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「君の……さっきの振る舞いは、どこで覚えたんだ?」
ライオネルはニックを縛り上げると、空樽に腰掛けるファリーンを見下ろし、半目で睨んだ。
「……本で読んだの。天性の演技力よ」
実際は前世の記憶を頼りにした。キャシーの仲間に、エスコート嬢をしていた年上のお姉さんがいて、暇つぶしにと、手解きされたのだ。
「本当か?」
「そうよ。我ながら、なかなか良い演技だったわ。ドキドキしたでしょう?」
ファリーンは得意げに胸を反らす。
ライオネルはフイ、と顔を背けると、上着を脱ぎ、それをファリーンに頭から被せた。
「なによ! 何も見えないじゃない!」
上着にすっぽり覆われて、ファリーンはくぐもった声で抗議する。
「着てなさい」
「どうしてよ?」
上着から顔を出すと、ライオネルはそっぽを向いていた。
「それは……その、風邪をひくと、いけないだろう」
ファリーンは釈然としない顔をして、毛織物の上着に目を落とす。
「別に、寒くないのだけど……」
そう言いながら、結局上着を突き返せないでいる。ライオネルの香りがして、なんとなく手放し難かった。「早く着なさい」と促され、ファリーンはおずおずと袖を通す。
(まだ体温が残っていて温かいし、香りのせいで包まれているような気がするしで、どうにも落ち着かないわね)
「……それで? 良い方法って何です?」
呆れた風な声が耳に入って、ファリーンは顔を上げる。
バーニィは地面に転がされているニックを爪先でつついた。
「匂いを嗅ぐだけじゃないって事っスか?」
「いいえ、匂いを嗅ぐだけよ」
ライオネルとバーニィは二人揃って首を傾げる。
ファリーンは立ち上がると、ニックの脇を支えて立たせた。
「な、何をするつもりだ」
「あなたに道案内してもらうの」
ニックはファリーンを凝視する。その濁った目を真っ直ぐに見つめ返して、ファリーンは尋ねた。
「コーネル卿の居場所はあっち?」
ファリーンは通りの片方を指さす。
ニックはぽかんとして指の先の方角とファリーンを見比べると、込み上げてきた笑いを堪えようともせず、ケタケタ笑った。
「何言ってんだ、この嬢ちゃん!」
「じゃぁ、こっちかしら?」
ファリーンはもう片方の道を指す。
ニックはヒィヒィ喉を引き攣らせ、笑い続ける。馬鹿にしきった顔で「さぁな?」と言った彼を見て、ファリーンは唇に弧を描いた。
「こっちですって」
「よし、行こう」
「なるほど、そういう使い方もアリなんスね!」
ニックは唖然として、正しい方向へ足を進めるファリーン達に引き摺られていく。
何が起こっているのか、全く、これっぽっちも、彼は分かっていなかったが、自分に逃れる術が無いことだけは、理解できた。
こうして、別れ道に出る度にニックに道を聞き、時に小船で水路を渡り、四人は迷う事なく進んでいく。ニックは苦し紛れに嘘の情報を混ぜようとしたが、ファリーンの前では無意味だ。何をどう言おうと正しい道を選ぶファリーンに、ニックは戦慄した。
そしてとうとう、ニックの足が止まる。
「か、勘弁してくれよ……」
運河を挟んだ向かい側に、背の高い石造りの塀に囲まれた、大きな屋敷がある。塀の上からトネリコの枝葉や木蓮の白い花がはみ出しており、屋敷を人の目から隠している。門の前には厳つい男が二人、手持ち無沙汰に突っ立っていた。
武官二人に両脇を抱えられながら、ニックは放心した。
貴族街の外れに建つ、この屋敷こそ──黒い流氷の潜伏先だ。
「よくやったな」
