12
子供達の笑顔を見る度、ファリーンは考えずにいられなかった。
「ほら、院長先生が『厳しい状況だった』と仰っていたじゃない? もし、私が聖女になってしまっていたら──この孤児院は何の助けもなく、資金不足で潰れてしまっていたんでしょうね。街の片隅にある小さな孤児院なんて……お父様が気にかけるはずないもの」
「……そうかもしれないな」
ライオネルの静かに肯定する声が胸に刺さる。その上を、そこかしこから聞こえてくる子供達の無邪気な笑い声や、はしゃぐ声が容赦無く踏んでいく。そんな気がして、ファリーンは唇を噛み締めた。
(私は危うく、誰かの暖かな居場所を壊してしまうところだったのね)
「……私があの時、もっと強い子だったら、『偽物の聖女になんかならないわ』って、お父様の命令を拒絶できたのかしら」
ぽつりと、無意識に呟いてしまった言葉に、ファリーンは自嘲する。……何を、今更な事を言っているのだろう。
「──それができる者はごく僅かだと、俺は思う」
しかし、ライオネルは、嗤わなかった。
「先人曰く、子供にとって、親というものは”自分を形作る世界”だそうだ。”世界”に立ち向かうには、並大抵ではない勇気と、覚悟が必要だ。……多少の狡猾さと幸運も、な」
彼はどこか苦い表情をして、遠くを睨む。
「貴族の家の子供には、尚更難しい事だ。大きな権力を持つ家に産まれた子供は、親の力を目の当たりにしながら育っている。子供一人がどう足掻いたところで何も変えられない事が分かっていて、それでも立ち向かう事は、難しい。決して、君が人より弱かったわけではない」
「そう……なのかしら」
言っている事は、理解できる。でも、だからといって、自分に都合の良い甘い言葉に縋って良いのか、と素直に受け止めることができなかった。
「──俺も、逆らえなかった」
耳を疑ってライオネルを見上げると、彼は苦笑いした。
「ここだけの話だが……俺は、初等学舎の教師になりたかったんだ」
ファリーンは何を言えば良いのか、分からなかった。
ライオネルは誉れ高い騎士だ。そんな彼に別の夢があったなんて、そしてそれを諦めてしまっただなんて、思いもよらなかった。
「アーチボルト家なら把握しているだろうが……俺は、能力が発現したためにグラント家に引き取られた庶子だ。俺の父親と本妻の間には、能力を持つ子供が産まれなかったから」
確かに彼の出自は、一部の貴族は承知している事だった。本妻の子であれば、と社交界に出ている御令嬢方に随分と惜しまれているらしい。ファリーンは来年社交界に出る予定だったので、母親が仕入れてきた噂話を話半分に聞いていただけなのだが。
(あの話、本当だったのね)
「グラント家は代々騎士を輩出する事を誉としてきた家系だから、俺には騎士を目指す以外の道が認められなかった。……それに、俺の能力は闘い向きだからな。教師になるなど宝の持ち腐れだ、何かの拍子に子供を傷つけたらどうする、と言われて、何も言い返せなかった。監獄島でも話したが、俺は実際、他の子に怪我を負わせたことがあったから」
ファリーンはライオネルに手を伸ばした。
背中に細い指が触れると、ライオネルは目を見開き、ファリーンを見る。そして彼は、くしゃりと顔を歪めた。
「親の言うまま騎士になった俺と、親の言うまま聖女を騙った君には、善悪の違いはあっても、本質的には大して違わないのかもしれないな」
「全然違うわよ!」
気づいたら、大きな声で叫んでいた。
ファリーンは肩で息をしながら、驚いて固まっているライオネルの胸倉を掴んで、自分の目の高さまで引き寄せた。
「私は自分が命じられた事が悪い事だって、分かっていたもの。分かっていて、従ったんだから!」
