13【Side:A】
「──今回の報告は以上です、聖女猊下。明日の夜、容疑者の娘から得た情報を元に、黒い流氷の売人を釣り上げる作戦を予定しています。上手くいけば、また新たな情報をご報告できるかと」
跪いた少年──ラビットは、アリスに向かって首を垂れた。アリスは真っ白なカウチに背中を預けながら、彼を一瞥する。
「ご苦労様です、ラビット」
重々しいため息をつくと、アリスは体を起こし、こめかみを指の腹でほぐす。ずん、と頭が重くなるような状況だった。
「……まさか、オウナが関わってくるとは。原因が特定できた事を喜ぶべきなんでしょうけど……」
麻薬は疫病と同じだ。あっという間に広まり、実態を把握し切ることが難しい。二年以上も前から蔓延っていたなら、尚更厳しい状況になっているだろう。
厄介な、とアリスは心の中で毒づいた。
「私達が考えている以上に、オウナはこの街に広がっているはずです。一刻も早く蔓延を食止めるためにも、明日の作戦、失敗は許されませんよ」
「心得ております」
「よろしい。……それにしても、傍迷惑な花があったものですね」
アリスが知る別の世界にも、似たような効果を持つ植物やキノコが存在していたが、こちらではオウナがそれに当たるようだ。
(この世界には、こういった類の植物はあまり例が無いようだし、仕方がないのかもしれないが……ソニア様は詰めが甘すぎたな)
前任の聖女が碌に研究させず持ち込みや所持を禁じたせいで、オウナは研究が進んでいない。辛うじて、初期の研究報告が資料として残されているだけだった。これでは、どのような対策を取るべきか分からず、手探りで対処するしかない。とりあえず国から排除すれば良い、というのは安直すぎるだろう、とアリスは頭を抱えたい気分だった。
(せめて押収した分だけでも残して、研究者に徹底的に調べさせて欲しかった。処分するなら、その後でも遅くはなかっただろうに)
「It sucks.」
アリスは前髪を掻き上げて、溜息を吐く。と、顔を上げたラビットと目が合った。誤魔化すように笑ってみせるが、彼の顔色に変化は無い。相変わらずの無表情だった。
「……そういえば、院長先生はお元気でしたか?」
「はい。猊下を懐かしんでおられました。預けた少女の事も、安心して任せて欲しいと」
「そうでしたか……後でお礼の品を送らないといけませんね」
「こちらで手配しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。別の人に任せれば、すぐに見破られてしまいますから」
マーゴットは何でも見通しているような人だった。アリスは昔から、彼女には頭が上がらない。アリスは幼い頃から年齢不相応の落ち着きを見せていたが、彼女は気味悪く思う事も無く、大らかに受け入れてくれていた。
( ……あの人の方が、よっぽど聖女らしい)
「猊下?」
「なんでもありません。それより、今後の事を話しましよう」
ラビットは姿勢を正す。命令を待ち、淡藤色の瞳が光る。
「あなたには、今後オウナの事件が解決するまでファリーンさんに張り付き、彼女を護衛する任についてもらいます。元々、あなたはライオネルさんの班に潜り込んでいましたし、任務の内容はあまり変わらないのですが……今後は情報収集より、ファリーンさんを守る事を最優先にしてください」
ラビットは困惑し、眉を寄せる。
「何故ですか? 彼女の傍にはライオネル・グラントがいます。彼が保護しているのであれば、護衛など必要無いのでは?」
「事情が変わりました。今のファリーンさんは、ふとした事で冷静さを失いかねません。ライオネルさんの手に余るでしょうから。別のお目付役が必要なんです」
(”麻薬”が絡んでしまった今、あの坊やには、お嬢ちゃんの手綱を取り切ることは難しいだろう)
彼女の前世──キャシーの身の上を考えると、念を入れるに越した事は無い。
「ファリーン・アーチボルトを事件から外せば良いのでは?」
「そうしたところで、彼女はきっと、一人で勝手に調べますよ。そういう子なんです」
ラビットは、呆れたような顔をして、小さく溜息を吐く。彼が表情を崩すなんて、珍しい事だった。
(あのお嬢ちゃんと接触した影響だろうか?)
