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ピンクの爆弾

夢を題材にしたナンセンス小説です。


 ピンクの爆弾を追いかけていた。

 そいつはどぎつい蛍光ピンクであるので大変目立つのだという。見ればすぐにわかるとも言われた。

 言われたと言ったがそれは実は嘘で、私は元々そういったことは既に承知していたのだ。なぜならば、私がピンクの爆弾を追っていることは元々決まっているからで、だから追うというより追わざるを得ないのだ。そもそもなぜ私が追うという行為を強要されているのか、はて、そもそもが私とは一体どうして……。

 いや、やめておこう。

 こんな核心めいたことを考えるのは失敗のもとだ。ほら見ろ、其処此処に綻びが。クリアガラスの一枚戸は不気味に歪み、湿って黒光りする床は波打ち、足元に転がる黒々とした玉が三つ、ボーリングの玉よりちょっと大きそうで、黒鉄のような鈍い光沢があるそれは、ピンクのまだら模様だ。

 蛍光ピンクのペンキが入ったバケツを玉の手前で迂闊にも手を滑らし、床に叩きつけられた時に容器からベチョリと跳ね飛んだような模様、ピンクの。

「あっ」私は確信とともに喜びで小躍りした。見つけた、ついに見つけたのだ!

 そうだ、私が長年見つけることを目標とさせられた、あのピンクの爆弾がそこにあるのだ!

 取り返さねば、こいつは人類を、ひとつの国を、だったか? いや、地球、さらには月、もう一声で火星だって蒸発だ、そんなとんでもなく危険に満ちたピンクの爆弾がここに。

 手を伸ばし、球を両手で鷲掴みにすると、手が触れた部分を中心にズルッとピンクの塗装が移動した。

 ピンクの塗装が手についてしまったんじゃない。私の手から逃げるようにピンクの塗装が移動したんだ! どぎつい蛍光ピンクは黒鉄色の球の影に隠れてしまい、もうこいつはピンクのまだら模様の爆弾とは言えなくなってしまった。

「それはその、まったきピンク。異議での放置!」放置だ。ピンクでない以上、これ以上後追いできないのだ。そういう任務なのだ。

 しかし、放置だという考えが球側に伝わってしまったのか、三つの球はみるみるうちにむにゃりと形を歪め、艶やかな粘土の如く波打つ床の僅かな隙間へつるりと引っ込んで行ってしまった。仕方が無い、「僅かな隙間へつるりと」なんて考えているその瞬間には既に引っ込んでいたのだった。私は生まれつきタイミングが悪いのだ。

 そして、さらにバツが悪いことなのだが、実はつるりと行くまさにその瞬間、球の影にこびりついていたピンクのまだら模様をこの目で再び確認してしまったのだ。

 放置だ、と決め込んだ手前になんともバツの悪いことであるが、どうせ何があっても私自身。私の世界。誰が私のバツの悪さを問題に?

 仕方あるまい、追いかけよう。

 なぜならそのような運命であると決められているからで、私はそのように生きるからである。

 さて、三つの球が吸い込まれた床の隙間はどの隙間だったろうか。先ほどまで板張りの床だったはずが、いまはピンクの爆弾を吸い込んだはずみで湿ってカビだらけのタイル張りであった。私の実家は決してジメジメした地域ではなかったはずであるが、なぜだか風呂場の天井はいつも結露がビッシリと埋めつくし、タイルの目地はカビだらけだった。私は毎日毎日、目玉のようにも見える結露が覆い尽くす天井を見上げては、両の腕に鳥肌をたてていたものである。

 二三歩踏み出したところで、ちょうど私が踏みつけていたタイルの上側に僅かな隙間があることに気付いて指を突っ込んでこじ開けた時、私はクローゼットの扉を内側から押し開けようとしているところだった。


 防虫剤のキツい臭いが何よりも嫌いだった私を閉じ込めるには、そこは絶好の場所だったに違いない。私は罪を犯し、罰を受けるためにこのクローゼットの中に閉じ込められていたのだ。