ファリーンは自分自身、どうしてこんなに必死になっているのか、分からなかった。唯、これ以上ライオネルに自分を卑下してほしくない。その一心で、言い募る。
「何も悪い事をしていない貴方と、私は……全然違う。ライオネル様は悪い事を命じられたら、そんなのはおかしいって言える人だわ! 馬鹿みたいに真っ直ぐなんだもの!」
ライオネルは弱りきった顔で、子供を宥めるようにファリーンの頭を撫でた。
「どうだろうな」
自分でもよく分からない、と、彼は睫毛を伏せる。
(どうしてそこで、そうだな、って頷いてくれないのよ)
ファリーンはライオネルから手を離して、バツの悪い気分で彼の襟元を直した。
「……ライオネル様は、騎士の仕事が嫌いなの?」
「いや、思うところはあるが、今はこの仕事に誇りを持っている」
「なら、いいじゃない。結果的に胸を張れているなら、細かい事はどうだっていいのよ。それに、もう騎士の号を戴いているのだから、義務は果たしているでしょう? もし騎士が嫌になったら、適当なところで辞めて、やりたい事をすればいいと思うわ」
勢いのままに言った後、ファリーンは少し後悔した。
(子供が勝手な事を言うなって、怒られてしまうかしら)
恐る恐る、ファリーンがライオネルを見上げると──彼は、にがい顔で笑っていた。
「慰めるつもりが、慰められてしまったな」
決まり悪そうに後ろ頭を掻き、ライオネルは広場の向こうの海を見つめる。
潮風がびゅうと吹き抜けて、シーツが踊った。渡り廊下の上を、ウミネコの群れが羽音を立てて通り過ぎて行く。
「──俺はずっと、ファリーン君の事を他人事とは思えなかった。君の事件を捜査している時も、君を取り調べている時も、君の事を知るほどに、君の中に俺を見た。……まぁ、監獄島で再会した君は、随分と様変わりしていたがな」
ライオネルはファリーンを横目で見て、笑う。
「君を逮捕した俺が言って良い事では無いと、分かっているが……君が笑っていると、俺まで心が軽くなる気がする。だから、できれば君には、笑っていてほしい。たとえ手錠をつけていても、心までは囚われないでいてほしい」
彼はそう言いながら、何かを諦めているように見える。寂しげに微笑むライオネルを縛り付けているのは、彼の”世界”なのだろうと、ファリーンは気づいて、締め付けられるように胸が苦しくなった。
「ライオネル様は、自分も同じように世界に囚われているから、私が自由に生きる姿を見て、慰められたかったの? だから私をこの事件の捜査に引き入れる事を、思いついたの?」
ライオネルは凍りついたように、息を止める。そんなつもりは無いと、彼は言うことができなかった。
「私は別にそれでも良いわよ。結果的に外に出られたんだから、儲けものだし。でも……多分、人の幸せをただ見ているだけなのは、辛いと思う。もし私だったら、妬ましいって思ってしまうわ、きっと。……まぁ、貴方が私よりずっと清い心根で、そんな事微塵も思いませんって言うなら、話は別だけど」
ライオネルは自信なさげに首を振る。
「いや……そうだな。俺はきっと、そこまで出来た人間ではない」
「そうでしょ? って言ったら失礼かもしれないけど、でも人ってそんなものよ。だから私も貴方には好きに生きてほしいし、笑っててほしい。貴方の笑顔、嫌いじゃないもの」
目を瞬き、ライオネルはファリーンを見つめる。
「そう、なのか?」
「そうよ。私の能力を知りながら、怯えず、目を見て笑ってくれる人なんて、とっても希少なんだから。どうせなら、心の底から笑ってほしい」
ファリーンは力強く頷いて、微笑んだ。
「だからどうか、貴方も囚われないでいてね。私がいつか本当の意味で自由になれた時、貴方もそうだと嬉しいわ」
諦めたような顔なんてライオネルには似合わないと、思う。
「貴方なら、きっと大丈夫よ」