夜に暗躍する剣士の影を追いながら
9
ロシェは背中の痛さで目を覚ました。安宿の一部屋。1つしかないベッドを掛けて秦之介とコイントスをした結果床で寝ることになった。薄目を擦ると大賢者様のいびきが聞こえてくる。
秦之介は勝ち取ったベッドの上で下品な寝相をしていた。寝巻きははだけ、しなやかな身体が月明かりに照らされている。張りのあるに前鋸筋の溝にロシェはしばらく見とれてしまった。
秦之介の裸体に目を奪われていることに気づいたロシェは恥ずかしくなった。そしてなんの気無しに外を見やった。
冷たい静寂が通りに横たわっていた。猫やネズミの足音さえも聞こえない。薄暗い通りをぼんやりと眺めていると尋問の情景がフラッシュバックした。
胸がキュウっと締め付けられる。じっとりと脂汗が滲み、呼吸が浅くなる。世界の音が遠くなり、激しい鼓動のみが薄暗がりの中で聞こえるのみだった。
頭を抱え、トラウマが過ぎ去るのを必死に耐える。気を紛らわすために他の楽しい出来事を思い出そうと努めた。
4歳の誕生日に初めて父に馬に跨らせてもらったこと。狐狩で初めて二人の兄に勝てたこと。オリジナルの詩歌を母に披露したところ、とても喜んでもらえたこと。初めてアルニと出会った時はお互い緊張しっぱなしだったこと。
思い出ひとつひとつを噛み締めるごとに五感のひとつひとつが戻っていく。
鼓動が小さくなる頃には、ロシェは通常の落ち着きを取り戻していた。
「大丈夫か?」
むっくりと起き上がって秦之介が問いかけた。
「なんとか」
「それはよかった。ほら」
水の入ったグラスを差し向ける秦之介。ロシェは両手でそれを受け取ると一気に飲み干した。
「影の剣士は許せません。あんな酷い殺し方をするなんて」
「ああ、そうだな」
「なんとかならないんでしょうか?」
「なんとかっていうのは?」
「犯行を止めるということです」
秦之介は続く言葉をすぐに発しなかった。ロシェは何事かと秦之介の方を向いた。彼は驚いたような困ったような顔でロシェを見つめていた。
「……シン?」
「いや、すまない。感心していただけだ。で、ロシェよ。とは言ってもどうやって止めるんだ?」
「探し出すんです。なんとかして」
「だからそれを聞いてるんだ。どうやって?」
「そ、それは。シンが何かアイデアを出してくれるはずです。大賢者様ですよね?」
秦之介はにやっとして、そして大きく息を吐いた。
「言ってくれるな。じゃあ、さっそく考えるとしようか」
言うと秦之介は指を弾いた。指先に火花が瞬くと、拳くらいの大きさの炎に変わる。炎は部屋から薄闇を追い出し、ロシェの瞳を光らせた。
秦之介は炎で湯を沸かすと夜中なのに茶を淹れた。本腰を入れて思案する顔をしている。
湯気を見つめながら彼は質問した。
「まず、影の剣士というのは12人殺しているんだよな?」
「はい、見せられた死体は12人ありました」
「お前がつまづいたやつも混じっていたか?」
「はい……いました」
ロシェの鼓動がまた速くなった。彼の顔がこわばったのを察知した秦之介は優しく茶を進めた。
「憲兵隊長殿は何か犯行についていっていたか?」
「いえ、むしろ手口を話せと」
「なんだ? 憲兵様たちも証拠を掴めていないのか? お粗末な操作だな」
秦之介は悪態をつきながら茶を一口含む。
「僕が、最後の被害者のそばにいたので」
「だから現行犯で逮捕か? 非常に優秀だこと。最後の被害者の側というが、ロシェ。被害者を見たのか?」
「いえ、亡くなってました」
「その前に何か見たりは?」
「……あ、アルニ!」
ロシェは燃えるような赤毛を思い出していた。波止場へ続く道で見かけた、宵闇の中に舞う赤い長髪。だが、すぐに怖くなった。アルニも剣の達人だ。そんな彼女が、もしかしたら。
青い顔をするロシェに、秦之介はあえていつもの調子で問いかける。
「そのアルニって女が犯人の可能性もある」
「そんなこと!」
椅子を倒しながら立ち上がるロシェ。秦之介は動じずにティーカップに口をつける。
ロシェはまた泣きそうになっていた。そんなことあるはずないと強く信じているのに、アパナージョに見せられたあの後継とアルニをどうしても結びつけてしまう。心が弱っているだけだとなんとか自分に言い聞かせることで平静を保てているが、何かの弾みで胸の中のダムは決壊しそうだった。
秦之介は対して、ロシェの語るアルニという剣士について慎重に吟味していた。12人も死んでいる事件。一人も撮り逃していないとなると相当腕はたつはずだ。もし仮にアルニが生きていたとしたら、あの猛獣使いとも渡りある実力があったということだ。少なくとも、剣技という面については彼女が犯人であってもおかしくない。
お互い黙りあっていると、夜闇の僅かな音すら聞き取れる。最初に気づいたのは秦之介だった。次にロシェが顔を上げた。二人は窓から身を乗り出し通りを監視した。
タッタッタッと誰かが走る音が反響している。より集中すると息遣いもかろうじて聞き取れた。
誰かが逃げている。秦之介はそう直感した。では誰から? 秦之介はさらに闇に意識を向ける。
小さな音だが、確かにもう1人の足音が聞こえる。闇に紛れるように、追跡者はウサギを狙っていた。
「追いかけるぞ」
