酒癖の悪さすら運命に導かれる
2
ジルランダス国、ジューテ。
とある貴族の屋敷の一室は、衣服が散らかっていた。
オーブ織りの絨毯の上には男物の背広とワイシャツが無造作に置かれ、人が4人は寝れるであろう大きなベッドの手すりには女性ものの下着が掛けられている。
ティーテーブルの上には飲みかけのワインが二杯と、中身が半分ほど減ったボトルが一本。
その下には空の物が三本。
また、窓側の薫台からは甘ったるい香草の燻した匂いが漂い、それが酷く鼻についた。昨夜の情事がどれだけ騒がしいかったかは言うまでもない。
ベッドの中央、無秩序に乱れたシーツにくるまれながら秦之介は目覚めた。
頭が割れるように痛かった。
髄液の代わりに泥水が詰まっているかのようだった。
(昨日はさすがに飲みすぎたか)
秦之介は頭を押さえながらそんなことを思っていた。
「Deiam uor zorrait」
呼吸を整え意識を集中させる。
呪文を唱えてすぐに頭痛は弱くなった。
「ほどほどにしないとな……ッ」
しばらくすると、右腕が痺れていることに気が付いた。
見ると昨日の夜に招いたベレッタが下品に乳をあらわにしながら腕に重なっている。
秦之介はとても気分が悪そうに腕を抜くと、仕返しとばかりに女の胸を揉んだ。
「上品な寝相だな。……ベレッタ」
「う、うーん……シン?」
「ああ、そうだ。もう行かないと給仕がやってくるぞ」
「もうちょっと……」
ベレッタは眠気を帯びた手でシーツを手繰り寄せて秘部を隠しながら秦之介に甘えた。
「給仕にバレても知らないぞ?」
秦之介は相変わらずベレッタの胸を揉んだまま応える。
「それはあなたもよ? シン。いくらお抱え家庭教師と言っても、その生徒といちゃついてるって知れ渡ったら——」
「フッ……」
秦之介はさぞかし心地よさそうに笑って女の言葉を遮った。
彼女の胸を揉みしだいていた腕はいつの間にか彼女の髪をいじるようになっていた。
「その時は、お前を連れて逃げてやる」
燃えるような赤い髪を手櫛で梳きながら露になった耳に熱く息を吹きかける。
たちまちベレッタの顔はにやけとろけ、秦之介を抱きしめ首筋にキスをして沸き上がる甘い感情を表現した。
「そしたら私達お尋ね者ね」
ベレッタは悪戯っぽく笑うと、秦之介の頬に愛しく指を這わせた。
優しく撫で上げもみあげを軽く摘まみ、そして最後に唇を突いた。
それを合図に、昨日の夜から身体の奥に刻み込まれた溢れんばかりの色情を注ぐ場所を彼の口に見出した。
ドンドンドン!
(まずい、いつもより早いじゃないか)
二人の情事は無粋に響くノックの音によって終わりを迎えた。
二人は直ぐに離れて脱ぎ散らかした服を着て、モーニングコールを伝えに来た給仕に出来る限り淫乱な印象を与えないように努めようとした。
もっとも、この部屋の散らかり具合と男女が一晩同じ部屋で過ごしたという事実は、例え潔白であろうとも全員に邪推させてしまうものだが。
「ムィ・シンノスケ! もう朝ですよ! 起きてください! まあ、お嬢様!」
パリンと、給仕は秦之介の為に用意した熱い紅茶が入ったポットを床に落とした。
彼女の足にもその熱湯がかかったであろうがそんなことは気にならない。
彼女は驚嘆のあまり言葉を失っていた。
「ベーリ! 違うの! これは!」
「ああ、ザシュトラ様。どうかわが身に降りかかった受難を超える力をお与えください」
給仕は長い沈黙の後その場で祈りを唱えた。そして大きく息を吸い込み叫んだ。
「「「「「屋敷にケダモノがいます!!!!」」」」」
3
「なんで、俺が出て行かなきゃなんねえんだよ!!」
秦之介は酒場で管を巻いていた。
昨日の夜とは一転、大きなジョッキにたっぷり注がれたビールをしかめっ面をしながらぐびぐびと飲み干す。
その姿を娯楽不足の酒場の客たちが絡みたそうに眺めている。
酒場はざっと二十人くらいはいるだろうか。
空樽をテーブルとしていて椅子はなく、客たちは全員立っている。
タバコと酒の臭いが染みついた店内は少々独特な臭いがして、一見客を追い返していた。
給仕に見つかった後、そのことは屋敷中に知れ渡った。
ベレッタとは引きはがされ、屋敷の主の元に連れていかれ、即刻暇を出された。
ろくに準備することも許されず、秦之介は殆ど寝巻と変わらない格好で屋敷を後にするほかなかった。
使っていた全てのものが放り出さた。
その中から秦之介は今後の自分の生活に無くてはならないものを見繕って、そのまま酒場に直行した。
そして今に至る。
秦之介はまたビールを注文すると、とうとう酔いが回って立ってられなくなりその場に座り込んでしまった。
酒場の入り口からは暗くなった通りが見える。
朝から晩まで、秦之介はずっと飲んだくれているのだ。
「たくっ、俺は大賢者だぞ! 大賢者のムィ・シンノスケ・ヒオリだぞ!」
「大賢者様。そんなに偉いんだったら、チップを弾んでくれない?」
タチの悪い酔っ払いに絡みに行ったのは酒場のウエイトレスだった。
ブロンドをポニーテールで結び、目元には少しそばかすが目立つが、整った顔立ちだった。
「おい、レヴリカ! やめとけ!」
常連の男たちがレヴリカを止めようと、少し舌足らずな言葉を発するが彼女は聞こえていないようだった。
「フッ……チップか、この程度の安酒じゃチップは払えねえな!」
「へえ、あたしの前でそういう事言うんだ」
「なんだよ。怒ったのか? そんなにチップ欲しければサービス良くないとな?」
発育のいい、健康的な胸を見上げながら秦之介は言った。
丁度、秦之介が座り込んだ真ん前にレブリカが立って彼を覗き込んでいる為故意ではない。
が、状況的に周りに居た誰もがいやらしい意味として受け取った。
「ふふふ、そう……そんなにあたしにサービスして欲しいんだ!」
「あ? なんだ? 本当にしてくれるのか? なんだよ、冗談のつもりだったのに——」
ドスッ!!!
