私の通り名が暴君シッターでした。
私は王宮の廊下を急いで駆け抜けていた。
駆け抜けるといってもバタバタと走るのは貴族としての気品に欠ける行為でやってはならない。
焦っていると周りの使用人たちに悟られないように、気持ち速足ぐらいで歩みを進める。
もうすぐ舞踏会が始まる時間なので、使用人たちも忙しなく準備にいそしんでいる。
すでに王宮には馬車がいくつも到着して、華やかなドレスに身を包んだ貴族たちが続々と到着していた。
しかし、病床に伏している国王代理として参加するはずの私の婚約者、カイは、準備を始める様子がなく困り果てていると彼の側近からさきほど連絡があった。
仕方がないのでお化粧の途中だったが適当に切り上げて彼の元へとやってきた。
カイの私室の扉をノックして使用人が開けてくれるのを待つ。
本当ならノックもなしに部屋に入って、何をやっているのかと問い詰めたかったがそうはいかない。
彼はこのツァルーア王国で二番目に権威のある存在。王太子だ。
ゆっくりと扉が開かれて、部屋の中へと入る。
するとそこにはソファーにゴロンと転がって、最近はやりの戦記物語をだらしない姿勢で読んでいるカイの姿があった。
「カイ! あなた、数時間後には舞踏会の開会宣言をしなければならないんだよ、どうしてまだ湯浴みも済ませていないの?」
急いで歩み寄って、ソファーの前に膝をついて彼に問いかけた。
すると、カイはちらりとこちらに視線を送って「うるさっ」と吐き捨てるように口にした。
「今やろうと思ってたんだって」
「じゃあすぐに準備しよう? まだ間に合うから」
「いや、今いいところだし」
「でもカイ、時間がないの。開会を遅らせることは出来ないし、国王代理としての仕事はきちんとこなさないと……ね?」
優しく説得するように言うと、カイはまたちらりと私に視線を送って、それからふんと目をそらして小説のページをぺらりとめくる。
……どうしよう。このままだと本当に遅れてしまう。ただでさえ、カイは貴族たちから評価が悪いのに。
「その小説は舞踏会が終わってからでも読めるでしょう? あなたの準備を優先しよう、側近たちも困ってるからね」
「……」
「それに、ほら、先日買ったばかりの新しいジャケットがあるじゃない、あ、持ってきてくれる?」
近くにいた侍女に頼めば彼女はすぐさま用意して、私の手元におろしたてのジャケットが収まった。
「かっこいいわね、これ、本当に! 私あなたが着ているところが見てみたいわ!」
「……」
「こんなカッコイイもの買ってもらったのだから、エリカ王妃殿下にもノアベルト国王陛下にも恩返しするために遅刻しないように準備しないと、ね? カイ、私も手伝うから」
彼がどうしたらすぐに準備したくなるか考えて必死に言葉を紡ぐ。
カイの身支度を舞踏会までに終わらせなければならない使用人たちも、切羽詰まった形相で私たちのやり取りを見ている。
身支度が間に合わなかったら使用人にとっては名折れだ。
きっと他の使用人から馬鹿にされてしまうに違いない。彼らのプライドの為にもカイ自身の為にもここはどうにかしなければ。
「ねえ、カイ……」
「フェリシア、うるさっ。……あーもう、そろそろ準備しようかなって思ってたのにフェリシアのせいでやる気失せた~」
「そんな……口うるさく言ってごめんね。でもあなたの為を思って……」
「そー言うのだるいってば。はぁー、ほんとだるい!」
「ご、ごめんね。でも急がないと、皆、カイを待つことになって、嫌な印象を……」
「フェリシア、ウザすぎ」
「……」
彼をやる気にさせるためにこうして言葉を尽くしていたのに、そんな風に言われては私も立つ瀬がない。
しかし、これは彼なりの甘えだ。つまりは愛情、そういう風に解釈して、私はさらに笑みを浮かべて声をやさしくして言った。
「うん。本当にごめんね。じゃあ、私、部屋に戻るからそしたら身支度を始めてくれる?」