 閉じ込められていたと言ったが、もとよりクローゼットに鍵などかかっていなかった。しかし、私の心は扉を開けることを頑なに拒んだ。

 私の心には罪悪感という名の恐怖心があり、なによりも罪を犯したならば罰を受けるべきだ、いや、罰を受けなければならない、ここで罰を受けなければ死よりも辛い目にあうという凍えるような恐怖が私をその場に縛り付け、支配するのだった。

 しかしいま、私は両の手をクローゼットの扉にかけ、半分押し開いた状態にあった。私には私が犯した罪はわからない。しかしここに閉じ込められたということはやはり罪を犯したのだろう。こんな、扉を開こうとしている所が見つかったならば、どんな仕打ちを受けるだろう。

 私の母は、私をクローゼットに閉じ込めたあとも、定期的にクローゼットを覗きに来た。ガラガラと扉を開けて私の顔をチラリと見やり、煙草をくわえて吸い込む。煙草が赤く光るのをやめると、母は私に煙をフーッと吹きかけ、またすぐに扉を閉めてどこかへ行くのであった。そして、私とともに閉じ込められた煙は、防虫剤の臭いとともに私をここに縛り付けるのだ。怖い。恐ろしい。

 恐怖のあまり、両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込みそうになった時、私は自分の手がまるで子どものように小さいことに気付いた。

 はて、私の手は、こんなにも小さかっただろうか?

 その時、私の心に突如天啓を得たかのような鋭い閃き、一瞬、脳の中にあるという神と通じる部分、そんなものがあるかは知らぬが、ちょうどにそのようなところに電撃を受けたかのような衝撃が走った。

 そうなのだ、私はもはやあんな、とるに足らない、愚図でみじめな子どもなどではないのだ。思い出した。私はここを出る方法を知っているはずなのだ。私はここを出ても構わないのだ。なぜならば、ここは私の世界。真っ暗な世界など、ここに存在していいはずがない。

 私が意を決して再びクローゼットの扉に手をかけた時、これ以上無いほど激しい光が私の目を灼いた。


 くるりと世界が回転し、私は横倒しになった。

 眩しさを堪えながら薄目を開けると、私の隣に青白い服を着た女が立っているのがわかった。

 私はうんざりした。ここは嫌いなのだ。もし場所を選べるのなら、こんな所には二度と来ないだろう。

 さっき、私の心に何か大きな衝撃が走った記憶がある。なんだったろうか。ついさっきの出来事だというのに、記憶は急速に風化し、もう思い出せなかった。

 女が私の枕元にそっと手をついて何事か囁いたが、私は構わず目を瞑った。

 しばらくの間、瞼を閉じても届く光で目の裏が真っ赤に見えていたが、パチンという音とともに消えた。そして、微かな風鳴りが耳元で聞こえてきた。私にとっては、これがいつもの合図なのだ。

 風鳴りが徐々に激しくなり、ついに耳を劈くほどに激しく聴こえてくる。まるで、宙をとんでもない速さで突き進んでいるかのように。

 こうして私は地平を超えるのだ。



 草原のただなか、私は乾いた土が露出した道をとぼとぼと歩いていた。

 遠くには、うっすらと青みがかった山々が連なっているのが見えるが、とても歩いては到達できそうもない距離だ。見回せば、道の両脇にはぽつりぽつりと桃色の花が咲いて、私を嘲笑っていた。

 なぜ私がこんな道を歩いているかというと、私は見知らぬ祖母に招かれ、会いに来たからだ。見知らぬというのに祖母であるというのもおかしな話であるが、しかしそれは見知らぬがゆえの祖母、私にとっても誰にとっても祖母は祖母であるので、何もおかしなところはないのである。

 周りを見回すと、青々と茂った雑草たちは私を無視して風に揺ぎ、嘲笑う桃色の花は私に見向きもしなかった。突如、私は激しい怒りを覚えた。繁栄を極める草どもは私のことなど気にする素振りさえ見せず、自分の生を謳歌している。

 私は、怒りに任せて彼等のことを踏みつけ、踵を地面に何度も押し付けながらほくそ笑んだ。そうだ、泥にまみれてしまえ。擦り切れてしまえ。潰れてひしゃげてしまえ。そして死ぬことも生きることもなく、永遠の地獄を味わえ!

