平成 反逆盆踊り
「あそこの時計台で死んだんだよ」
私が生きていてメタファという言葉の意味について、真剣に考えたのは自死した姉についての話をクラスメイトに聞いたときで、
ここでことわっておかなければならないが、クラスメイトは時計台で自死した市内の女子高生についての噂の主人公が実は私の姉に他ならないことを知らない。
市内の時計台は、それ自体は進歩も退廃も緩慢なこの街を形成する小汚い退屈な建築の一つに過ぎないが、それでもこのあたりの人間が言葉で言う『時計台』は地域住民の共通言語として非公式的な地名の愛称に似た具象的な響きを宿していたし、自死には便が悪かろうと思える時計台での自死にはなにか言葉的な意味が含まれていそうだった。
命は言葉に優先しない。言葉で人は死なないが、言葉上では言葉で人は死ぬのだ。
姉の死には「時計台での死」という言葉が覆いかぶさった。
時計台で死ぬことは姉が自分自身の時間を停止させて、それから永久に連続させ続けることだったとか、街の時間の象徴のような時計台で死ぬことでそれから街の時間は姉の延長を刻み続けるとか、言葉上で月並みなことはいくらでも言える。
しかし象徴それそのものは永久に死んだ姉自身のもので、「時計台で死ぬこと」が言葉上どういうことになるかはメタファーの当事者たる姉自身の存在そのものに永久に覆い隠され続ける。
私には姉がいたはずであり、自死したのなら姉が、どうして死んだのかを知らなければならないはずなのだ。
しかし「姉が死んだ理由を理解した瞬間」というのは一体どの時点になるのだろうか?自分自身が納得したときに、私は姉が死んだ理由を理解したということになるのだろうか?
時計塔で死んだという事実は、その含み持つメタファーによって姉の死を変に覆い隠してしまうのではないのだろうか?
「それじゃあ学校終わったら時計台に行ってみようよ」
という私の言葉への友人の反応はかんばしくなく見えた。「怖い話への反応として間違ってるんじゃないか」というようなことを苦笑いで言いながらも、その友人は承諾した。
時計台は街の奥の山の方の寂しい土地にあって、田んぼも畑も民家も人通りも少ないから、地元の小学校ではあまり近づかないように注意喚起がされていた。
時計台は山の中の変に広い場所に建っている。もともと旧陸軍の敷地だったというような話があるが良くわからない。
とにかくそういう寂しい場所だったし、時計台も古い建物の暖かみというよりは
放置されて朽ち果てた建物のすさまじさの方が感じられるような、女子高生の自死だとか旧陸軍の軍事施設だとか気持ちの良くない話が噂されるような雰囲気の場所で、誰でもひとりではあまり近づきたくない、いやふたりでも行くにはあまり気乗りしないような場所なのであった。
私の姉の自死についての話を単に「怖い話」として面白がろうというこの友人に思慮分別とかデリカシーの欠如を感じながらも、自分が行くのは嫌であろう場所に、私と一緒に行ってくれるということについては、親切な人だなと思った。
「時計台に行くんだったら、図書室で少し調べてから行かない?時計台を」この友人の提案は、その場所の事情を何かしら知って、おいて薄気味の悪さを少しでも胡麻化そうという目論見があるらしかった。私は同意した。場所の事情や背景は姉の死が持ちうる意味の何かしらのヒントになるかもしれないからだ。
昼休みの図書室は明るかったので、室内照明の蛍光灯を消したままで十分本が読めるほどであったが、開架の本が傷まないようにブラインドを下げて日光の直射を制限してあった。
何とか市史とか、何とか町史とかいう名前の行政が作成した自治体市を、たいていの高校の図書館は一冊くらい置いているものである。私たちはこの街の市史を奥の郷土資料関係図書の棚に見出して、「通史編」「諸史編」「続通史編」の重たそうに分厚い三冊の中から「諸史編」を選び出した。
昭和後期の発刊のこの本は露出した紙の面がうすぼけた茶色に焼けていたが、だれも手に取らないと見えて表紙も中身もきれいだった。閲覧机ですぐさま目次から「軍事」を引いてそのページを開いた友人は、どうやら以前にも市史を読んだことがあるらしかった。
“頼母子山防空監視哨 太平洋戦争開戦に伴い米軍による日本の各都市への航空爆撃が実行されたため、昭和18年ごろ頼母子山新堀に防空監視哨が設置され、当市の在郷軍人2名が常駐した。”
「新堀っていうと、やっぱりあの辺だね」私は株式会社善隣の地図をくって頼母子山のあたりを探し出していた。
「そうだね、地図、には載ってないんだ。あの時計台。」地図は新堀あたりの山中の時計台のあるらしき場所が四角く括られていたが、そこに文字や記号による表示は見当たらなかった。友人は検討をつけかねた顔つきで地図に向き合う。「地図に載ってないのか、あの時計台は誰が管理してるのかな、私は市が管理してるのかと思ってたけれど、それなら善隣の地図には何か載っていると思うし、まさか個人所有の時計台なのかな」「やっぱり、日本軍の施設の遺構が、壊されないで残っているんじゃない?」「でもあの時計台まだ動いてるんだよ。誰かが管理してるんだよ。毎日五時に鐘が鳴るし」
そうなのだ、あの時計台は毎日17時にゴーン、ゴーンという間延びした、西洋風な風情の鐘の音で市民に時刻を知らせているのだ。「それに、ほら、日本軍は関係ないんじゃないかな、防空監視哨って、櫓が一つあるだけみたいだし。」確かに友人が示した市史のページには、高い櫓と、小さな小屋と、その前に並んだ2人の軍人だけが写っている。時計台の立っている場所は学校のグラウンドほどの広さがあるが、櫓の立っている写真の場所はそこまでの広さがあるようには見えない。
