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 アリスの瞳に宿った虹色が、スゥッと消えていく。灰白色に戻った虹彩を、ファリーンとダイアナは言葉も無く見つめていた。

 呼吸を整えると、アリスは床にへたり込んでいるダイアナをじっと見下ろした。


「……体は大丈夫ですか?」


「は、はい!」


 ダイアナはこくこくと頷き、立ち上がろうとする。足元がおぼつかないようだったので、ファリーンは肩を貸した。吃驚びっくりしすぎたせいか、それとも千里眼が発動した事で何かの影響があったのだろうか。いつの間にか、彼女の発作は収まっていた。


「念のため、横になった方が良いでしょう」


「でも、猊下の御前でそのような──」


 ダイアナは言葉を切った。慌ただしい足音が、真っ直ぐこちらに向かってくる。


「──無事か、ダイアナ!」


 けたたましい音を立てて扉が開き、肩で息をした男が部屋に飛び込んだ。濃灰色の髪はやや乱れ、額には汗が浮かんでいる。


「お父様!」


 部屋の中の状況がすぐに理解できなかったのか、彼は目を見開いた。床には手足を縛られたサンドラが転がされていて、娘の傍には数日前に偶然監獄島で顔を合わせた少女──ファリーンが、使用人の服を着て立っているのだから、混乱するのも無理は無い。


「レイモンド・コーネルですね」


 凛とした声が室内の空気を変えた。

 アリスと目が合って、レイモンドは思わず後退りする。千里眼を発動した余韻か、アリスは威圧感にも似た空気を纏っている。尋常ではないと、レイモンドは直感した。畏怖すら覚え、呑まれかけたが、娘を前にして父親は奮い立った。


「──ダイアナから離れろ!」


 レイモンドは床に手をつく。そこから氷柱が伸び、先端がアリスを狙った。


「やめて、お父様! 猊下に乱暴しないで!」


 ダイアナは悲鳴混じりに叫んだ。氷柱はアリスの僅か拳一個手前で動きを止める。


「猊下、だと……?」


 氷柱が音を立てて砕け、霧散する。


「では、先程の得体の知れない”視線”は……」


「私の千里眼です」


「信じられない……何故、このような場所に……」


 訳がわからないとばかりに、レイモンドは頭を押さえた。


「あなたを止めにきました。……もう終わりにしなさい、コーネル卿」


 憐れむような目をするアリスを見て、ファリーンは戸惑った。


「アリス様……この男のせいで、壊れてしまった家族があるんです」


 ダイアナが聞いている。分かっていたが、ファリーンは言わずにいられなかった。


「確かに買った方も悪い。使ってしまった人も罪人だわ。でも、売る人間さえいなければ道を踏み外さずに済んだんです! 何をご覧になったのか知りませんが、お金のために、人を壊す毒と分かってオウナを売った人間を、憐れむのですか!?」


「……あなたは、まだまだ”お嬢ちゃん”ですね」


 アリスはくすりと笑うと、ファリーンの目を見て、静かに問う。


「あなたが言う事も、勿論正しいですよ。でもその人達は本当に、オウナさえ無ければ、真っ当に生きられたんでしょうか?」


「え?」


「オウナ以外にも、現実から逃げる術はいくらでもあります。お酒や、艶事つやごと、賭事に、浪費、暴力と……挙げればキリがありませんね。彼らはオウナが無ければ、別の事に逃げたでしょう」


 ファリーンは反論できなかった。でも、と喉から出かかって、しかし続く言葉が見つからないので、押し黙る。


「逃げ出したくなるほど現実が辛い時、彼らに差し伸べる手が無い現状こそが、本当の問題なのです。このウィスタリアと、三院が──いえ、私が、これから先どうにかしなくてはならない課題でもあります」