ライオネルはファリーンの肩を叩く。と、ファリーンの鼻から赤いものが垂れた。
「鼻血出たっスよ」
「──あら、本当ね」
ファリーンはなんと言う事はない顔で、指の腹で鼻の下を拭うが、ライオネルは顔を真っ青にして硬直した。
「つ、強く叩きすぎたか?」
「違うわよ! 大丈夫。ちょっと能力を使いすぎただけ」
何度も立て続けに能力を使いすぎると、体に負荷がかかるものだ。能力が弱い者はそこまで影響が無いが、ファリーンのような珍しい能力を持つ者や強い力を持つ能力者ほど、それが顕著だった。
(ハイリスク・ハイリターンという事かしらね)
「……本当に大丈夫なのか?」
心配そうな顔をして、ライオネルはハンカチを差し出す。
ファリーンは頷きながら受け取って、手や顔の血を拭う。どうせ後で洗濯するのは自分なので、汚れたハンカチはライオネルに返した。ドレスにポケットなど無いのである。
「大丈夫って言ってるでしょう? それより、少し離れた方がいいんじゃないかしら?」
ここは屋敷からも近い。あまり長居していると怪しまれそうだった。
ライオネルはバーニィに目配せすると、二人でニックを引き摺って後退する。屋敷から十分な距離を取ると、ライオネルはニックが騒がないよう、口に布を突っ込んだ。
「バーニィ、双眼鏡はあるか? 俺の分は制服に入れたまま、置いてきてしまったから」
「ハイ、ありますよ」
バーニィから小さな双眼鏡を受け取ると、ライオネルは屋敷を見張り始めた。
「あ、ずるいわ! 私も見たい!」
「こら、静かにしなさい。騒ぐとまた鼻血が出るぞ」
ファリーンは何度か「見せて」「変わって」とせがんだが、一向に相手にしてもらえなかった。ついに諦めて、肉眼で見る事にする。
「あの屋敷、誰の物なのかしら。あなた……ニック、だったわね? 知ってる?」
ニックは口に布を詰められたまま、大きく首を横に振った。嘘の匂いは、しない。
「本当に知らないみたいだわ」
「そうか……。執政院に問い合わせれば名義を確認できるだろうが、それにはまず、司法官から令札を出してもらわなければならないな」
「令札って?」
「令札は強制命令の権限を武官に与える札の事っスね。これがないと、執政官は情報を開示してくれないですし、誰かを捕まえたり、人の敷地内に踏み込む事も許されません。ま、緊急時とか、現行犯とか、犯人と断定する根拠がある時とかは別ですけどね」
(令状みたいなものかしら?)
ファリーンは前世で見た刑事ドラマを思い出す。この世界でも、手順というものが大事なようだ。ただ悪い輩を捕まえれば良い、というわけでは無いらしい。
「なんだか、まどろっこしいわね」
「市民の私生活を脅かさないために、必要な事だ」
「令札さえあれば、逆らった奴は執行妨害で逮捕できますしね。令札があった方が、武官にとっても都合が良いんスよ」
なるほど、とファリーンは納得した。
「すんなり令札を出してもらえれば良いがな……」
双眼鏡を覗いたまま、ライオネルは渋い顔をする。
「どうして? 聖女様も気にされている凶悪な事件の、重大な手がかりなのよ?」
「汚職武官がいるとなると、上の連中は慎重に対応したがるっスからね。それに、貴族街の屋敷を調べるとなると、当然相手は貴族ですし。何がどう自分と関わっているのか、保身のために色々と調べてからじゃないと、どの司法官も令札は出さないと思いますよ」
「そんな……」
司法院の官吏は正義のために働いている人間ばかりではないと、ファリーンも分かってはいるのだが、野心高い大人の世界は、聞いているだけで虫唾が走る。地位にしがみつくだけの仕事なんて、何が楽しいのだろう?