つぶやくと秦之介は窓から通りへ飛び降りた。2階からではあったが、難なく着地を決める。
ロシェは秦之介のいきなりの決断と行動に面食らったが、後を追うように部屋を出た。暗い廊下と階段を蝋燭で照らしながら出口まで急いだ。入口で、起きていた女将の老婆が何事かと尋ねたがロシェは返事をしなかった。
ロシェが通りへ出る頃には秦之介は足音の位置を把握するに至っていた。出てきたロシェに合図し、音の元へ駆ける。通りから通りへ、曲がって曲がって突き進んでを繰り返していると確かに音に近づいた。
二人が4本目の通りまで出た時、状況が一変した。
「いやああああああああああああああ!!!」
甲高い悲鳴が静寂を切り裂いた。
二人の焦りはピークだった。遅かったと秦之介は吐き出す息に混じって言っていた。ロシェは再び世界が遠く感じていた。
それから直ぐに二人は被害者の元に辿り着いた。石畳は赤く染まっていた。その真ん中で横たわるのは、秦之介が日中鼻の下を伸ばしていたあのガールだった。彼女は右肩からの袈裟切りで命を奪われていた。鎖骨と肋骨が綺麗に断たれている。肺の断面が月明かりにてらてらと浮かび上がっている。
ロシェは身体の力が抜けそうだった。が、気づいた秦之介に抱き抱えられた。
「くそっ!!!!!!!!」
秦之介が吠えた。あたりにはもちろん人影などない。影の剣士はまた街に消えたのだ。
ぽつぽつと、通りが照らし出された。騒ぎに起きたのか、住民たちが窓を開け始めたのだ。暗かった通りは、彼らの部屋の蝋燭でじんわりと明るくなっていく。
秦之介はロシェを抱き抱えると、その場を後にした。誰にも顔を見られなかったと思いたい。
二人は怖い顔をしながら、また安宿へ戻るのであった。
10
アパナージョは周辺住民へ聞き取りを行っていた。騒ぎになっていたようで、容疑者を見ていた者が何人かいた。
一人は背の高い黒髪の男とのこと。汚れているが上等そうな外套を身に纏っており、遺体に近づいていたという。そして、これが彼女の心を憤怒に燃やした情報なのだが、もう一人の容疑者は少年だったという。栗毛の小柄なシルエットをそれぞれが目撃していた。
アパナージョは昨夜少年を取り逃したことをこの上なく後悔した。だが、憲兵隊長としての彼女はいつになく冷静だった。
一通り現場を調べあげ、目撃者へのさらなる聞き取りを部下に命じると彼女は憲兵所に戻った。
執務室へ入ると副隊長のエーダン・キコラスが待ち構えていた。
「あの少年は見つかったの?」
「いいや。まだ何も掴めていない」
「じゃあなんなの」
剣を腰から抜き、机に立てかけると、アパナージョは苛立ちを隠すことなく乱暴に椅子に座った。そして湿気った葉巻に火を灯すと紫煙を吐きながら彼を睨んだ。
「昨日の少年。ダ・ロシェ・ジレイユと名乗っていたそうだな?」
「ええ。最後まで本名を名乗らなかった」
「あながち偽名とは限らないかもしれないぞ」
キコラスは胸ポケットからペンダントを取り出しながら、ワクワクするような調子で話した。
アパナージョは彼のそぶりに眉を歪ませたが、ペンダントを受け取ると素直に話の続きを促した。
「今朝捕まえたコソ泥から押収したものだ。あまりにも場違いなものだからさらに調査した。するとだ、そこに描かれている紋章は、ドゥラの貴族、ジレイユ伯爵家のものらしい」
「はあ? うっ、ゲホゲホッ……!」
アパナージョは驚きのあまりむせてしまった。煙が二人の間を漂っている。キコラスは彼女を気にすることなく、続けた。
「昨日の少年、もしかしたら本当に貴族様かもしれない。きっと盗まれたペンダントを取り返しにきたんだ」
「ちょ、ちょっと待って。貴族の坊ちゃんだとして、なんで護衛もなしにこんなところまでやってきているの?」
「1ヶ月前に魔道列車襲撃事件が発生したのは知っているか?」
「ええ、お陰でドゥラとの交易が止まってるって、失業しかけてる海運業者が何人かいる」
「その魔道列車にジレイユ家のご子息が乗っていたらしい。表向きは乗客乗員全員死亡していたとのことだが、生き延びていたのかも」
「馬鹿馬鹿しい!」
アパナージョは勢いよく机を叩いた。タバコの灰が舞った。剣が倒れた。金属音を響かせながら刀身が鞘から姿を表した。
「じゃあ、何? 貴族だから見逃せっていうのか?」
興奮した勢いのまま、噛みつきそうな表情でキコルスを見る。
「そういうわけじゃない。だが、本当に奴がジレイユ家の人間だったら、慎重になる必要がある」
「……」
ギリギリと部屋にアパナージョの歯軋りの音が響いている。二人はしばらく黙ったままだった。アパナージョは理性を呼び戻すのに時間を要した。キコラスは彼女が状況を飲み込むのを待っていた。
「……罪は償わなければならない。身分がどうであれね」
「ああ」
「ダ・ロシェ・ジレイユは魔道列車で死んだはずよ」
キコラスは目を見開いた。そして直ぐに歪な笑顔を見せた。そして彼はアパナージョの剣を拾った。油のついた刀身を鞘にしまい、彼女に渡す。
「アマリヤ、俺はお前のそういうところを、本当に愛しているんだ」
「エーダン、ありがとう」
「お前は何も心配しなくていい。全てうまくいく」
キコラスはアパナージョに口づけすると、執務室を後にした。
アパナージョは紫煙を吐きながらその背中を見送った。