『1』つ卵を砕いてしまえば、あとは簡単に。 Probably won't be able to eat it. (2)
東京都大田区南雪谷…おんぼろアパート・徒然荘。山手線から東急池上線を経由すれば都心に四十分で到達、最寄り駅は御嶽山駅。抜群の立地を誇り、通る車はメルセデス・ベンツばかりという高級住宅街の見本の様な場所に、違法建築スレスレの明らかに近所の住宅と見比べると貧相な、木造の茶色い建物(二つ名に『東京九龍城砦』)がある。
そのニ○一号室が僕の部屋で、今まさにその部屋が戦場になろうとしていた。
そもそもが間違っていた…。家賃二・三万という時点で少しは疑いの目を向けるべきだったのだ。内見の段階で気づけなかった僕は甘い。僕以外に誰もこのアパートに住んでいないという事実が如何におかしなことか、考えればわかるハズだった…。
意外にも耐震性はあり、築年数が割と浅く、そしてこの値段。多少の不便はあれど、この立地の素晴らしさをみすみす逃すわけにはならないと考えた僕は、背後に控えた新生活の準備諸々の忙しさもあり、時間も惜しいと即決してしまったのだ。
気付け!西園寺洋介、あの時の不動産屋さんのこちらに向ける申し訳なさそうな目に!
今思い返せば、あの目は確かに『ご愁傷さまです』と僕にそう語りかけていた。
僕はこんな大家を知っていたら…絶対に…断言できる、この部屋を契約することは無かっただろう。
取り敢えず…こんな状況になったのは何故か、回想しよう。
気持ちのいい、すがすがしい朝だった。桜は散ったが夏は少し遠い、梅雨が草木を濡らし自らの面持ちを若干憂鬱にさせるにはまだ早い、春でも梅雨でも夏でもない、そんな時間。吹く風が頬を撫で、暖かい太陽がほのかに僕を照らす、最高の散歩日和…。
玄関の扉を開け、二階の廊下に出る。少し近くの公園にでもと思った矢先、僕は目を疑った。
一人の人間が、僕の目の前に着地した…。つまりこうだ、地上階から階段を使わず、ただの人間が跳躍で…高さ四メートルは優に超えるこの二階に、その両足で着地した。
最初僕はあまりのショックに何某の鳥類(割とでっかい個体)が降ってきたのではと誤解した、が、どこからどう見てもそれは人間で、そこに全くの疑いの余地は無かった。
「おお、おお、お前、ニ○一に越して来た人?」
何事もなかったかのように会話を続けるこの男…まるでその異次元の身のこなしが日常に行われる一般的な動作だと錯覚させるような平然とした態度に僕は感覚が麻痺する。
人間って割と何でもできるんだなぁ。
「なァ、西園寺洋介クンか?って聞いてんだ」
多少のいらだちを覚えたのか語気を荒くする男。
ショックで言葉を失っていた僕は返事を忘れていた。
「は、はい!西園寺洋介ですが…え、ジャンプで二階まで来ました?」
「俺の名前は絶空独尊、この徒然荘の大家だ」
僕の疑問は無視された。
黒いサンダル、赤いアロハ・パンツに紫色のTシャツ、伸びきった髭と髪という風貌の大家『絶空独尊』は自己紹介を終えるなり手に持っていた紙袋をこちらに差し出す。
「ほい、自己紹介は終わりだ。今月の家賃、ここに詰めてくれ」
「...?」
あれ?
おかしい、僕の記憶が正しければ、家賃の振り込みは毎月末…今日は四月の三日、越してから二日しか経っていないハズだ。
けれども確かに目の前の大家は家賃を小袋に詰めろとそう言っている。おかしい。
「あのう、質問なんですが…。家賃の振り込みは毎月末ではないんですか?」
「気分だ」
気分?