 滅多矢鱈に踏みつけては一歩踏み出す。また踏みつけては一歩踏み出す。誰だってそうじゃないか、踏みつけなければ生きてはいけない。私だって彼等だって何も変わりはしないのだから。

 さて、ついに忌々しい桃色の花が私の前に現れ、私はこいつも踏もうと思った。

 悪く思うなよ、私だって好きでこんなことをしているわけじゃあない。足を振り上げ、振り下ろそう。同じことだ。

 しかし、私は足を振り上げた状態で一瞬躊躇った。なぜだ? 草は踏めるのに花は踏めないなんて、そんなおかしなことはないだろう。

 がちゃり、と背後で音が聞こえ、私は咄嗟に足を引いて地面におろした。

 振り返ると、古びたログハウスの玄関先に、見知らぬ祖母がいた。間違いない。私の見知らぬ祖母だ。半ば直感めいた確信とともに私は一歩踏み出す。

 見も知らぬ私の祖母は、私を見ると優しく微笑んで、早く部屋にお入り、という意味を私に送った。

 いつも変わらぬ、私だけの見知らぬ祖母。それは陽の光のようなあたたかさで、私の中の善良、慈愛、心のやすらぎの象徴であった。

 私の頬を涙がつたい、見知らぬ祖母にむかってつぶやいた。

「ただいま」

 桃色の花のことなど、もはやどうでもよかった。


 見知らぬ祖母の後を追い、玄関の戸に手をかける。

 しかし、そこで私の心にほんの些細な疑念が頭をもたげた。

 私はあの見知らぬ祖母のことを、何の疑いもなく私自身の見知らぬ祖母だと思っていたが、あれは本当に「私の」見知らぬ祖母だろうか?

 もしかすると、あれは「誰か」の見知らぬ祖母ではないのか?

 いや違う、誰にとっても祖母は祖母なのだ、私にとっても。しかし、誰にとっても同じということは、誰のものでもないということではないのか?

 疑念は拭いきれなかったが、私は無視を決め込むことにした。

 無視だ、無視だ、無視だ。疑いを持ったり、不安な気持ちになることは、ここではいい作用をもたらさないのだ。

 ああ、しかしそれは遅かった。私の不安を素早く察知した世界は、私の中の不安を押し広げ、私の恐怖を世界に流し込んできた。

 近づく炎、視線、割れるガラス。やめろ! 古い屋敷、爪、埃だらけの寝具、やめろ! もう考えるんじゃない!

 千鳥足で後ずさったはずみに桃色の花を踏みつけ、ばりんと音がして花は無残にも砕け散った。ああ、なんてことを! 砕けた花は元には戻らない。砕けたガラスも元には戻らない。死んだ生き物だって元には戻らないじゃないか。それと同じだ。この世で唯一、取り返しのつかないこと。それを私はいとも簡単に。

 今度こそ私は本物の恐怖に襲われた。両腕と顎がわなわなと震え、草原はいつの間にか真っ黒な雪に覆われた。燃え上がるログハウスは私の祖母とともに跡形もなく虚無にのまれ、世界はうねり、回転し、おおよそやすらぎとは程遠いものたちが溢れてくる。私が私を取り戻した時、そこは裏寂れた路地裏だった。

 ああ、なんということだろう! 私が抱いたちょっとの疑念が、ちょっとの不安が、喜びの感情より悲しみの感情、信じる心より疑う心、ここはなんて不安定な世界。それがこの世界の理だとでも言うのか。

 見上げると、薄汚れたモルタルの壁にド派手な黄色とピンクのネオンサインが取り付けられていた。ネオンの半分以上が消えているので、なんと書いてあるのかは読めない。そもそも文字ではないのかもしれない。何が書いてあるのかと目を凝らすと、そいつが不気味にくねくねと動き始めたので、慌てて目をそらした。

 砂埃で土色になった壁に、雨だれのような黒いシミ。真っ黒に汚れきって横倒しになったエアコンの室外機。破れかかった色褪せたポスターには微笑む女性の顔、不気味に揺らぐ電灯の光、粉々に割れた窓ガラス、電柱から切れた電線が垂れ下がり、火花を散らす。バチバチと飛び散る火花は、積み上げられたゴミに今にも燃え移りそうだ。建物の密集しているここでは、よく燃えることだろう。