レヴリカの言葉に気をよくして立ち上がろうとした秦之介は、突然頬に加えられた衝撃により再び床に臥すことになった。
「おおい! とうとうやったぞ! レヴリカがやった!」
誰かが大声で叫んだ。
それを合図に騒がしさは波紋のようにオーディエンスたちに拡散していった。
「いっ……」
歓声が響く中、秦之介は殴られた左頬を押さえていた。
顔を上げるとレヴリカが腹の立つ笑顔で見下ろしている。
(このアマッ……!)
「お望み通り、拳のサービスだよ! どうした? もっと欲しいか?」
「いいぞ! レヴリカあああ!! やれえええ!!!」
「大賢者様をボコボコにしろおおおお!!」
酒場の空気は完全にアウェイだった。
先ほどから妙に癪に障る愚痴ばかり溢す秦之介に皆イライラしていたのだ。
秦之介は酔いを醒ますために深呼吸をした。
ぼやけていた視界と意識がはっきりし始め、同時に頬の痛みも増した。
レヴリカは、最初は様子を窺う姿勢だったが、周りの雰囲気に流され「さらにもう一発」という気持ちだった。
ふらつきながら立ち上がる秦之介。
その動作一つに観客は声を上げた。
痛みに顔をゆがめながらレヴリカに相対すると、間髪入れずにもう一発が飛んできた。
(いいパンチだが、避けられないわけじゃないな。さっきのは不意打ちだったからだ。意識してればこれくらいどうってことない)
ヒュンと、拳が空を切る。
二発目は左足を一歩引くことで回避した。
秦之介は頭の中で先ほどの失態の言い訳を述べながら、熱の冷めぬ頭を使って相手の動きを分析し始めた。
(雑魚じゃない。けど、強いわけでもない。飲み屋で働いてる間に酔っ払いたちを仕留める方法を身に付けただけだろう。たくっ、こんなやんちゃじゃなかったら抱いてやるのに……)
「おい! やれ! そこだ!!」
いつの間にか始まった見世物の評判は店の外まで伝染していた。
入口からは野次馬たちが顔を覗かせ、中には酒を頼んでいる奴までもいる。
酒場の主人はこの臨時の大繁盛に顔を綻ばせながらも、増える仕事に汗を流していた。
取り囲む人々の熱気は最高潮だった。
レヴリカが拳を放つほど、歓声が沸き起こり酒が売れる。
しかし、その光景は決して爽快なものではなく、見ている誰もがむず痒さを覚える奇妙なものだった。
レヴリカの拳は一度もキレを失うことなく秦之介に放たれていた。
だが、そのすべてを秦之介は的確に躱していた。
大きく動いて隙を作ることなく、必要最低限の動きで拳から逃れるその姿は見ているものに煙を思わせた。
とても酔っ払いの動きではない。
レヴリカはいつの間にかやけになって近くの樽に手を出した。
「「「おおおおお!!」」」
一際盛り上がったのはその時だった。
華奢な体躯の女の子が自分の身長ほどもある樽を持ち上げたのだ。
拍手喝采の中、樽は秦之介へ投げられた。
(ちっ、それは反則だろう。しょうがねえな。樽に向かって撃つから別にいいだろう)
「Hailles」
右手を掲げて秦之介は短く言葉を発した。
たちまち炎が樽を包み、灼熱と共に灰に変えた。
酒とたばこのほかに焦げ付いた臭いが酒屋に香る。
見物人たちは目の前の出来事を理解するのにしばらく時間を要した。
刹那に消えた樽。
そしてその原因であろう酔っ払い男。
長い沈黙を破ったのは店の主人だった。
「店で魔法を使うんじゃねえ!!!」
怒号と共に振り下ろされる鉄拳。
再びの不意打ちを避けることは叶わず、秦之介の意識は衝撃と共に身体から抜けてしまった。