「気分で決まるよ、今日は新台の入荷日だから、一発行きたくて仕方がないんだ」
無茶苦茶だった、ここで僕が払う事を容認してしまえばまず間違いなくこれからもどんなタイミングであれ何度も家賃をせがまれることは明白だ、そして彼の軍資金として溶かされてしまうに違いないと僕は思う。
何となくだが彼は…賭けに勝てるタイプだとは思えない。
「お言葉ですが絶空…独尊さん、僕はまだ越してきて二日と経っていません、ですから、家賃を用意出来そうにない…というか、気分で徴収されるのは…如何なものかと」
「ええ?」
絶空は困惑の表情を浮かべる。困惑されるような事は言っていない。
『普通』の事を述べたまでだ。
「な、何ですか…何かおかしなことを言いました?」
「いいやあ、驚いたんだよ…ここ最近見ない、イキのいい奴じゃんか。この『俺』を前にそんな事言える奴は…ここ最近じゃ全く見なくなっちまったからなあ」
ははは、と。そう笑いながら絶空は二階の柵に手をかけ、その柵をむしりとった。
むしりとった。柵を強く握り、上方向に力を加えることで…ミシミシと唸るそれを持ち上げ、捻り、引きちぎって。目測で四メートル程ある鉄の凶器を作り出し…
僕に向かって思いっきり、投げた。
さながらやり投げのように。その凶器は僕の顔面の真横をすさまじいスピードで通り抜け、隣家の壁に大きな音を立て、突き刺さった。
「さて、西園寺クン。改めて…家賃をこの袋に詰めてくれ。新台の入荷日なんだよ」
回想終了。
これが、僕こと西園寺洋介が初めて経験した、命の危機だった…。
横暴にして狂暴、狂暴にして横暴、破壊に損壊に崩壊、どんな言葉も熟語も大家『絶空独尊』を言い表すには圧倒的な『力』が足りないことはお分かり頂けただろうか?
これはお願いでもなければ頼みでも無い、明確な脅迫だった。払わなければ殺す、とそう告げられているのだ。僕としてはここで家賃を払うのはあまり嬉しくない…というか絶対に避けたい…けれどもここで払わなければ僕はこの場で殺されてしまい、とても『普通』とは言い難い人生の終りを迎えてしまうことになる…どちらも避けたい。
「絶空さん、どうしても月末までは待ってもらえませんか」
僕はとてもへりくだった口調で、相手の機嫌を伺いながらそう言った。ここで発言をミスったら確実に死ぬ。命のかかった現状で、下手を打つ事はできない。
「ああ?さっきからなんべんも言ってんだろ、『今日』が新台の入荷日なんだよ、次同じ事を俺に言わせたら殺す」
駄目だ、この大家。
パチンコに取り憑かれてやがる…。
『普通』のことが、一切通用しない…。僕にとって最も相性の悪いタイプの人間であることは明白だった。波風立てず、物事を丁寧に進めてきた僕のやり方が全く使えないのだ。
刹那の思考。『普通』の生活を送る為、どうすればこの『異常』な現状を切り抜けることが出来るだろうか。
僕は普段からとってきた行動を振り返る。行き詰った時、どこに進んでも苦を得る時…後ろに引き返す。
つまり、『逃げる』。ここから立ち去って、どうにか一時的にでも平穏を手に入れる…。そうと決まればやることは一つ、如何に気取られず、ここから立ち去るか。どんな理由をつけて、上手く逃げ切るか…。
気取られるな、西園寺。僕は極めて『普通』の事を言うんだ。
何もおかしな事はない。
「あのう…絶空さん、今お金を切らしてて…先に銀行に行ってきても…」
その言葉を聞くが早いか、絶空独尊は、その右手の拳を強く握りしめ、後ろに引く。左手の構えは大きく力み、僕に『死』の予感を与えた。
「おいおいおいおい、おいおいおいおい西園寺クン、そりゃねーぜ」
理不尽にも絶空は、怒りに満ちた表情で、続けた。
「俺はァ!今、すぐにって、言ったんだ!」
世界の時間の進みが緩やかになったように感じた。絶空の右手が勢い良く前に出る。
その勢いで大きな風が吹いた、
アパートの窓はガタと震え、
僕の髪は大きく後ろになびき、
空気を切り裂いて、顔面目掛けて拳が飛んでくる。
消えゆく意識の中、僕は考える。
『普通』って、なんだっけ…。