 なぜだかその時、私はつまらない正義感とやらに突き動かされ、火花からゴミを遠ざけようと手を伸ばした。

 その三つのゴミ袋は、まんまるの球形をしていた。ボーリングの球よりちょっと大きそうなそれは、黒鉄のような鈍い光沢があり、そして。

「ああ」ごろりと転がったそいつは、どぎついピンクのまだら模様。

 そうだ、ピンクの爆弾だ。

 私はやっと目的を思い出した。ピンクの爆弾を追いかけていればいいのだ。そうすれば何も恐れることはない。

 取り返さねば、こいつは人類を、私を、誰もかもを。そんなとんでもなく危険に満ちたピンクの爆弾がここに。

 しかし、突如として足元が大きくぐらついた。地震か? あまりの揺れに立っていられなくなり、私はどすんと尻餅をついた。


 再び世界は回転し、私は横倒しの世界に来た。

 身体が小刻みに揺れていたが、薄目を開けると、それは自分の肩に当てられた手、そしてそこへ伸びる腕によってもたらされている振動だと気付いた。

 薄目のままで、視線を横に向けると、眼鏡を掛けた男が立っているのが見えた。

「おあおう、うえあん。おいうんあ」男は口をパクパクと開け、私に向けて意味を成さない音を発する。いつもこれだ。私には音だけが聞こえ、意味は聞こえない。

 その男は、私としばらくの間見つめあっていたが、私が何も答えないことを悟ると、手元のボードに目を落としてなにやら書きつけはじめた。無視していると思われたのなら心外だが、こればっかりは致し方のないことだった。

 男が軽く手を挙げると、青白い服を着た女が近づいてきた。

 男は女に手元のボードを見せながら、またなにかわからぬ声を発した。女がそれに頷いてみせたところをみると、二人の間では会話が成立しているらしい。

 音だけの世界。意味のない世界。どうして私には彼等の言葉が届かないのだろう?

 目だけを動かしてあたりを見回すと、両脇に背の低い柵のようなものが見え、自分がベッドの上に寝ていることがわかった。また、頭のちょうど真上あたりの壁にプレートが貼られていて、何か見覚えのある形の模様がいくつか書かれているのも見えた。しかし、私にはそれがどんな意味を持つのかはわからなかった。

 私は溜息をついた。ここは好きじゃない。なんて無意味な場所なのだろう。

 さっき何かを思い出したような気がしたのだ。とても大切なことだった気がするのに。あの男が私のことを揺らしたせいなのか、それらは私の中から既にこぼれ落ちてしまったようだった。

 仕方がない。もう一度確かめに行くほかあるまい。

 私は今度こそ地平を飛び超えるため、いま再び目を閉じた。



 あれからどれくらいの時が経ったのだろうか。

 どうやら、私は電車の中で居眠りをしていたらしい。

 目を開け、座席に腰掛けたままあたりを見回す。車内は薄暗く、座席は青色で、銀色のフレームで縁取られている。まだ新しそうな車体だ。ズラリと並んだつり革が、電車の揺れとともに小刻みに揺れている。

 しかし妙なことに、車内には私以外の乗客はおらず、また車窓からのぞく景色は闇に包まれ、時折飛来しては消えていく街灯以外には何も見えなかった。

 はて、これは一体どうしたことだろう。

 寝起きの頭が次第次第に覚めてくるにつれ、自分の置かれた状況がだんだんと飲み込めてきた。確か、私は仕事に行かなければならないはずだ。それなのに、外はもう真っ暗じゃないか……。

 慌ててドアに駆け寄り、行き先表示を目を凝らして見る。文字はミミズのようにのたくっており、判別不可能だ。ともかく、間違いなく見たことも聞いたこともない地名であることは明らかだった。

 とっさに左手の袖をまくり上げ、手首にはめた時計を確認すると、分針と時針がまるでミキサーのように凄まじい速度で回転しており、時計に添えた右手の指先を切り裂いた。私はうめき声をあげた。

 ああ、寝過ごしてしまった。

 私は、また罪を犯してしまったのだ。

 責任、責任、責任。

 誰かに遅刻を咎められるよりも、誰かに迷惑をかけてしまったという恐怖が私を慄かせ、背中をじっとりと冷たくさせた。

 人に迷惑をかけるとどうなるか知っているか?