「……」
「……カイ?」
「は? 手伝うってさっき言ったじゃん! 嘘つき」
……たしかに言ったけれど……。
パタンと本を閉じて彼は起き上がり、私の事を見下ろした。
そして、そのまましゃがんでいる私の肩を押した。しりもちをついてしまってそのままカイを見上げる。
彼の美しい黒髪は、寝ぐせでぼさぼさで今日一日ずっと自堕落に過ごしていたのだとわかる。
「てか、ブス、化粧もちゃんとできてないし、顔が庶民臭いから俺様にふさわしくない」
「……あ、えっと、急いでいて」
「言い訳すんなよ、だる」
「ごめんね」
カイはイライラした様子で私の欠点を指摘して、思わず私は自分の頬に触れる。
確かにカイは王妃殿下譲りのとても可愛らしい華やかな顔立ちをしているし、化粧だって必要ない。それに比べて私は、華やかな色のアイシャドウで飾らなければ印象に残らないような顔つきをしている。
彼のためとはいえ自分のメイクをおろそかにしてしまうのは、確かに良くなかったかもしれない。
「もーいいよ! どうせ俺、フェリシアと結婚すんだし地味顔も慣れたし……はぁーあ、気分最悪」
「……うん」
言われて今からでもメイクの続きをしてもらおうかと考えていると、カイは大きなため息をついて言いながら立ち上がった。
「どっか行って、フェリシア。準備の邪魔!」
「……うん」
私はしりもちをついたままだったので言われてハッとしてゆっくりと立ち上がった。
……なんにせよ。これなら何とか開会の宣言までには間に合うね。機嫌を悪くさせてしまったけど。
そんな風に考えつつ、どっと疲れて私は自分の身支度の続きに戻る。
外見の事を悪く言われた後だと鏡を見るのも気分が重かったけれど、悪気があったわけではないだろう。
王妃殿下や、エルフの血が濃い貴族たちなんかに比べれれば地味と言われても仕方がない。
少しでも彼の隣に並ぶのにふさわしいように、いつもより多少派手にしてもらって舞踏会に向かった。
あんなに苦労して彼をやる気にさせることが出来たというのに、結局カイの身支度は間に合わず、少し遅刻をして、舞踏会は予定より押して開催となった。
しかし以前には数時間押したこともあったので、多少の遅れについて貴族たちから文句を言われることは無く、朗らかな雰囲気で舞踏会を始めることが出来た。
私はまだ正式な王族ではないので、カイの隣に席はないが、これでも一応聖女であるので伯爵令嬢という高くない身分でも舞踏会で肩身の狭い思いをすることは無い。
だから開催さえしてしまえばゆっくりと舞踏会を楽しめる。……カイが大人しく礼儀正しくしてくれていればの話だが。
「なんたる侮辱! ただでは済まさんぞ!」
楽師たちの奏でる美しいワルツにそぐわない声が聞こえてきて、さぁと血の気が引いた。
手に持っていたグラスをそばに来ていたウェイターに下げてもらってすぐに踵を返した。
「違和感ありすぎなのが悪いんだろっ」
「この、返せ!」
「うわっ、あっぶな~」
一人壇上に座って、様々な貴族たちの挨拶を受けていたはずのカイはいつの間にか立ち上がっていて何かを手に持っていた。
「あ、フェリシア見てくれ! こんな大きすぎるかつら見たことあるか?!」
急いで向かった先には、薄毛を気にしている歳を召した公爵の姿があり彼は顔を真っ赤にして憤慨し、兵士に止められつつもカイに掴みかかろうとしていた。
「ダサすぎるだろ!」
どうやらカイは跪いて挨拶をした彼の元まで歩いていき、その頭につけている大切なものを面白半分に奪った様子だった。
公爵が怒り狂い喚き散らすとパーティーホール内は騒然とした空気に包まれる。
朗らかな空気は、また王太子が何かやらかしたのかとぴりついた雰囲気にがらりと変わる。
……ああ、一人でずっと貴族たちの長い挨拶を受けていたから、退屈してしまったのね。
