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──ファリーンが投獄されて、半年が経った頃の事だ。
その日は、朝から霧が濃い日だった。
運動の時間になったので、特務武官の監視の下、中央広場へ向かう。
今日の監視を担当する特務武官は、ウォルター・ケンドリックという名の青年だ。居丈高で、時々ねちっこい嫌がらせをしてくる彼の事が、ファリーンは嫌いだった。
うねった長い髪が海藻に似ているので、こっそりワカメ武官と呼んでいる。
広場はファリーンの背の倍はある高い石壁に囲われており、広場の中は外から見る事はできない。出入り口も、門が一つあるだけだった。この門は一度閉じると、自動的に鍵がかかる仕組みだ。ここに限らず、監獄島にある門は全て同じ仕組みになっている。
ファリーンが門の前に立つと、ウォルターが胸に下げた鍵を使って門を開く。
──そこには、先客がいた。
煤のような薄黒い灰色の髪と青緑の瞳の、整った顔をしている男だった。歳は三十代後半、といったところか。狐のように釣り上がった目は、なんとなく冷淡な印象を受ける。首には白いチョーカーがつけられていて、その周りに、引っ掻いたような赤い痕が無数にあった。
ファリーンは彼の目を見ると、思わず手で鼻を覆った。
腐り落ちた果実のような匂いと、甘い花の匂いが混ざり合った、筆舌に尽くし難い匂いが、男からするのだ。
(これは”秘密”の匂いだわ)
あまりの腐臭に、ずくんと頭が痛む程の匂いだった。
鳥肌が立ち、ファリーンは思わず後退りする。
「おい、今は囚人番号一九二五の運動時間だぞ! 何をグズグズしている!?」
ウォルターが、囚人の男と彼に同行している特務武官を睨みつけた。ちなみに、囚人番号一九二五とは、ファリーンの事だ。
「すまない、俺の時計が狂っていたようだ。囚人番号一八六七番、行くぞ」
囚人は黙ってファリーンを見つめていたが、「早くしろ」と急かされて、ようやく広場から出て行った。
男達の姿が見えなくなってから、ファリーンの身体中からドッと汗が吹き出した。
「彼は一体、誰なの?」
ファリーンはウォルターに尋ねた。
彼は少しぺっとりとした海藻のような髪を払うと、嘲るように鼻で笑う。
「囚人に教えられるはずがないだろう?」
ウォルターの人を小馬鹿にしたような態度に、ファリーンは顔を引き攣らせる。
(なんて腹が立つワカメなのかしら!)
「……まぁ、そうでしょうね。でも、監視を強化した方がよろしいんじゃないかしら。あの男、相当にひどい匂いがしたわよ。何か企んでいるに違いないわ」
彼は怪訝そうに眉を寄せたが、ぶっきらぼうに「受刑者が気にする事では無い」と言い放った。……どうやら真面目に取り合うつもりはないらしい。
せっかく司法院の花形になれたというのに、こんな寒々しい廃墟の様な監獄島の看守役に配属されてしまったのでは、やる気も起きないということだろうか?……それとも。
一抹の不安を覚えたファリーンは「まさか」と、ウォルターを見上げた。
「私の能力を知らないなんて事は……無いでしょうね?」
「殺傷力が無く、人を害する類の能力ではないという事は把握している。ならば、貴様の能力の細かい力など些事だ。覚える必要がどこにある」
呆れてものが言えなくなったファリーンは、天を仰いで目を閉じた。
(──なるほど。この武官様は左遷されて、監獄島にいるのね)
「私は伝えたわよ」
ファリーンはこれ以上この阿呆と話をすることが不毛に思えて、早々に話を切り上げる。彼よりも話の分かる誰かに、この事を伝えなければならない。
焦燥感が膨れ上がり、ファリーンは爪を噛んだ。
(でも、偽聖女の話をまともに聞いてくれる人なんているかしら……)
ファリーンは、自分の話を聞いてくれそうな人が思いつかなかった。家族は処刑された両親だけだった。兄弟はおらず、親族には縁を切られてしまっていることだろう。
「ライオネル・グラント……」
ふとファリーンは、法廷で自分の目を真っ直ぐに見た、静かな蒼い瞳を思い出す。
何故かは分からなかったが、彼からは嘲も侮蔑も感じなかった。
「彼なら、耳を傾けてくれるかしら」
幸い、囚人にも手紙を書く自由は認められている。もちろん中身は検閲されるのだが、無事に検閲を通り抜ければ鳩便を使って今日の内か、遅くとも翌日の朝には届けてもらえることになっている。
独房に戻されたファリーンは、質素な便箋にペンを走らせた。昼食の時間までに看守に渡せば、鳩便を使って今日中に届けてもらえるだろう。
ライオネル・グラント様
前略
早速本題で恐縮ですが、本日、監獄島に収監されている囚人と、偶然鉢合わせしてしまいました。名前は教えてもらえなかったので知りませんが、ウォルターという名の武官に聞けば、どの囚人かは、すぐに分かるかと存じます。
こんな警備体制で大丈夫ですか──という苦言は置いておいて、どうやらその者が、何か”秘密”を抱えているようです。
あまりに酷い腐臭だったので、相当危険な”秘密”に間違いないでしょう。放っておけば、何か悪いことが起きる気がしてなりません。
私が持つ”秘密を嗅ぎ取る”能力をよくご存知の貴方であれば、きっと早急に調査していただけるものと信じております。
草々
ファリーン・アーチボルト
ファリーンはペンを置くと、看守を呼び、書き上げた手紙を託した。
受け取った封筒の宛名に書かれた名前を確認すると、看守は片眉を上げて、しげしげとファリーンを見た。……どうやら、自分を逮捕した相手に手紙を書くような囚人は奇特な存在らしい。
「申し訳ないけれど、急ぎで届けていただけます?」
「はぁ、善処します」
看守は気のない返事をして、気怠げに立ち去っていく。不安が込み上げてくるものの、獄中の身の上なので、他にどうすることもできない。
「大いなる天空神よ。どうかせめて、騒動に巻き込まれることがありませんように」
ファリーンは手を合わせて天空の守護神に祈りを捧げたが──悲しいかな、その祈りは無駄になってしまった。