「防空監視哨って、あの時計台じゃないの?」「写真が載ってないから、わからないけれど空を監視してるだけならあんなに大きな建物は必要ないんじゃないの?」確かに時計台は小さな教会くらいの大きさがある。学校に似ているような、何か集会所のような、駅舎のような建物だが、そのどれでもない形をしている。地図と市史で調べてみたが、よくわからないという結果になって私も少し気味が悪くなってきた。どうしてあのわけのわからない建物をこの街の人間はいつまでも残しておくのだろう。
「あの」いきなり後ろから肩をたたかれた私と友人とが振り向くと、眼鏡をかけておでこを出した女子が私たちを見下ろしていた。私たちが応ずる言葉を見つけかねているとその女子のほうから口を開いた。「ここではあまりお話ししないようにお願いします」私たちは平謝りに閲覧した図書を返却して、図書室を出た。とにかく行ってみなければならないだろうということになった。
16時30分に放課になって、友人と私は廊下で落ち合った。夏になりかけたころのことで、夜までの猶予は多少あったが、それでももう日は大きく傾いて黄色がかっていたから、私たちは道を急ぐことにした。駅のある街の中心部へ向かうほとんどの生徒と逆方向に私たちは歩き出した。
この地方に多い絵入りの看板のかかった木工工芸品の工房とか小規模な豆腐や醤油の食品加工工場を過ぎて、山に近づいてくると山の斜面に広く墓地がある林寂寺が見えてきた。この辺りにはお墓参りで来たことがある。ここからさらに奥の山のほうへ進むと、時計台があるのだ。歩いていくと、二階建ての市営団地の建物がいくつか立っている。昭和後期の、長方形の白い建築は西日をあびて骸骨のような寂しさで、なんとなくそれ自体特殊な形態の墓碑に連想された。
私と友人とは、夕方の坂を上った。舗装された道路が途切れ、高い樹木が両側から迫る林の中の道へ入った。二人は汗をかきながら無言で歩いた。私は、姉も死ぬ前にこの道を歩いただろうかと考えていた。
林の中の道を数度曲がって、少し不安になってきたころに、突如野球のグラウンドほどの広さの空き地が登場した。山の中にあるこれほどの平らな空き地は少しばかり酔狂な光景だった。初夏の植物の勢いでまばらに腰の高さほどの草が伸びていた。
そしてその左手奥に時計台があった。洋館風な二階建ての建物で古そうな木造であったが、全体に塗られた白は写真のように鮮明だった。頂点の大きな時計は街のほうを向いていた。この街はあの時計盤に絶えず凝視されていて、だからあの時計版はこの街のほとんどどこからでも見て時間を確認することができる。
その時、突如友人と私とを鐘の大音量が打った。私たちは身体を固くして同時に時計台を見た。時計台は五時零分を指して、間延びする轟音を街の隅々まで浸透させた。私はこの古びた脆弱げな建物が恐ろしくてたまらなくなり、次の瞬間には憎らしくてたまらなくなった。
私は友人のほうを見た。友人は下を向いて座り込んでいた。この時計が、姉を殺したのじゃないか。
この時計が、鐘を打って、自分の時間を見せつけ続けていたのじゃないか。姉はこの街に殺されたんだ、この時計に殺されたんだ。姉は懸命に生きようとしていたのだ、この街で一番、いやこの世の中で一番懸命に生きようとしていた。だからこの時計に殺されたのだ!
私は時計台へ向かって走った、時計台は三回目の鐘を打っていた。私は恐ろしい音のほうへ走った。私は恐ろしかった。正面にひとつある入り口はガラス張りの両開きで一見して鍵がかかっていなかった。私は走った勢いでそこから転がり込むようにして時計台の中へ這入りこんだ。
すぐ目の前に階段があった。左右に部屋が一部屋づつあり、どちらもちょうど学校の教室の半分程度の広さだった。どちらの部屋も西日の直射の陰になって薄暗かった。時計台の内部はほぼ完全なシンメトリー(左右対称)であった。私は階段を駆けあがった。時計本体を目指していたのだ。
階段を駆け上がるたびに鐘の轟音は一層巨大に、明澄になった。音は建物内部で増幅して外部へ発散しているらしく、時計へ近づくにつれ音の反響が取り除かれ、鐘そのものの音色が澄んでいくようだった。
二階から上へ行く階段を駆け上がると、どうやら時計本体に行き着いたらしく、そこは六畳一間ほどの空間であった。見上げると黒ずんだ金色の巨大なベルが強烈な夕日に輝いて揺れていた。
時計そのものは完全な機械式であり、重りが昇ったり下がったり、巨大な歯車がぎちぎちとかみ合いながら夕方の闇の中でそれぞれの速度を維持してゆっくり廻っていた。それは美しく、古く、恐ろしかった。次第に小さく間延びし始めた轟音の中で私は泣いていて、泣いている自分が恐ろしかった。私は姉を発見したのだ。
私はそこで木とパイプの簡易的な椅子を発見した。それをもって、私は駆動する機構部分の破壊を試みた。椅子は二度振り下ろされて、いくつかの歯車が落下した。上下する重りを引きちぎった、時計は細部の機構を失って針を直接動かす大きな歯車だけがゆっくりと動き続けていた。
しかし鐘が、振れ幅の小さくなりかけていた鐘が、また激しく振れだした、その音は今度は際限なく大きくなるようだった。時計の怒りが増幅するように轟音は増幅した。そして私は絶叫してそこを飛び出してもと来た階段を駆け下りたのである。
思い出すことと、思い描くことの混同は、過去と未来の混同であるようなのです。ところで我々は、思い描いたことについてを思い出すことがあります。そしてそれは、我々の道徳です。