彼がこんな行動に出た理由はなんとなく察せた。それにあの公爵のかつらがとっても立派なことは周知の事実だった。
しかし貴族とは見栄を張るものだ、そしてその見栄を奪い取って辱めることは、いくら王族でもやっていい事ではない。
「カイ!」
品がないとわかっていても、もう体面なんか気にしてられずにパタパタと走って彼の元へと向かい、その立派なものを彼の手から奪い取った。
「申し訳ありません、公爵閣下。お返しいたします」
それからすぐに兵士にもみくちゃにされて乱れている公爵に丁寧に手渡した。
「いくら、唯一の王子とはいえ、許されませんぞ!」
「閣下、申し訳ありません、一度ホールの隣のドレッシングルームに参りましょう」
「ええい、離せ! 今ここで目にもの見せてくれる!」
「どうか、ご勘弁を! カイ! あなたも謝罪を!」
公爵をなんとかなだめながらも、どうにか後ろを振り向きカイを縋るように見るが、彼は私の行動にまた機嫌を悪くしたのかプイっと顔を背けて、イスに戻りふんぞり返って座った。
……ああ、どうしよう。
考えつつも乱心している公爵に丁寧に言葉をかけ続けた。彼をこのまま放置していては、あまりにも不憫だ。
そのままドレッシングルームへ共に向かって誠心誠意の謝罪を繰り返せば彼は何とか振り上げた拳を下ろしてくれたのだった。
公爵を馬車へと乗せて屋敷に送り届けた後、舞踏会会場へと戻るとそこにはまだ挨拶を受けていない貴族がいるにもかかわらず、カイは姿を消していた。
きっと自分を放置されて、へそを曲げて自室へと戻ってしまったのだと思う。
その状態を見て、私はため息が出るのを止められなかった。
とても疲れて喉が渇いたので、若い貴族が固まっているブースへと向かってウェイターから飲み物をもらう。
私が戻ってきたことに、大体の貴族が気がついているが、仲良く話をできる気軽な関係の貴族は私にはいない。
幼いころからカイの婚約者として王宮で忙しく暮らしてきたので、普通の交友関係を持て無かった。
先ほどの事態同様、昔からカイは、いろんな場面で問題を起こす。その対応や聖女としての仕事に追われて人とプライベートで関わる時間がなかった。
だからこうして戻ってきても、カイがいなくなるまでの様子を教えてくれる人などいない。
伯爵家の後継ぎである妹もこの舞踏会に参加していて、見える位置にいるのだが、彼女ともあまり接点がないので、いつものごとくこちらを見てひそひそとお友達とやり取りをしているところが見えるだけだ。
……仲間に入れてなんて言えないもんね。私もいつカイに呼び出されて途中で舞踏会を抜けるかわからないし。
それにひそひそと噂話をされることはあるが、面と向かってなじられるということもない。
貴族たちは基本的に冷静に自分の立場を鑑みて立ち回ることのできる頭のいい人たちだ。王太子の婚約者で聖女という立場のある人間を無理やりこき下ろしたりはしない。
だからこそ、下手に声も掛けないし、逆に恨まれるようなこともしない。静かなものだった。
グラスを傾けてこくりと果実のジュースを飲む。普段だったら、周りもすぐに別の話題に移って私は透明人間のように扱われるのだが、ふと笑い声が聞こえてきた。
くすくすと妖精が囁くような小さな声だ。
「いやですわ。彼女が不憫よ」
「だが、間違っていないだろ」
「ええ、ふふっ」
「ナニーの方が正しいのではなくて?」
「いやぁ、ナニーならもっときちんと教育をするさ」
「たしかにそうだな」
どこかの誰がというわけではない、しかし、私の事だとわかるような囁き声が次第にはっきりと聞こえてきた。
初めての事態に困惑して周りをきょろきょろとしてみると、大きな声が聞こえた。
「あら、お姉さまってそんな風に呼ばれていたのね!」
あざ笑うような声は、たまに王宮にも顔を出してくれる妹のカリスタの声だった。
……私の通り名ってこと?