アリスは眉を上げ、ニヤリと口の端を上げる。
「ファリーンさんとは、お友達になれそうですか?」
「友達など、必要ありません」
ラビットは間髪入れずにそう言って、眉を寄せる。それすらも、彼にとっては良い兆候だ。アリスは必死に笑いを噛み殺しながら、うんうんと頷く。
「多少は打ち解けられたなら、良かったです。彼女は私に必要な人ですから、しっかり守ってくださいね」
こんなところで、ファリーン・アーチボルトを死なせるわけにはいかない。後ろ盾の無いアリスが、今後聖女としてウィスタリアの三院を──まぁまぁ腐っている政界を──掃除していくには、彼女の能力が必要だ。アリスはそのために、多少強引な方法を取ってでも”保護観察計画”を推し進めてきたのだ。
(それに、二度もあのお嬢ちゃんを死なせるのも、寝覚めが悪いしな)
「御意」
ラビットは深く頭を下げ、立ち上がる。アリスに背を向けると、彼はテラスの柵から飛び降り──そのまま消えた。
「……あんな誓いさえ立てなけりゃ、もう少し楽な人生があったはずなんだがなぁ」
アリスは一人きりのバルコニーで、ため息混じりに呟いた。カウチに寝転がると、瞬く星を睨みつける。
(面倒だが、やるしかない)
アリスは天命の下、聖女としてこの国を正しく導かなければならない。しかし、その運命が定まったのは、彼女が生まれる前のこと、もっと言えば、別の世界での事だった──
──正義を貫く。それが、とある殺し屋──ジェレミア・モランの信条だった。
信条が無いヒットマンは、単なる武器と何も変わらない。人のままでいたいなら、自分が掲げた信条を、絶対に違えるな。それが殺し屋の一番大事なルールだと、ジェレミアは殺し屋の修行を始めた十歳の時、師匠──父から、教わった。
「お前は何を信条にする、ジェレミア?」
ジェレミアは特にこだわりも無かったので、父と同じ信条を掲げる事にした。
(一から考えるのは、面倒くさいし)
さすがは父親と言うべきか。ジェレミアの考えはすぐにバレてしまって、彼はしこたま怒られた。結局、他に思いつかなかったので、信条はそのままになってしまったのだが。
「──セイギを貫くと、神に誓いまぁす」
十八歳になった日の朝、独り立ちの儀式として、ジェレミアは神に誓いを立てた。
あんまり酷い棒読みだったので、父親はすっかり呆れてしまい、家を出る時、見送りに来なかった。以来、ジェレミアは父と会っていない。
けれど、心のどこかに父親の言葉が焼き付いていたのだろう。ジェレミアは裏社会に身を浸す、碌でも無い連中を狙う仕事だけを選び続けた。危険な連中ばかりだったので、命を狙われることもあったが、なんとなく、信条を曲げる気にはならなかった。
いくつもIDを使い分けながら、のらりくらりと汚い世界を渡り歩く。そんな生き方を二十年続けたが──とうとう彼は、とあるギャングに捕まってしまった。よく利用していた情報屋に、売られてしまったのだ。
てっきり、数ヶ月前にそのグループの幹部を処理した事に対する復讐か、とジェレミアは思ったが、違った。それを見逃す代わりに一つ仕事を引き受けろ、という話らしい。
職業柄、自分は長生きしないだろうと、ジェレミアは覚悟できていた。しかし流石に、嬲られながら死にたくはない。仕方なく、ギャングの親玉が押し付けてきた仕事を、彼は引き受ける事にした。
──それが、キャシー・カークの殺害依頼だった。
そうして彼は少女に向かって引き金を引き、誓いを破った。……破ってしまったのに、結局ジェレミアは、生きながらえる事ができなかった。
『──誓いの不履行を確認』
ジェレミアは無数に星が瞬く世界で、その声を聞いた。氷のように冷たく無機質な声は、ジェレミアの魂を震わせ、覚醒させる。
(何だ、一体?)
『不履行識別番号2000651を消去しますか?』
消去、という言葉に、ジェレミアはあるはずのない背筋が震えるような気がした。ここで頷いてはいけないと、直感が警鐘を鳴らす。
(消去すると、どうなる?)
『対象の魂が消失します』
(待った、待った、待った!!)
『消去中断。再試行しますか?』
彼は焦っていた。自分という存在を消されると聞いて、落ち着いていられるはずがない。ここで頷かなければ、ジェレミアという存在は、文字通り塵一つ残さず抹消されるだろう。地獄にすら行く事が叶わないなんて、途方もなく恐ろしい事だった。
(分かった、コンティニューだろうが何だろうがやる。やるから、消さないでくれ!)
『誓いの再読込開始……確認。”正義を貫く”を履行可能な世界線を検索中……完了。転生先──聖国ウィスタリア』
(どこの国だそれは!?)
聞いた事がない国名にジェレミアが混乱していても、不思議な声は待ってくれない。
『魂を上書き保存します。聖女、アリス・センツベリーとして誓いを遂行しますか?』
(せ……せ、いじょ、だと!?)
ジェレミアは絶句した。何がどうひっくり返ったら殺し屋が聖女に生まれ変わるんだ、と捲し立てそうになるのを、彼はどうにか堪えた。反論すれば、即刻デリートされてしまうに決まっている。
『”正義を貫く”を完遂次第、不履行履歴を削除します。再度不履行が確認された場合、再試行はできません』
つまりは、一回こっきりのやり直しのチャンス、という事だろう。自分が聖女など馬鹿げているとしか思えなかったが、ジェレミアに選択肢は無い。
(──正義を貫くと、誓います)
『承認。記憶の継承可否を確認中……完了。ジェレミア・モランは正規の儀式を実行済み。継承可能です。最終確認……全箇所異常無し。転生開始──』
謎の声が遠ざかり、星々が尾を引いて流れ──目を開くと、彼の手は紅葉のように小さく、体が思うように動かなかった。誰かが自分を覗き込み、その瞳に映った小さな赤ん坊を見て、彼は自分が本当に別の人間として──アリス・センツベリーという名の聖女として──生まれ変わったのだと、知った。
こうしてアリスは、不承不承ではあるが、何がなんでも正義を貫かなくてはならない運命の下、生きる羽目になったのである。……なってしまったものは、仕方がない。消去を回避する為にも、アリスは自分にできる、ありとあらゆる手段を講じて、ウィスタリアを正常な状態に導かなくてはならなかった。
「──さて、久しぶりに”俺”として動くとするか」
アリスにとって、裏の世界はホームグラウンドだ。汚い連中の考える事は、手に取るように分かる。黒い流氷、ひいてはオウナに目をつける者が、必ずいるはずだ。
ラビットはファリーンの護衛に回した。アリスが信用できる手駒は、まだ少ない。であれば、自分で探った方が、色々と都合が良い。
(うまくいけば、掃除が楽になるかもしれないな)
そう思うと、自然とアリスの口元は緩むのだった。