 私の耳元で、そんなような意味の言葉、いや、意味そのものを誰かが囁く。ここでは、誰も言葉など口にしない。意味で会話をするのだ。意味が伝われば、言葉など不必要なものなのだ。

 私は知っていた。よく知っていた。罪を犯した人間はどうなるのか?

 そうだ、罰を受けるのだ。受けなければならないのだ。

 そんな私の罪の意識に呼応するかのように、突然電車が凄まじい加速を始めた。車輪とレールがこすれ合う轟音とともに真っ暗闇の街を突っ走り、街灯が飛ぶように電車の後方へと消えていく。激しい振動のせいなのか、車内の蛍光灯のいくつかが点滅しはじめ、そしてついに車内は真っ暗になった。

 私はあまりの恐怖に、仕事のこと、罪のこと、罰のこと、もっと大切な一切合切をすっかり全て忘れ去り、助けを求め、叫び、咽び泣きながら床にへばりつく。

 轟音とともに疾走する電車はついに音速を超え、光速を超え、車窓から射し込む赤い光と青い光が私の周囲を包み、未来、過去、あったかもしれない出来事、これからもありえることのない出来事、全てを超越して、私だけを乗せて、電車。

 もはや私の耳に音は聞こえず、届かず、車体も振動をやめていた。

 私はもはやこれまでと、頭を抱えて床に額を付け、土下座をするような格好でうずくまった。

 しばらくの間、私はそんな情けない格好のまま床に伏せてガタガタと震えていたのだが、しかし、あまりにもシンとした車内の空気に誘われるかのように、おずおずと顔をあげた。


 電車など、どこにも無かった。

 私は、住宅街の中にある交差点のど真ん中、輝く星空の下で、バカみたいな格好で泣き喚いていたのである。

 よかった。家に帰れる。

 そうだ、仕事など、なんて瑣末なことを私は気にしていたのだ。電車から無事に降りることほどこの世に重要な事はないではないか。

 安堵から、私は深い溜息をついた。帰ろう、家へ。


 しかし、私は周囲を見回して、困ったことに気付いた。

 ここは一体どこなのだ!

 家に、帰れない。私の心を、またじわじわと恐怖が襲った。もうこんなことはたくさんだ、私はもう家に帰りたいのだ!

 道を尋ねようにも、周囲には人っ子一人見当たらない。

 灰色の家々は途切れることなく立ち並び、一見整備された高級住宅街のようにも見えるが、どことなく違和感があった。

 とぼとぼと道のど真ん中を歩き続けた私は、何軒目かの家の前を通過した時、はたと違和感の原因に思い当たった。

 寸分も違わず同じ形の家が、視界の端まで、いや、水平線までずっと途切れることなくズラリと立ち並んでる。庭の広さも、植木の場所も形も同じ、家の形ももちろん同じ、屋根の色だってきっと同じ色だろう。

 これは作りモノの街だ。偽物だ。街のように見えるよう、誰かが決まった部品を決まったように組み立てて作っているに違いない。こんな同じ風景が、何度も、何度も、何度も、何度も!

 私は奇妙な街並みにいいしれぬ恐怖を覚え、踵を返して走った。しかし、全力で走ろうとすればするほど、足はモッタリと空気にまとわりつかれ、泥の中を這っているような感覚に陥る。

 次第に私は泥を掻き分け掻き分け進まねばならなくなった。

 右足を泥から抜き出し、前に踏み出す。右足に力を込めながら、泥の中へ倒れてしまわないよう細心の注意を払いながら左足を引き抜き、前へ。

 両足にまとわりつく灰色の泥は、立ち並ぶ灰色の家々から流れでたもののようだった。よくよく見てみると、灰色の家はそれ自体が泥の塊でできており、そいつがどろどろに溶けだしているのだった。

 くそ! 見掛け倒しの、泥の家。何の価値もなく、街を汚すだけの存在。

 溶けてしまえ、跡形もなく。消えてしまえ!

