『1』つ卵を砕いてしまえば、あとは簡単に。 Probably won't be able to eat it. (5)
帰路についた僕は、およそ『普通』とは言い難かった一日を経て、ドッと疲れが襲ってきたのを感じる。
朝から殺されかけて…夜には不穏な事件を知る…。端的に述べてしまえば訳の分からない一日だったが、長々と語っても訳の分からない一日になる。やはり『異常』だ。
…『普通ってなんだ?って話さ。洋介君はよく普通を求めるよな?』…。
頭の中で何度もユタカ先輩の言葉が反芻される。
『普通』とは何か。平均、あるいはその少し下。どこにでもありふれている、他と特に性質の異なるモノのないさま。
どこにでもありふれているとは、なんだろう?
ある場所では一日三度の食事が当たり前で、またある場所では一日一度が当たり前…。
だとすると、『普通』はどちらなのか?
三度食事をする方が多数派なら、そちらが『普通』なのか?
多数派が、『普通』?たとえそれが、ある側から見て『異常』だとしても?
どこに『普通』が定義されて、どこに『異常』が定義されるのか…。
こんな日々が日常なら、今日は『普通』の一日なのか…?
僕は暴走する思考にブレーキをかけた。疲れているのかも知れない、と僕は思う。こんな事を考えるのは『らしくない』というか、それこそ『普通』ではない。
暗闇の坂道を一人歩く。月は雲に隠れて見ることができない。風が吹くたびに若干の肌寒さを感じ
る。朝と夜では真逆の気温だな、と感心していた。
その時だった。
目の前のゴミ捨て場に、まるでゴミ袋をベッドの様に背中に敷き、よだれを垂らしてすやすやと眠る少女を見つけたのは。
時計は午後九時を過ぎている事を証明する。少女一人、家の外で(しかも高架下のゴミ置き場で)眠るには危険な時間帯だった。
家出少女だろうか?
こんな場所に少女一人を放置するのは…流石の僕も容認できなかった。
それこそ『普通』ではない。
「ちょ、ちょっと…こんなところで眠っちゃ…ダメですよ」
そう少女に呼びかけるも、返事はない。
ぐっすりと眠りこんでいる…のか?
逆に感心した、ここまで寝心地の悪そうなベッドは他にそうないし、ゴミ袋…ニオイや衛生面の観点を無視してその上にグデンと寝っ転がるその考えが、僕にはない…。
大きくゆすったりしなければならないのだろうか?
…困った。彼女に触れざるを得ないじゃないか…と、少しのワクワクを覚える僕。
ふむ、よく眺めるとその少女の美貌には胸を打たれるものがあった。
肩まで伸びた髪は驚くほど白く、この世のものとは思えないほど輝いている。華奢な腕と足はある
種の上品さを兼ね揃えており、それらが帯びる気品は、これ以上ない『非現実』を感じさせる。
服装は極めて一般的な…フードが付いた、所謂ジャージ。
歳は…どのくらいだろう?僕と変わらないか、それより下か…少なくとも、僕よりも老けて見えるという事は無く、容姿に感じる幼さが帯びている美しさとかみ合わず、年齢はわからない…。
「ふむ…………ふむ」
僕は彼女の胸に目をやる。極端に豊かなわけではない、けれども全く無いワケではない、『良い』バランスである。目測で…。これ以上はやめておこう。紳士のたしなみである。
ふむ…これはこれで…起こさず眺め続けるのも一つの手ではあるが…。
「胸ばかり…ジロジロ眺めてどうしたの?」
その時、目の前の彼女はおもむろに目を開いて。
こちらを睨みつけた。
最悪のタイミングで目を覚ましやがった…。
こちとら『普通』の『男』である。逆らえない『サガ』だってあるんだぞ…と思いながら、この場の言い訳を考える。
「あ、いや、これは、別に…その…いや、何というかですね、あの…ムネが…とかじゃあ、なくってェ…あのぅ…」
最悪だ。
対女性コミュニケーションが致命的に終わっている。
『普通』に生きてきた僕が唯一『普通』になりきれなかった対女性コミュニケーション…。
積極性を欠いた生き方をした結果、友人関係が男のみに限られてきた僕は、母さん以外の女性と話したことが殆ど無いと言っても過言ではないのだ。そんな僕が、こんな美少女とマトモに会話できる筈もなく…。
「もう少し、ハキハキと話してほしいな」
と一蹴される。あえなく撃沈。
「ああ、所謂『変態さん』って奴かな?私…そういう人を相手にしたら警察を呼びなさいって友達に教えてもらったの」
と、彼女はどこから取り出したか携帯を手に取ってそう言った。
「…マジ勘弁してください」
「言い訳は多分、教誨師さんが聴いてくれるよ」
「死刑にされる前提?」
「知ってる?悪人は平等に裁かれ、平等に死刑にされるべきなんだよ」
「惨い!一切の情状酌量、人権の尊重が存在しない!」
「眠っちゃダメってどういうこと?変態さん」
聞いてたのかよ。
というか起きてたのかよ!