なにやらひそやかに話題になっている内容がわかってキョトンとすると、三人組の男性がやってきて、彼らは私からほど近い位置でこちらを注視している。
その三人組のうち、とがった耳をアピールするように銀のピアスをつけている青年が口を開いた。
「暴君シッターだなんて不名誉極まりない通り名だと思わねぇか?」
「ええ、まったくですね、ヴィクトア様!」
「その通りでございます!」
「おっと二人とも声が大きいぞ、本人に聞こえるかもしれないだろ?」
「ああ、そうでした!」
「気をつけます!」
ヴィクトアと呼ばれたその青年は、ちらと私の方を見て目が合った。
彼はこの地に昔から住んでいたエルフの血が濃く、耳がとがっているのでとても高貴な身分だとわかる。
そして特徴的な赤毛をしていた。
エルフの血が濃いのでもちろん顔立ちも気品があり、取り巻きのような子分のような存在を二人ほど連れている、すぐに誰だかわかった。
まだ、外見からしてカイと同じぐらいの成人丁度ぐらいの年齢に見えるが、この風貌ですでにフェルステル公爵の地位を継いでいる立派な貴族……であると思ったのだが、何と言っただろうか。
……暴君……シッター……。
「婚約者なのに、あんな風にわがまままを宥めてやって、迷惑をかけた相手には代わりに謝罪をしてやるなんて、まさに世話係り。一生そうして子守をして生きていくなんてさぞ大変だろうな」
「ですね、なんせ相手はあの暴君ですから」
「私だったったら三日で放り出します」
彼らはあくまで身内だけのナイショ話という体で話をして笑いあっているが、周辺にいる人にはまる聞こえという声量だ。
普段なら、王太子であるカイの事をそんな風に言うリスクなんて、滅多に取らない貴族である彼らが明確に発言している事に驚いた。
それから言われたことを何とか理解して、ヴィクトアの言葉にもさらに驚いた。
そんなこと言われたって、ずっとこうしてカイの面倒を見ながら生きてきたのだ。ただカイは少し他の人より気分屋で、甘えた精神を持っているだけだ。
それを無理やり変えることなどできないし、変えようとも思ったことは無い。ただ毎日必死で何もやらかさないように気を配ってきた。
……それを子守だなんて……。
誰かが否定するはずだと思って私は、周りにいる貴族たちを見回した。
しかし美しいワルツが流れる中、ヴィクトア達の言葉は正しいとばかりに私を笑う声は途切れない。
思い思いに彼らは、私を憐れんで揶揄うようにシッターだナニーだと続けた。
それに耐えられなくなって私はたまらずその場を去ったのだった。
その日の夜、王宮の自室に戻ったが、すぐにどうにも落ち着かなくなってカイの部屋を訪れた。
舞踏会の時に言われた言葉がずっと引っかかっていて、そんなはずないという気持ちの方が間違いではないという事を確認したくて、ふてくされてしまったカイのそばに寄った。
「カイ、公爵閣下には明日にでも謝罪の手紙を書こうね」
優しくそんな風に声をかけながら、昼と同じようにソファーに寝っ転がって本を読む彼に、目線を合わせるようにドレスを整えながらも膝をついた。
しかしカイはまったく私の言葉に耳を貸さずに、無言のまま戦記物語を読みふけっている。
「大丈夫、今日は途中で放棄する形になってしまったけれどカイはまだ成人もしていない王族だもの皆も許してくれる」
「……」
「だから、次からうまくやればいいよ。きっとできる、私……」
励ますような言葉を続ける。しかし、シッターのようだと言われた言葉がちらついて自分の口調も言葉も、子供の機嫌をとるようなものではないかと疑問に思った。
「私、あなたを信じてるから、次の舞踏会には完璧に挨拶をこなして、皆をあっと驚かせましょう?」
「……」
……あれ……ああ、完全に怒っているというか……。
何かに気がついてしまいそうだった。しかし、私はそれを無視して言葉を続けようとした。
けれどもおもむろに起き上がったカイは、完全に無視するように私に視線も向けずに分厚い小説を投げつけた。
「っ」
バシッと顔に直撃して驚いて硬直するが、それも無視して彼は大股でずんずん歩いてベッドに向かっていく。
…………。
布団に入って今度はふて寝を始めるカイを呆然と見つめて、鼻がじんじん痛んで妙に腑に落ちてしまうような感覚を覚えた。
しかし、それを認めるのはあまりにも難しくて、うまく処理できずに私は戦記物語を抱えたまま首をかしげて、それからずっと頭がぼんやりしたまま過ごしたのだった。
しばらくカイに接触しないまま、ぼんやりしながら次の舞踏会までの日々を過ごした。
なにも手につかなくて、あの日に言われたことが頭の中をぐるぐると回っていた。