 するとどうだろう、灰色の家々が一斉に崩壊し、私に泥の波となって怒涛の如く襲いかかってきたのだ。肩のあたりまで灰色の泥にずっぽりと覆われた私は、両手を妙な形で上げた格好のまま、身動きすることすらできなくなった。灰色の泥は重く私の全身にのしかかり、呼吸が苦しくなる。

 息が吸えない。

 泥を掻き分けて抜けだそうともがくが、もがけばもがくほど私の身体は泥の中へどんどんと嵌り込んでいくようだった。

 今度こそ本当に駄目だ、もう泥に身を任せよう、と顔を俯けたその時、灰色の泥の中から風船のようにまんまるな三つの球が、唐突に私の目の前にぷっかりと浮かび上がってきた。

 よかった、こいつに掴まれば沈まずにすむ! 私は藁にもすがる思いで、浮き輪のように浮かんだその球をつかもうとする。しかし、泥にまみれた球の表面を、私の手はずるりと滑り、球の表面についた泥をこすり落としただけだった。

「アッ」私は思わず声を漏らした。

 泥が擦り取られた球は黒鉄のような鈍い光沢を帯びていた。

 そして、擦り取られた泥の下にはピンクのまだら模様。

 私が追い求めていた、ピンクの爆弾。

 何度目だろう。何度逃げられただろう。

 しかし、今度は逃さない。

 不思議と私は冷静だった。なぜだか、今回は捕まえられる気がした。

 私は泥の中、ピンクの爆弾へと無我夢中で手を伸ばした。左手で泥を掻き分け、右手を伸ばす。指先がほんの少しだけピンクの爆弾に触れたものの、かえって向こうへと押しやってしまった。

 もう一度。

 泥は想像以上に重く堆積し、足をあげることなどとてもできない。私はなんとか両手で泥を掘り、掻き分け、泥の上に身体を投げ出すような格好で、今度こそピンクの爆弾へ手を伸ばした。


 4


 横倒しになった私は、それを認識すると同時に、はじめて自分の頭に何か違和感があることに気付いた。

 恐る恐る手で頭を触ると、なにやら固いホースのようなものが額の上から伸びている。それは頭をすっぽり覆った機械と一体化しているようで、ガッチリと固定されて動かすことができなかった。

 自分の知らぬところで身体をいじくりまわされた事に気付いて、私は不快な気分になった。

 いくら言葉が通じないからといって、何の予告もなしにこんなものを装着するなんて。だいたい、頭にくっついたこの機械は何だ? 一体私の身体はどうなってしまったのだ?

 頭から伸びたホースは、ベッド脇に設置された装置につながっているようだった。装置にはパネルがあり、カラフルなグラフのようなものが表示され、うねうねと動いている。

 なんとかこの忌々しいホースを外せやしないものかと、私は渾身の力でホースを掴んでひっぱり、ひねり、強引に折り曲げようともがいた。駄目だ、まったく外れない。

 頭にくっついている機械のほうはどうなのだろう? なんとか頭から引き剥がせないだろうか。機械と頭の間に指を突っ込もうと隙間を探してみたが、どこにもそんなものは見当たらなかった。

 私は仕方なく、布団の中で両足を踏ん張り、機械を両手で挟んで強引に頭から引き抜こうとした。

 ゴソゴソと音を立ててしまったせいだろう。私の動きに気付いた青白い服の女が小走りで駆け寄って来て、私の腕を押さえつけようとした。

「えんえ! えんえ!」女が叫ぶ。私も負けじと、女の手を振りほどこうともがく。

 そこへ、眼鏡の男が駆け寄ってきた。一瞬、男は女と私を交互に見やると、ベッドの脇に設置された装置に近づき、トントンと画面を叩いた。


 すると……。

 私の中に、またあの天啓を受けたかのような感覚が走った。

 どうして私は怒ってなどいたのだろう。急に、押さえつけている女のことが、見下ろしている男のことが、私にはとても愛おしく思えてきた。さっきまで、とても瑣末なことで不快な気分になって怒っていたことが、なにかとても無意味で、バカバカしく、自分が小さな人間であったかのような心持ちがした。

