全ての始まりの車内
1
ディトレッティ・ジ・アンパルケからジルランダスへと走る魔法列車にてこの物語の幕は開けた。
列車に乗るのは、ドゥラ(ディトレッティ・ジ・アンパルケの略称)の伯爵ダ・ヴァル・ジレイユの息子ダ・ロシェ・ジレイユとその従騎士ダ・アルニ・パホールが乗っていた。
ロシェは父に従い、遠縁のアロイトス家の婿に迎えられようと旅をしているところだった。
兄が二人いるばかりに、家督を継ぐことができない彼にとっての唯一の敷かれたレールである。
控えめで、自分というものを表現することが苦手な彼は父の言う通りにするほかないのだ。
二時になるかどうかの時、ロシェとアルニは遅めの昼食をとっていた。
食堂車には他の客はいなかった。
代わりにパリパリの制服を着たウェイターが一人。
目が合うと微笑みかけてくる。
アルニは豪勢な食事に舌鼓を打っている。
目の前ではしゃぐアルニとは対照的に、ロシェは今後のことを案じて深くため息をつくばかりだった。
「はあ……」
「アロイトス家の事ですか?」
「うん、僕が行っても、彼女に失望されるだけだよ」
「何を言ってるんですか! ロシェ様はとても魅力的な男性ですよ。失望するなんてありえません!」
「剣技だってできないんだよ? 運動のできない男子なんて、男らしくないって」
「人には得意不得意があります。ロシェ様は代わりにお勉強が得意じゃないですか!」
「本が好きなだけだよ。ああ、なんで父さんは僕なんかを」
「ロシェ様のためを思ってですよ。アロイトス家では次期頭首なんですから、もっと自信を持ってくださいまし! アルニがいるんです。このチャンス、活かしましょ?」
「う、うん……」
アルニの励ましは、わずかだがロシェの顔に前向きさを取り戻させた。
しばらくはため息が漏れなさそうだ。
そんな主の姿に安堵したアルニが、メインディッシュの魚のソテーにナイフを入れた瞬間、電車が大きく揺れた。
それにより倒れたグラスはクロスに染み大きな染みを作り、ウェイターを呼ぶ契機となった。
「シャン、大丈夫ですか?」
「ええ、けどすみません。テーブルクロスが」
「いえ、お構いなく。どうぞあちらの席へ、そのままだとお召し物が汚れてしまいます」
「ありがとうございます。行きましょ、ロシェ様?」
二人は隣のテーブルへと移った。
ウェイターは残された皿とグラスを運び終えると、汚れたクロスの後かたずけを始めた。
「今の揺れ……」
「どうしました?」
「変じゃない? 列車が、あんなに大きく揺れるなんて」
「ん~、何かにぶつかったとか?」
「そしたら脱線しちゃうよ」
「それもそうですね。あとで車掌に聞きに行きましょうか」
そんなたわいもない談笑を遮るように、事件は起きた。
ドカン。
突如生じた、尋常じゃない衝撃。
打ち上げられる身体。
列車は止まらざるを得ず、きいっと耳の痛くなる音を立てながら強引に停車した。
遠くから乗客たちの悲鳴が聞こえてくる。
ひっくり返ったテーブルの下敷きになりながら、ロシェはその喧騒を聞いていた。
テーブルを退けて立ち上がると、車内の惨状と彼のもとに訪れた不運の象徴がそこにあった。
「ひっ……」
大きな、黒いトカゲ。
それが列車に顔だけ突っ込んで、先ほどロシェたちが座っていた席にかじりついている。
犠牲になったのはあのウェイターだ。
膝のあたりまでトカゲに喰われている。
痙攣してピクピク動くつま先からは血が滴り、その下には血だまりができ始めていた。
もし、あの時席を移動していなかったら、ロシェたちが被害にあっていたであろう。
トカゲは勢いよく目を見開いた。
人の頭くらいはある黄色い目玉が出てきた。
目玉はぎょろりと動いて、社内をくまなく移した。
そして、ロシェのおびえた表情を移して止まった。
トカゲはゆっくりと列車から顔を引き抜いた。
彼は何が起こったのか理解できなかった。
唯一判別できたのは、先ほど笑っていたウェイターが膝だけになったということだけ。
死んだということも、とっさに理解しがたい。
静寂が場を支配した。
ロシェの耳にはドクドクと苦しいほどに脈打つ自分の鼓動がよく聞こえた。
沈黙を破ったのはアルニの声だった。
「ロシェ様!」
テーブルごと体当たりで突き飛ばされるロシェ。
次の瞬間、その場を大きな爪が屋根を突き破りながら切り裂いた。
「アルニ!」
咄嗟に名前を呼ぶロシェ。
しかし、よく見ると彼女はしっかりと受け身を取り、剣を構えて臨戦態勢に入っている。
「アルニ! 大丈夫!?」
「ええ、ザシュトラ様の祝福の所為か無傷ですよ! それよりも、ロシェ様! 早くお逃げください!」
「に、逃げるって?!」
「いいから! 早く! この魔物に襲われる前に! ここは私が何とかします!」
アルニの怒声に押しのけられるように、ロシェは列車の亀裂から外へ飛び出した。
背の高い草に埋もれて車内を振り返るとトカゲに善戦するアルニの姿が見て取れた。
銀色に光る剣がトカゲの爪を受け流すと、返す刃で指先をえぐった。
痛みに熱くなったトカゲは彼女にかぶりつく。
しかし、アルニはテーブルを踏み台にして見事にそれを飛び躱す。
そして上手いこと頭に乗ると切先を脳天に突き刺した。
トカゲはまた痛みに顔を歪めた。が、まだ戦えるらしく右前足でそれを払いのけた。
今度は上手く受け止めきれなかったアルニは吹っ飛ばされる。
だが、着地は綺麗に決めて次弾の斬撃を放った。
ロシェはその姿のおかげで僅かな勇気と安心感を持つことができた。
そして、アルニの忠告を守るように、立ち上がって列車から離れるように走り出した。
離れれば離れるにつれて事件の惨状がよくわかった。
鉄でできた車両はまるで紙のようにくしゃくしゃになっていた。
そしてその鉄くずをさらに破壊しようと息を荒げている黒いトカゲの姿。
西日に照らされた漆黒の身体には鈍色の気持ち悪い文様が走っている。
アルニの喝が遠く轟いた。
鉄塊の上から一刀両断の構えで放たれる剣技。
トカゲの胸元に刻まれるエックスの傷跡。
アルニが仕留めたかと思えた。
だが——
ガワアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
トカゲは大きく吠えると黒いオーラを纏った。
そして、今までとは覇気の違う引っ掻きをアルニにぶつけた。
吹き飛ばされる彼女の身体。
赤毛がくしゃっと宙に散らばる。
ロシェはその姿に震え上がりながら危険から逃れようと先を目指した。
雨が降り始めた。
足を取られながらも進んでいるとどうにか街道に出ることができた。
振り返ると遠くに黒い影が薄っすらと見える。
ロシェは冷床に座っているかのような悪寒に震えながら、首に掛かっていたペンダントを握りしめた。
それはジレイユ家の象徴の鷹があしらわれた金のペンダントだった。
目を閉じて神に祈りを捧げると、街道の先に臨める街を目指して歩き始めるのだった。