いつの間にか舞踏会の日がやってきて、自分の準備をせっせと終えて彼の側近からの救援要請にも対応せずに一人で会場に向かった。
舞踏会はいつもよりも数時間遅れての開催となり、待たされた貴族たちの雰囲気は最悪だった。
その会場の中で、私はカイの事をフォローするために立ち回るのではなく彼を探した。
彼とはヴィクトアの事だ。
彼は若い貴族の中では一番権力をもっている。きっと彼が私の事をあんな風に言っているから、周りの貴族たちも同調して暴君シッターなどという不名誉な通り名を言っているに違いない。
だから彼に訂正してもらえば、そんな話はなくなる。そう考えていた。
目立つ赤髪をしているので、彼は多くの貴族の中からすぐに見つかった。
声をかけようと近寄るが、彼の周りには付き従うように二人の男性がいて普段なら身内で楽しく話をしているところに割って入ったりしない。
そういう事をするのはあまり得意ではないけれど、そんなことは言っていられなかった。
「……あのっフェルステル公爵閣下!」
気がついてもらえるように彼を呼ぶ。私は彼と親しくはないのでファーストネームで呼ぶようなことはできない。
彼は私の声にすぐ反射するように振り向いた。その鋭い瞳が私をとらえて周りの貴族たちも珍しく他人に声をかけた私の動きに歓談しながらも注意を払っている様子だった。
「フェリシア!!」
しかし、私の意思とは裏腹に真後ろからカイの声がして、気がつくときつく二の腕を掴まれていて、耳元に向かって彼が叫んだ。
「なんで俺様に声をかけないんだよ!!」
どうやら貴族たちが注目していたのは私の動きではなく、カイの動きだったようだと気がつく。
それと同時に耳がキンとして痛みが走る。酷い耳鳴りがして振り向くと彼はまた癇癪を起こしているのだとわかる子供っぽい目をしていた。
始めに私を無視して接触を絶っていたのはカイなのに今日この場で自分に声をかけに来なかったことを酷く怒っている様子だった。
「フェリシアは俺の婚約者だろっ!!」
続けて耳元で叫ばれてからだが硬直する。
私の方が年上とはいえ、一つしか違わない。そんな相手にこんなことをされては恐怖を感じるということは、今の頭に血がのぼっているカイではわからないのだろう。
「俺が無視してたら何が悪かったか考えて、ちゃんと反省して機嫌をとってくれないと駄目なんだぞ!」
そのまま肩を掴まれてがくがくと揺らされた目が回って、目を血走らせて愛情の上に胡坐をかき、私という人間を保護者か何かだと勘違いしている男が必死に自分の主張をしていた。
……ああ、なんだ。
ふと頭の中には冷静な自分がいた。
冷却期間を置いていつもの通りに、冷静になって両親に言われた通りにちゃんと彼の婚約者を成し遂げられるつもりでいたのに、その気持ちはあっけなく崩壊した。
すでにヴィクトアの言葉によってずっと前からヒビは入っていたのだと思う。
でもそのヒビを埋めるために今日、ヴィクトアにあの言葉を訂正してもらえば、まだ何とかやっていけるはずだった。
しかし音を立ててガラガラと気持ちは崩れてなくなってしまう。残ったのは妙な喪失感で愛情が失われる瞬間は一瞬なのだと悲しくなった。
「それをなんだ、俺が冷たくしたらすぐに他の男に……声をかけたりして……」
カイは段々と勢いを失わせていって、どうしたらいいのかわからなくなってしまったまま、私はそれを疑問に思って彼の視線の先を見た。
そこにいるのは意外なことに……というか、先ほどまで声をかけようとしていたから当然なのだが、ヴィクトアがいて彼は冷静な顔をしていたけれども、その瞳には軽蔑の色が浮かんでいた。
「……女性にそんな風に手をあげるもんじゃねぇだろ」
つぶやくように言って私の手を引いた。
そのまま一歩踏み出してカイから離れると、カイはなんだか今までよりもずっと小さく感じた。
「ま、他人の婚約関係に口だすほど野暮じゃなねぇし……婚約者を子ども扱いして甘やかすだけのあんたもあんただと思うしな」
「……」
呟くような声で言われて、やはりヴィクトアの批判はカイにだけではなく私自身にも向いているのだとわかる。
「何を俺様のフェリシアに言ってんだ! 行くぞ! こんなバカバカしい集まりもう二度と参加するもんか!」
ヴィクトアの声はカイには聞こえてはいなかったものの、何かつぶやいた事だけはわかった様子で、勢いを失っていたカイは、また怒りだし乱暴に私の手を取ろうとする。
彼らのどちらの言葉にも反応を返せないでいる私に、ヴィクトアは更に続けて言った。
「ただ、そのままでいいのか?」
その小さな問いかけは、ヴィクトアはそのままではよくないと思っているという彼なりの言葉だと理解できた。
それは悪意からくる言葉ではないと、直感的に理解できる言葉だった。
