった。
それでも、サクは自信満々だったし、イヒトも「すごい」と絶賛した。
イヒトは、まだ幼かった。
まだそれなりに素直で、いい子で、ネットを使える程度には賢いくせに、肝心のネットリテラシーは持ち合わせていなかった。
「こんなすごい漫画、みんなに見てもらいたい」
イヒトは純粋にそう思ったのだ。
端末のカメラで一枚一枚撮影し、補正もせず、学校で習った通りに学年・クラス・名前までしっかり書いて、「誰でも漫画家になれる!」とうたわれたサイトに、堂々と公開した。
しばらくは何も起きなかった。
子供が鉛筆で直描きした漫画など、そう興味を持つ者もいない。
ビュー数は増えず、イヒトもすぐにそのことを忘れてしまった。
無理もない。
当時のイヒトは、興味の種が無数にある年頃だった。
だが、埋もれた歴史は、いずれ誰かに掘り起こされる運命にある。
数年後――
ひょんなことから、その漫画の存在が発覚した。学校の連中は面白がり、サクは怒り狂った。
イヒトは青ざめながら、「誰だこんなことした奴は!?」と叫び、「笑うやつはぶっ飛ばすぞ!」と必要以上に騒ぎ立てた。
後日、必死にパスワードを思い出し、こっそりとサイトから削除した。
◆
昔の話である。
百云十年前のことをいちいち蒸し返すのも大人げない――もちろん正論だ。
だが、そんな理屈は、ヒートアップし精神年齢の低下した二人には通用しなかった。
「お前だって、俺のゲーム借りパクして無くしただろ!」
「その分、毎日宿題みせてやったじゃん!」
「プラモの角折られたのだって、忘れてないからな!」
小さなエピソードを次々引っ張り出し、それはそれは見苦しく揉めに揉めた。
結局、お互いの貸し借りを相殺し合い、最終的に「イヒトに一つ貸し」ということで手打ちとなった。
「ったく……」
納得しきれない様子でブツブツと文句を垂れながら、サクは部屋を出ていった。
不機嫌そうに扉が閉められ、ようやく部屋の中に静けさが戻った。
イヒトは大きく天井へ息を吐いた。
――何をやってるんだか。
自分が大変な時期だ。
狩人をクビになり、明日をも知れない状況。そんな時に、バカみたいなことでまた揉めて。
自分で蒔いた種とはいえやらかした、とイヒトは思う。
なんであの時あんなこと口走っちまったのか――そう後悔して。
でも、どこか喉のつかえがとれたようにスッキリした気分だった。
ああいうのは、久しぶりだったから。
やっぱり、サクはサクなんだよな――そう、イヒトには思えた。
帰り道でも何かしら遊んでいた。イカサマしたサクに、毎日ランドセル運ばせられたり――
――どう見ても違うだろ。
そう、別の自分が否定し続けているのを、イヒトはどんどん誤魔化せなくなっていた。
ふと、視線を感じる。
リィズリースが、じっとこちらを見つめていた。
「イヒトさんは、何かお困りではありませんか?」
「……んだよ、急に」
「よろしければ、ご相談に乗ります」
リィズリースは相変わらずのふざけた顔で、ふざけたことを言った。
イヒトはため息をつき、あっちへ行けと手を払おうとして――
「お前に話すことなんかねーよ」と、言えばよかった。
思えば、リィズリースも十分に得体が知れない。自分の悩みの種の一つだ。
こんな奴に相談するなんて、そんな馬鹿げた話があるか――そう切り捨てようとした。
どういうわけか、思い直した。
気の迷いとはこのことだろう。
イヒトは、出ていこうとするリィズリースを呼び止めた。
「……お前さ、男が制服のスカート履いたり、女が黒のランドセル背負うのってどう思う?」
「個性や、自己表現の一環だと思います」
リィズリースは、間髪入れずに答えた。
「……だよな」
それ以上、話が続くことはなかった。
リィズリースは静かに部屋を後にし、扉が閉まる。
イヒトは再びベッドに横たわった。
そして思う。
おそらく、自分が勘違いしていたのだろう。
問題は――
今更、なんて聞けばいいんだよ、ってことだけだった。