 そう言って、アリスは呆然と突っ立っているレイモンドに目を移す。


「……彼もまた、助けが必要な民の一人でした」


 猊下、とレイモンドは掠れた声で呟く。


「この男は、ただ、娘の命を長引かせたいだけだったんですよ。それにはお金が必要だった。彼にとっては、それだけの事だったんです」


 ファリーンの服を握りしめる手があった。……ダイアナだ。彼女は真っ青な顔で、レイモンドを見つめる。


「……もしも、この親子に差し伸べる手があったなら、ここまで事態が拗れる事は無かったでしょう。ダイアナの医療費さえあれば、この男は善良な父親でいられたんですから」


 レイモンドはそれ以上立っていられなかった。

 膝をつき、叩頭すると、小さく肩を震わせる。


「奥さんに、また、『泣き虫ね』って言われてしまいますよ」

 彼はとうとう、嗚咽を漏らした。




「──では、アリス様はこの男を許すおつもりなのですか」


 自分でも驚くほど、冷たい声だった。

 事情がある事は分かった。けれど、この男がした事を、自分だけは呑み込んではいけない気がして、ファリーンはレイモンドを睨む。

 前世の自分やベティのような子供が、他にもいる筈だ。それを思うと、目の前で男が涙する姿を見ても、到底許す気になれなかった。


「許しませんよ」


 あんまり、あっさりと言われてしまったので、ファリーンは毒気を抜かれた。


「へ……?」


「当たり前です。この国が酷い状況に陥ると分かって、それでもこの男はオウナを売ったんですから。絶対に許すべきではありません。脱獄した分、禁錮年数も増やします」


「そんな、お父様……わたしのせいで……」


 ダイアナは力無くへたり込んだ。レイモンドは頭を上げ、悄然と項垂れる娘を苦しげに見て、歯噛みする。


「……ダイアナは……娘は、どうなりますか?」


「彼女については、悪い様にはしませんから安心してください。お金に困って必要な治療が受けられない人がこの国にいるなんて、見過ごすわけにはいきません。それに、彼女が投与されている鎮痛剤にも、非常に興味がありますし」


「鎮痛剤ですか?」


 ファリーンはダイアナを見下ろした。……確かに、先程の彼女の苦しみようは普通では無かった。あれでは、鎮痛剤が無ければ辛いだろう。


「コーネル卿は、オウナを利用した鎮痛剤を密かに作らせていたようです。きちんと国で管理ができるように、先代が敷いた法令も、早急な見直しが必要ですね」


 どこかげんなりした様子のアリスを見て、ファリーンは目をパチクリさせた。


「……そんな目をしないでください。やることが多すぎて、やる前から疲れてるんです」


「大変なんですね、聖女様って」


「代わってくれますか?」


 ファリーンは笑って首を振った。


「謹んでお断り致します」


 くすくすと笑い合う二人を見て、父娘はぽかんとそれを見上げた。




「──いた、ファリーン・アーチボルト!」


 バーニィだった。ファリーンがいつまでたっても戻らないので、探しに来たらしい。

 彼は息せき切った様子で部屋に入ろうとしたが、レイモンドと同じく部屋の状況に混乱し、入り口でビタリと足を止めた。


「これは……いったい、何が──猊下、何故この様な所に!?」


「細かい事は後です。何かあったのでしょう? 速やかに話しなさい」


「ですが」


 バーニィは目の前で座り込んでいるレイモンドを横目で見る。目の前に脱獄犯がいるのだから、先に確保すべきではないかと悩んでいるようだった。


「いいから、早く言いなさい」


「かしこまりまして。……お前、邪魔」


 レイモンドを押し退けて跪くと、バーニィはアリスに事のあらましを説明した。

 父親を怪しんだライオネルが実家へ向かったので、自分たちはそれを支援する為、黒い流氷の潜伏先を調査しようとした事。その矢先にウォルターと出会い、彼がグラント卿直々に新しい部署に誘われたと話し、地図で指示された場所がこの屋敷だった事──


「──ウォルター特務武官が、どこかに連れて行かれてしまいました」


「どこかって、どこですか?」


「分かりません。彼の事よりも、分断されてしまったファリーン・アーチボルトの捜索を優先しましたので……」


「……まさか」


 今まで黙っていたレイモンドが、ハッとして声を上げた。


「猊下の御前で、罪人が勝手に口を開くな」


 バーニィは底冷えのする目で、レイモンドを威嚇する。

 レイモンドは姿勢を正し、伺いを立てる様にアリスを見る。彼女は促すように頷いた。


「……昨日ギデオンが、彼の実験に新しい被験者が入ると申しておりました。前の被験者が実験で潰れてしまったが、具合の良い人材が見つかったと。恐らく、ウォルター特務武官とやらは、ギデオンの新しい実験台でしょう。彼の身が危険です」


「実験? あなたの鎮痛剤の実験とは別物ですか?」


「はい。詳しくは実験室への道すがらお教えいたします。その……」


 レイモンドはちらりと娘を見る。


「勝手なことを申し上げますが、娘には聞かせたくない内容でございまして」


 何やら、あまり気分の良い話では無いらしい。


「今から実験が行われるなら、グラント卿もこの屋敷にいる、という事ですか」


 ファリーンはバーニィと顔を見合わせる。

 昨夜ライオネルはグラント卿のもとへ行って、そのまま帰って来なかった。

 彼は父親を止めに行ったはずだ。それなのに──


「ライオネル様は、どうなってしまったのでしょう? まさか、何かあったんじゃ……」


 悪いことばかり頭をよぎって、手の先が凍る様に冷たい。

 ファリーンが両手を握り合わせていると、励ますように、アリスの手が重なった。


「実験室に向かいましょう。あれこれ想像していても、時間が過ぎるだけですから」


 ファリーンが頷くと、アリスはレイモンドの方を向く。


「──大至急、その実験室に案内してください」


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