「その…こんなところでこんな時間に一人で眠るなんて危ないでしょ…。あと…呼び方は『変態さん』で固定されたんですか?」
「『胸ガン見野郎』、『ナヨナヨのガリ』、『バカ』、どれがいい?」
「生憎、僕はマゾではないのでどれも嫌です…というかそれ全部ただの罵倒ですよね?」
「あははは!」
と、軽快に彼女は笑って。
「冗談、冗談…ああ、可笑しい…あなた、私の心配してくれてたの?」
と、その少女は。
紫に染まった両眼でこちらをジッと視て…言った。
「ええ、まあ…時間も時間なので…」
こちらを見つめる少女に対して、改めて僕はその美貌に驚く。
そして同時に、その透き通る程に真っ白い肌を見て、ある一つの推論を導く。
…先天性色素欠乏症だろうか?
所謂『アルビノ』と呼ばれる…先天的なメラニンの欠乏によって起きる遺伝子疾患。皮膚は乳白色を示し、虹彩はその血液が透け…淡い紅色、つまるところ若干の赤に近い紫を示す…。
雑学程度の知識だったけれど、目の当たりにしている彼女の姿はソレの特徴に非常に近い…。
「私の容姿がそんなに気になる?」
「あああ、いや、そんなことは…無いと思うんですけど…」
「あ、私の見た目から来るなんらかの障害を気にしているのなら、心配はいらないよ…私はただ、『好かれやすい容姿の肉体を受肉した』だけで…」
と、彼女は言ったが…理解できない文章が、一瞬…僕の耳に入って、流れていった。
『好かれやすい容姿の肉体を受肉した』?
変わった人だ、と思う…。ただ、その病気を否定したという事は気にしなくてもよいという事だろう。
彼女は続ける。
「面白くもない話だよね…人間の『願い』…この姿を好んで呪術に用いたサブサハラの人間は、強く幸福への欲望と信仰を欠かさなかった…その『願い』は未だ強く続いているし、過去に遡れば東アジアのここ日本でも赤い眼の白い亀をきっかけとして元号にまで介在しているみたい。その影響は生命活動にも及ぶのに、一体どうしてこうもこの姿は『モチーフ』になるのかは、わからない…」
あなたには何も分からないのかな?と微笑みながら彼女は呟く。
マジで一ミリも理解できなかった。
民間伝承に詳しい人なのか…?