カイに手を掴まれて数歩進む。
こんな集まりとカイは言ったが、社交の場を儲けて情報交換をすることだって、こうして豪華絢爛な舞踏会を開くことによって権力を示すことだって立派な仕事だ。
そうして何回も言い聞かせてきたし、理解して進まなければ、カイに未来はない、彼は国王になるのだ。
カイに失望してカイの治世など認めないという人間が多数になった時、今の王族は終わりを迎える。
それは私も彼も望む未来ではない。
そして私がカイのそばにいることでそれを助長しているだけなのだとしたら……。
「……待って」
手を振り払ってその場に踏みとどまった。
今まで彼を傷つけないように、彼がどうにか機嫌よく公務を勧められるように努力を続けてきた。
お互いに良い方向に向かうために。
しかし私ではいっこうにそうできる気配もないし、傍から見てこのままではよくないと思われるまで来てしまった。
「私、もうこれ以上、あなたのわがままや横暴に付き合ってあげることは出来ない」
「何言ってるフェリシア! お前は俺のでずっと俺のそばにっ━━━━」
パンッと歯切れのよい音が響いた。周りからいつの間にか朗らかなワルツの音も貴族たちの歓談も消えていてしんと静まり返っていた。
「この婚約! 一度、白紙に戻しましょう。……私たち一緒にいても、いいことはない」
カイは初めて受けた頬の痛みに驚いたまま固まっていて、今まで散々私に乱暴をしていたのに、自分は頬を打たれただけで子供のように涙を瞳に浮かべて傷ついたように私を見た。
「フェ、フェリシア……?」
「……」
「嘘だろ。だって、お前は特別な、聖女で、王族に必要な……」
「私の義務はすでに果たしきっている、だから、あなたの為にも私の為にも選択をさせてもらいます」
婚約破棄、それは私の中に常にあった選択肢だ。私は治療が必要な人の為に、婚約して準王族という形で国王陛下に聖女の力を使っていた。
だからこそその義務が終わっている今は、私は自分の選択で彼の元を去ることが出来る。
そのことだってきちんと伝えていたはずだ。それをまったく取り合わずに、ありえない事だと思い込んでいたのはカイだけだ。
「……」
私の言葉に言い返すことができなかったらしい彼は黙り込んで、自分が被害者かのように俯いて静かに涙をこぼした。
これが嘘でないことはわかる。けれどももう、手遅れだ。
カイは私を信じて無償の愛情の上で暴れまわりすぎたし、私は誰かを育て導くということが向いていなかった。
「……さよなら。手続きは私が進めるから」
それだけ言い終えて、私はカイを置いて身を翻した。
こうして置いていっても、カイが追いかけてきて何かを提案したり自分から更生すると言い出したりはできない人間だと私は知っている。
ただいつも愛情を口を開けて待っているだけの幼子にも等しい人なのだ。
ホールを一人で飛び出してカツカツと勢いよく歩いた。王宮内の人気が無い方を目指してどんどんと進んでいく。
なんでだかまったくわからないが涙が出てきて、どうしてこうなってしまったのだろうと思う、それと同時に、なんだか胸が軽くなったような気もした。
人もまばらになっていき、適当に庭園を眺められるテラスへと出る。
外の夜の空気は澄んでいて少し肌寒いのが火照った体に丁度良かった。
「……はぁ、っ……ぅう」
婚約を破棄するにしても、こんな彼の成人目前じゃなくてもよかったはずだとか、これからどうしようという不安な気持ちが途端に押し寄せてきて、緊張から手が震えていた。
今まで彼に対してイラついたり怒っていたような気持ちもあったのだが、ああしてはっきりと言ってスカッとできたという気持ちもない。
いろいろな気持ちが織り交ぜられていて苦しいぐらいだがそれでも、不思議と後悔はしていない。
今までずっと彼の手を離さなかったのは小さな頃からああして面倒を見てきたからであると思うし、だからこそ、ヴィクトアの言った言葉を訂正してもらおうなんて考えになって、私自身もおかしくなっていたのだと思う。
「……フェリシア」
ふと、静かな声が私を呼んで、ハッとする。一瞬、カイが追いかけて来たのかと思った。
それでもその声は聞き慣れた、親しみ深い声ではなく、暴君シッターだと私をなじったヴィクトアの声だ。
もしかすると、彼はこうして私がカイと決裂するのを望んでいてああいったことを言ったのではないかと考える。
「っ、はぁ……何か御用ですか、フェルステル公爵閣下」
息を押し付けて、廊下からこちらを見ている彼を振り向く。
……目的は……何だろう。聖女の婚約者をカイから奪って、少しでも王族の力をそぎたかった? それとも王族の醜聞を貴族たちに見せつけることが目的?
