吐き気のするような臭いの裏路地で彼らは出会う
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目覚めると秦之介は路地裏にはいつくばっていた。
主人に殴られた頭以外にも身体の節々が痛かった。
きっと周りの客たちにも殴られたのだろう。
路地裏は人っ気がなく、虫の声が響いていた。
空には星がきらめき、少し肌寒かった。
秦之介は起き上がり、取られているものを確認した。
案の定財布が丸々掏られている。
はあっとため息をつくと、文無しの上でこれからどうするかを考え始めた。
ここでこの秦之介という男についていくらか説明をしよう。
秦之介は俗にいうジゴロである。
貴族の女性たちに取り入り、金の援助を受ける代わりに彼女らに快楽を与える。
また、焔と神鳴(炎と雷属性の上級魔術)の使い手で家庭教師として貴族の子息らに魔術も教えている。
彼が大賢者と呼称するわけはここにあった。
この魔術について、さらに付け加えなければならないことがある。
というのも、魔術というものは元来、その真髄たる上級魔術の会得はたとえ賢者であっても一属性までが限度であるという事だ。
常人ではまず扱うことができないのが上級魔術なのだ。
秦之介はそれを一つばかりか二つも使う事ができる。
それ以外の属性も達人レベルに行使できる。
これは兎に角規格外の魔術の才の持ち主という事を意味するわけだが、しかしそれのおかげだけで大賢者としての人生を享受できているわけではない。
真の理由は彼がこの世界に転生した時にある。
秦之介はもともとこの世界の住人ではない。
現代日本でしがない大学生をしていた。
転機は何の前触れもなく訪れた。
交通事故。
大型のトラックに撥ねられて即死だった。
目覚めると秦之介は家でも病院のベッドでもなく、空虚にいた。
しばらくして、虚空から声が響いた。
可憐な女の声だった。
声の後、まるで初めからそこに居たかのように女神ザシュトラは秦之介の前に立っていた。
ザシュトラとはこの世界を守る神であり、人の生死を司る。
故に人々は死ぬとザシュトラから祝福を受け、また赤ん坊に戻り新たに人生を始めるのだ。
秦之介もこの例に漏れることなく新たな生活をスタートするはずだった。
しかし、運命のいたずらか事は通常通りには進まなかった。
まず性別が悪かった。
ザシュトラが女神ではなく男神であれば話は変わっていただろう。
なぜならザシュトラは出逢った秦之介に恋をしてしまったからだ。
秦之介は前世の頃からよく女にモテていた。
複雑な血筋による日本人離れした顔立ち。
こと女に関しての並外れた気づかい。
少々青臭い男気。
そのすべてが取り囲む女子たちを惑わせ瑞々しい恋の果実を実らせていった。
ザシュトラも例外ではなかった。
相対して感じる秦之介の男としての魅力。
加えて秦之介から送られる熱い視線(この時秦之介は本当に女神を抱こうとしていた)。
それらを受けて、眠っていた彼女の性が目覚めたのだ。
後は語るほどのことなどない。
こうして秦之介は女神からこれでもかというほどの祝福を受け、二つの上級魔術を会得し、赤ん坊に戻ることなく今のままの姿かたちで世界に出ることを許され(ザシュトラは彼の美貌を崩さないために転生させなかった。そしていつまでも若々しくあれと不老の祝福を施した)、華やかで爛れた生活を送るのだった。
さて、そろそろ秦之介は次の稼ぎ口を見つけ出そうとしていた。
しかしそれは、彼自身が思いついたわけではなく運命的な巡り合わせによるものだった。
大通りに向けて歩き出した秦之介は、背後からうめき声を聞き取った。
もっと深く考え込んでいたら聞こえなかったであろう小さな声。
秦之介は殆ど無意識に声の方へ向き直った。
目を凝らしてみると、路地裏の奥の空樽や木箱の影から気配を感じた。近寄ってみると隙間からネズミが一匹飛び出した。
(なんだ、ネズミか)
気配の正体を確かめ終えた秦之介は、興味を次の稼ぎに戻して再び大通りへ向かおうとした。すると——
「うぅ……ゴホゴホッ!!」
「誰だ!?」
ビクンと針を刺されたように驚いた。
気持ちを張りつめてゴミの山に再度視線を向ける。
光源を確保するために弱い焔魔法までも使い、自分を脅かした犯人を突き止めようとした。
「お前は……」
きらりと樽の後ろに何かが光った。
そして次第にその持ち主の輪郭が露になった。
そこに居たのは少年だった。
金髪で、泥に汚れた服を着ている。
疲れからか、はたまた患っているのか息は浅く肩が動いている。
秦之介に気付いて開いた瞳は綺麗な緑色で、そこはかとなく気品が感じられる顔立ちだった。
手にはペンダントが握られている。
炎に反射したのはこれだった。
「悪いけど僕は何も持ってないよですよ」
蚊の鳴くような小さな声で少年は応えた。
「金目のものは何もない。幸い持ってこれたのはこのペンダントだけだ」
「ガキ、残念だが俺はゴロツキじゃない。俺は稀代の大賢者、ムィ・シンノスケ・ヒオリだ」
「フヒヒヒ」
少年は唐突な秦之介の自己紹介に笑ってしまった。
酔っ払いか何かだと思ったからだ。
「そんなボロボロなのに?」
嘲りながら少年は聞き返した。
「ああ、そうだ」
「へえ、なら証拠を見せてくださいよ」
「それは断る」
「どうして?」
「礼儀を知らない奴に見せる魔法なんて持ってないからな」
少年はその言葉の中に、清潔さと威厳を感じ取った。
どうやらただの酔っ払いではないらしい。
「それは申し訳なかった。大賢者様。僕の名前はダ・ロシェ・ジレイユ」
居直って、ロシェは応えた。
背筋を伸ばし、右手を左胸に当てる所作は、彼が今ボロを着ていることを秦之介に忘れさせるものだった。
秦之介はロシェが貴族だということがわかった。
落ち着き払った雰囲気もそうだが、何よりも自信をダと呼称したことが原因だった。
「ダ・ジレイユ? ランテル人か?」
「ドゥラ(ディトレッティ・ジ・アンパルケの略称)だ」
「ドゥラ! まだ行ったことがないな! ところでダ・ジレイユ。貴族がどうしてこんなところに、そんなみすぼらしい格好をしているんだ?」
「それは……」
ロシェはどうしたものかと一瞬戸惑った。
貴族としての矜持が、自分の身に降りかかった恥ずべき出来事を隠したがったからだ。
しかし、そんな不安は一呼吸付けば消え失せていた。
揺らめく炎の中、ロシェはここに来るまでのことを大賢者に告白した。