 そうだ。私にはやるべきことがあるのだ。さっきそのことに気付いた感覚が確かにあって、それは自分の中に事実の名残りとしてまだ確かに存在していた。

 行こう。

 私は宙を飛び、地平を超え、なすべきことをしなくてはならないのだ。


 寝息を立て始めた患者を見届けたあと、眼鏡を掛けた医師は急ぎ足で会議スペースへと向かった。治療経過の報告会が開かれる予定であったのに、既に五分は過ぎていた。

「すみません、遅れました」眼鏡の医師が会議スペースへ入ると、既に集まっていた医師たちがチラリと彼の方を見た。

「うん、構わんよ。掛けたまえ」上座に座っていたずんぐりと太った白衣の男が、眼鏡の医師を見て言った。「じゃ、まずは君から報告してもらおうかな」

 眼鏡の医師はかるく一礼すると、小脇に抱えたカルテを開き、報告を始めた。

「はい。では、335号室の患者から。MRI検査の結果、左側頭葉の損傷、および海馬の萎縮が見られました。長期に渡る精神的虐待の結果と思われます。部位からいって、言語・記憶関係になんらかの障害が出ることは確実です」

 眼鏡の医師はそこまで言うと、一旦手元に置いたカルテに目を落とした。

 太った白衣の男が、顎を撫で、ふんふんと声を出し、先を促すように彼に手を差し出した。

 眼鏡の医師は太った白衣の男に向かって軽く頷いてみせると、再び話し始めた。

「彼は聴覚に問題がないことは判明しているのですが、こちらからの呼びかけに反応を見せず、意味のある言葉も話せないようです。このことから、声は聞こえているものの意味は理解できない、という状態にあると推測されます。これは、先に述べたMRI検査の結果を裏付けるものです」眼鏡の医師は、プラスチックのコップに入ったお茶を一口飲むと、先を続けた。「また、脳波検査の結果、睡眠時に脳波の異常がみられました。これも左側頭葉です。レム睡眠時の視覚映像の取得には至っていませんが、同様の疾患を持つ患者たちに対する研究結果から、荒唐無稽な悪夢ばかり見ているであろうことは明らかであり、早急な患者の心のケアが必要だと判断しました」

 太った白衣の男が、ほう、と漏らして窓の外に目をやった。全く興味が無い、という態度を隠しもしなかった。

 眼鏡の医師も、それを気にする素振りも見せず、先を続けた。

「そこで我々は、脳の特定の部分に微弱な電流を流し、夢の方向性を変化させることで患者の悪夢による苦痛を和らげる治療を行うことを決定しました。夢の方向性を変化させるには、患者の海馬を刺激して良い思い出を呼び起こす必要がありますが、前述のとおり、当患者は海馬に萎縮が見られます。そこで、海馬を刺激するのではなく、もう少し間接的な方法をとることにしました。患者の怒りや不安といった感情をリアルタイムで検知し、反対の感情を呼び起こすような刺激を加える事、また、一定の目的意識を持たせることによって夢の方向性を操作しやすく……」


 目を覚ました彼は、はて、自分はどうしてまだここにいるのかしら、と不思議に思った。遠い世界のあの出来事は、早くも彼の中から抜け落ちつつあった。

 湿ったタイル、クローゼット、見知らぬ祖母、薄汚れた裏路地、光速電車、無限に続く家々、そしてピンクの爆弾……。

 それらは彼の中から急速に蒸発し、あとに残るのはもはや体験のゲシュタルトの名残り、ビーカーの底に沈んだ澱のようでもあり上澄みのようでもあり、ただただ「そういうことがあった」という結果だけが彼の中の感情を刺激し、刺激された感情が起こす波紋の形として、かろうじてそこに存在の痕跡を示すのみであった。

 彼は、うっすらと開けかけた目を再び閉じると、地平を超えるために凄まじい速度を出して航行し始めた。

 耳元でコチンと音がし、彼はびくりと身体を震わせ、反射的に薄目を開けた。彼のベッド脇に設置された装置の上に、見覚えのある黒い花瓶が置かれており、そこに桃色の造花が挿してあった。

 彼はまだ飛び立ってなどいなかった。が、彼にはそれを認識できるほどの意識は残っていなかった。

 そしてついに、いま再び彼の目が閉じられ、彼はまた地平の彼方へと飛び立っていったのであった。

以上です。

ありがとうございました。

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