(馬鹿みたい)
ファリーンは我欲の果てに処刑された両親を思い出して、胸に鉛が詰まったような気分になった。
「──あ、船が近づいてきてますね」
不意に上がったバーニィの声に、緊張が走る。運河の方に目を凝らすと、確かに、街灯の灯りに渡し船の装飾がきらりと反射した。
「本当だわ!」
「肉眼でよく見えたな」
「班長よりは目が良いっスからね」
ライオネルに肘で小突かれて、バーニィは「イテッ」と小さく呻く。
「どうにも、暗すぎるな。乗っている人物までは見えない。船から降りてきて、街灯の下に来るのを待とう」
ファリーン達は息を潜めて、屋敷に近づく船を監視する。やがて船着場に停まると、灯りの下に人影が現れた。使用人の服を着た、男が一人と、女が二人だ。彼らは船から荷を下ろすと、それを抱えて屋敷の方へ歩いていく。門番の男達は彼らと面識があるようで、軽く会釈をすると、そのまま門を開けて中へ通した。
「暗くてよく見えないけど、この屋敷の使用人かしら?」
「いや……違う……」
否定したライオネルの声が震えているように聞こえて、ファリーンは彼の顔を見上げた。双眼鏡を持つ手が、微かに震えている。
「どうしたの?」
ライオネルは答えない。双眼鏡が軋んだ音を立てたかと思うと、レンズが砕けた。
「うわっ! 班長、怪我無いっスか!?」
「……ああ、すまない。替わりに、後で俺のものを……渡そう」
無惨にひしゃげた、手の中の双眼鏡を呆然と見つめながら、ライオネルはうわごとのように言った。破片で手を切ってしまうかもしれないのに、ライオネルは残骸を両手で握りしめ、体を屈めて額に押し付ける。
「なぜ、こんな……馬鹿な……ッ!」
絞り出すような声に、ファリーンは堪らず、ライオネルの背に触れる。顔を上げた彼は、途方に暮れたように──ファリーンの目を、見た。
「何が、見えたの?」
ぶわりと、ライオネルから匂いが広がる。男物の香水の匂いだ。ライオネルの素朴な優しい匂いとは真逆の、ピリリとした香りの中に深みのある甘い香りが混ざった、濃厚な色気のある匂いだった。
「……何に気づいたの?」
ライオネルはファリーンを苦しげに見つめ、手のひらの上の双眼鏡に目を落とす。奥歯を噛み締め、彼はそれを、ポケットに押し込んだ。
「君が知る必要は、無い」
「え?」
「君を事件から外す」
何を言われたのか、ファリーンは一瞬、理解できなかった。一拍遅れて頭が追いついて、顔を上げたライオネルにファリーンは掴みかかる。
「ふざけたこと言わないで! ここまで付き合わせておいて、何を言って──」
自分を見下ろすライオネルの目を見て、ファリーンは言葉が詰まってしまった。
怒りと決意と、悲壮感がせめぎあい、波立ち、どのような言葉も、この嵐の海のような瞳の前では、何の意味もなさないように思えてしまった。
──それでも。
ファリーンはライオネルの襟元を掴んだ手を震わせながら、その目を睨みつける。
この事件と最後まで戦い抜きたかった。
ベティのような──前世の自分のような──子供を、これ以上増やさないためにも、ファリーンは黒い流氷を叩き潰さなければならない。どうしても、自分の手でコーネル卿に引導を渡してやりたかった。
(それに、こんな目をしたライオネル様を放っておくことなんて、できないわ)
「私、認めないから」
「君がどう思おうと、関係ない。……頼むから、大人しく屋敷で待っていてくれ」
「嫌よ」
「ファリーン君……!」
苦悶に顔を歪め、ライオネルはファリーンの名を呼ぶ。
だが、ここで食い下がるわけにはいかない。今ここで頷いてはいけないような、そんな気がして、ファリーンはライオネルの襟を掴んだ手に、力を込める。
「絶対に、何がなんでも、引かな──ッ!?」
左手首から──いや、手錠から、電流が走った。痛みは無く、衝撃だけが脳を揺らす。
何が起こったのか考える間も無く──ファリーンの目の前が、真っ白になった。