彼のような力のある貴族が動くのは何かしらの利益が見込めることである場合が多い、だから先程の事が彼の望んだ結末であったなら、それをもとに彼が何を狙っているのかわかる。
しかし、こうして傷ついたカイの懐にもぐりこむのではなく、私の方へと来るヴィクトアの狙いは見当もつかない。だからこそ警戒した。
「……用事というか、ただ……俺はな……」
「急な御用でなければ、後日にしてください。……今は少し気分がすぐれないので……一応、お礼だけは言わせていただきます。何を望んでいるのだとしても気がつかせてくれてありがとうございました」
「……お礼って……」
私の言葉にヴィクトアは、なんだかバツが悪そうに首筋に手をやって視線を外して摩った後に、そのまま困った顔のまま歩み寄ってきて、胸元からハンカチを取り出して私に差し出した。
「そんなもの言われる筋合いねぇだろ、それにあんな風に騒動を起こすつもりじゃなかったんだ、フェリシア」
……?
お礼を言ってハンカチを受け取って涙をぬぐう。彼が何を言いたいのか、いまいちよくわからなかったけれども、すぐに私に何かを要求してくるわけではなさそうだった。
「ただ、あんたがその……あまり幸せになれそうになかったんで、色々思う所があってだな」
「……そうですか、お気遣いありがとうございます」
「いや、ただの善意ってわけでもねぇんだけど……」
煮え切らない態度の彼に首を傾げつつも、私は彼の耳についている小さな銀のピアスが廊下の光に反射しているのを綺麗だなと思って見ていた。
「昔から不憫だなと思ってたら、幸せになって欲しいなんていつの間にか思っててというか」
言い訳のようにそんな風に言う彼は、少し頬が赤かった。
「あ、男と別れたばかりの子に言う事じゃねぇよな。それはわかってんだけど……」
私の隣まで来てヴィクトアはそのまま柵に体を預けた。それからここまで言ってしまったからにはと、思い切ったように私を見下ろして難しい顔のまま続けた。
「俺なら少なくとも、対等に夫婦関係を結ぶし、フェリシアを好いているから、負担をかけたりしない。婚約を破棄するなら、俺との結婚を視野に入れてくれないか」
……あ、告白……だったんだ。
私は今更ながらに気がついて、ぱちぱちと瞳を瞬いた。
彼が何を要求してくるのかと警戒していたが、そういった不安は消えてなくなって、彼の行動の意味がやっと理解できた。
であれば今、私を追ってきたのは、他の誰にも先を越されたくないからと取れる。
それに、目の前にいる彼は恥ずかしそうで、でも、どこか嬉しそうでなんだか楽しそうだった。
自分が盲目にカイを愛してすり減っている間に、こんなに純粋に思ってくれている人がいるだなんてすごく不思議だ。
でも、一方的な愛情ではなく、こんな風に言ってくれる人と愛し合えたらどれほどいいだろうかと思う。
そういう風に関係を結べたらとても素敵だと思えたら、今までの鬱屈した感情は、清流に流されるようにさらりと消えていって気持ちも落ち着いて、少し笑みを浮かべられた。
「そうね……ありがとう。視野にいれておきます」
「是非、前向きに検討してくれると嬉しい」
「はい」
丁寧に答えると、ヴィクトアもとても嬉しそうに笑みを浮かべた。
婚約破棄を宣言して、その日のうちに次を見つけるなんて、とんだ薄情者かもしれないが、それでも心は穏やかだった。
それは縁を切った人の代わりにまた新しくかかわれる人が現れたからだ。
だからきっと私がいなくなったカイにも、良い方へと導いてくれる人が現れてくれたらと願ってやまない。
そして今日限りで、私の暴君シッターという通り名は意図しない形で社交界から消えたのだった。
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