いよいよ少女か彼女なのか…代名詞にも悩んできた。
その時。
「ぐぎゅるるるる」
と、明らかに腹の虫が鳴った音がした…。
彼女はすました顔をしている。
凛とした佇まいだ。
思い出してほしいのは、僕はつい先ほど…鯛茶漬けをたいらげたという事実だ。
つまり、いくら腹八分目と言っても、さすがに腹が空くと言うことは無い。
彼女が…腹を空かしていた事は、明らかだった。
「あっ、えっと…要りますか…?」
僕のポケットには、さっきの寿司屋で帰りがけに貰った飴玉が一つ。
それを差し出してみた。
「…何よ」
「いや、お腹が空いたのかなあ…って」
「要らない」
「いや、でも…」
「要らないよ!」
彼女は言う。
「大体、『もし』『仮に』私のお腹がペコペコだったとして、飴玉一つで私のお腹が満たされるの?それくらい考えてよ!私は全然お腹いっぱいだけど!」
強がっていた。
けれども十秒も経たないうちに、
「まあ、どうしてもって言うなら貰う。…ありがたく頂きます」
と言って、僕の手から飴玉をむしり取った。
我慢できなかったのだろう。彼女は飴玉の包み紙を勢いよく剥がし、ソレを口の中に入れて、朗らかな笑顔を浮かべた。
なんだこの可愛い生物は。
惚れるぞ、普通に。
と、瞬間。
「バリボリバリリリリリリッ!」
と轟音が鳴った。彼女の口から。
飴玉はかみ砕くタイプらしい。品性とかはどっかに捨ててきたのか。
「どこから...来たんですか?」
「ここの外」
「外国ですか?」
「かもしれないね、あるいは?」
「あるいは?」
「そう、あるいは」
「あるいは…『天国』?」
半分は冗談でそう言った。
もう半分は…。
「もしくは『地獄』かな?」
そう言って彼女はこちらを見る。
その謎めいた雰囲気で、僕は何一つ彼女のことが掴めない。
とにかく僕は彼女の身を案じることにした。
「再三言いますけど…こんなところで寝ると…危ないですよ?」
『普通』にと付け足して僕は言う。
その時に。
僕は確かに見た。
ほんの…一瞬。
彼女が、酷く悲しそうな顔を浮かべた姿を…僕は見逃さなかった。
見逃せなかった。
そして続ける。
「…なら」
「私はどこで眠ればいい?」
彼女はそこで、僕から目を逸らして、ただ虚空を見つめた。
どうしてそんな表情を浮かべたのかは知らない。
どうしてそんな虚ろな目をしていたのかは知らない。
けれども、ここで初めて、彼女の実体のようなものを…
僕はその掌に掴むことができたと思う。
彼女は孤独なのだ…。
どうしようもなく、そんな事を悟った僕は…何かできることを模索した。
「冗談だよ、真に受けないでね。…せっかく心配してもらって、この言い様は無いか…」
と言って、彼女は立ち上がる。
「確かに、長居すべきじゃないよね、こんな場所…。ありがとう、心配してくれて」
「ま、待って!」
歩き出した彼女に、僕は呼びかけた。
僕はまだ、彼女の事を何も知らなかった。
何かを、知りたくなった。
『普通』の自己紹介だって終わっていないのに。
「な、名前!僕はまだ、君の名前を知らない!」
僕はそう言って、名乗りを上げた。
「西園寺…僕は『西園寺洋介』って言います!」
彼女はこちらを振り向いて、不思議そうな表情で尋ねる。
「…どうして名前が知りたいの?」
「だって、僕らは…、まだお互いどんな人間かすら、知らないじゃないですか」
僕は若干視線を下に向ける。
「そんな状態でサヨナラなんて、淋しくないですか」
らしくない。
僕らしくない…『西園寺洋介』らしくない。
こんな事、僕は言わない…。
けれど…。
僕は…彼女に、あんな表情をさせる現実がどうにも憎くて。
女の子を孤独にさせることだって、きっと『普通』じゃない。
「僕達…『普通』に、お互い自己紹介をしましょうよ!」
「西園寺洋介です!『普通』の学生…今は一人暮らしです!」
彼女はこちらにクスりと笑みを浮かべて、今度は遥かな夜空を見上げる。
その視線の先に、一体何があるのだろう。
彼女のその笑み、その意味に気づけるのはいつだろう。
僕は彼女を何も知らない、これから知る機会があるのかどうかもわからない。
彼女は言った。
「先に言っておく。飴玉、ありがとう…おいしかった。会話も中々に退屈しなかったよ」
また僕は、予感を得る。行っては戻れない、一方通行の『異常』な予感。
そしてそれは、すぐに的中した。
彼女の、フードのついたパーカの後ろから…
大きな翼が現出した。
その翼は、鳥とも何とも全く異なり、見た者を一瞬で包み込む魅惑を持っていた。
辺りを照らしてしまえるほどの神々しさ。
触れればバラバラに散ってしまいそうなほど…儚げで。
それは本当に、美しかった。
そして翼を携えて、彼女は言う。
それを聞いて、僕は知る。
「私は…」
「私は、トラオア・フロイント・アミークス」
「『人を殺めて』天使の枠を外された…正真正銘『堕天使』よ」
「『普通』を外れたいのなら、こちらに来なさい」
もう後ろには、戻れない。