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ライオネルは拳を鳴らすと、もう一人の男を睨みつける。男は顔を真っ青にして、大きな体をぶるぶると震わせた。引き攣った悲鳴を上げ、刺青の男を置いて逃げ出そうとしたが、唯一の逃げ道はバーニィが塞いでいた。
「ハイハイ、あんた達暴行未遂の現行犯だからね? 逃すわけにはいかねぇっスよ」
「暴行っていうなら、あの女の方だろ!」
熊のような男は慌てふためいてファリーンを指差した。
「俺達が一方的にやられたんだ!」
「何よ、大の男が言い訳がましいわね! 私は身の危険を感じたから、仕方なく抵抗しただけだもの。小さな女の子と未成年を狙うなんて、最低だわ!」
ファリーンは腰が抜けてしまっている可哀想なベティを抱き寄せると、キッ、と男を睨みつけた。
ライオネルは眉を寄せ、男とファリーンの顔を見比べる。
「ファリーン君がお前達を叩きのめしたと? この細腕でどうやって?」
「そんな事知るか! 俺達の方が聞きたいぐらいだ!」
自分に視線が集まって、ファリーンは首を竦める。
「あ、アーチボルト家には、一家相伝の護身術があるのよ! 門外不出だから詳しい事は言えないわ」
「……ほう?」
ライオネルは目を合わせようとしないファリーンを見下ろして、眉間に寄った皺を指の腹で伸ばした。
「まぁ、いい」
「良かねぇだろ! 過剰防衛だ!」
「……お前がいくら喚こうが、彼女は既に終身刑の身だ。これ以上刑期が伸びる事はない。送検しても手間がかかるだ
けだ。それに、お前達が女子供に対して良からぬ事を企てた事については、何も変わらない」
男は言葉を失って、魚のようにぱくぱくと口を開く。「確保しろ」とライオネルは顎をしゃくり、バーニィは満面の笑みで敬礼した。
「そういえば、これを拾ったのだけど」
男達を捕縛して道の隅に転がしたバーニィに、ファリーンは竜胆のカフスボタンを差し出す。
「このカフスボタン、武官の制服のシャツにつけるものでしょう? 貴方の物よね?」
ファリーンはバーニィのシャツの袖口を指す。ボタンが無く、袖口が開いていたので、もしかして、と思ったのだ。
「目敏いっスね。失くすと給料から引かれちゃうんで、見つけてくれて助かりました」
「お礼を言うのは私の方だわ。貴方がナイフを弾いてくれたんでしょう? 本当にありがとう、バーニィ様」
バーニィの手を取り、手のひらにカフスボタンを置いて、両手で包み込むように握らせる。その手を握ったまま、ファリーンは彼に向かって身を乗り出した。
「ねぇ、どうやったの? もしかして能力を使ったの?」
「えっと、まぁ、そっスね。俺の能力は”射出”能力なんで、手短なボタンをナイフに向かって飛ばしたんですけど……」
バーニィはファリーンから顔を背けながら、言い淀む。
「あんた、自分の目を見ようともしない奴に、よくお礼なんて言えましたね」
ファリーンは、ぱちぱちと瞬きした。
「誰かに助けてもらったら、お礼を言うのは当たり前のことだわ」
「そりゃ、そうですけど……」
「それに、相手の嫌なところばかり気にして、自分まで嫌な子になりたくないもの」
「ふぅん」
ファリーンが手を離すと、バーニィは手のひらの上で転がるカフスボタンをじっと見つめる。小さく息を吐くと、袖口に取り付けた。
「──バーニィ、話が終わったなら、下級武官を呼んで来てくれるか? 暴漢共をこの地域の担当に引き渡さなければ」
「了解っス」
バーニィはファリーンを一瞥すると、小走りに駆け去った。路地の入り口の角を曲がって姿が見えなくなると、ライオネルはファリーンに歩み寄った。
「──で? あの子は誰だ?」
ライオネルは、路地の隅に座り込んでいるベティを横目で見た。彼女は逃げることもできず、抱え込んだ膝に顔を埋めている。
「あの子はベティよ」
「そうか。だが、俺が聞きたかったのは、あの子の名前だけでは無いのだが?」
「そ、そうよね……」
ファリーンは乾いた笑いを漏らした。ライオネルは腕組みして、唇を真一文字に引き結んでいる。
(これは、多分、相当に御立腹でいらっしゃるわ)
雷が落ちるまで、カウントはどのくらい残っているだろうか。
「何故、二人でこんなところにいたんだ」
「ちゃ、ちゃんと理由があったのよ?」
「……ほう?」
ライオネルは、すぅっと目を細める。ファリーンは慌ててライオネルに背を向け、ベティに近寄り、目の前にしゃがんで目線を合わせた。
「ベティ、あなたのお話が聞きたいの。オウナの事、知ってるのよね?」
「あ、あた……あたし、分かんない」
ベティはうろうろと目を泳がせて、俯く。小さな肩にそっと触れると、ファリーンの手のひらに微かな震えが伝わってきた。
「私の目を見て」
切々とした声に釣られて、ベティはファリーンの茜色の目を覗き込んだ。二人はしばらく見つめ合ったが、ベティはやはり、何も話そうとしない。
そうやってベティが必死に隠そうとするほど、オウナの匂いに別の匂いが混ざった。すえた汗の臭いだ。テラスハウスにいた犯人の臭いに似ていると、ファリーンはすぐに気づいた。犯人の男が風呂に入っていなかったのは、今思うと、オウナに依存してしまったせいなのだろう。ファリーンはやるせなくて、唇を噛んだ。
「あなたが恐れているのは……家族?」
ハッと顔を上げたベティに、間違いない、とファリーンは確信を持つ。彼女は、惨劇があった部屋の住人だ。
「だ、誰にも言うなって、お父さんに言われてるの。誰かに言ったことがバレたら、あたし、お父さんにすごく叱られちゃう」
(キャシーが両親と引き離される少し前、面談をしたソーシャルワーカーに、同じことを言ったわね)
目の前の少女と前世の自分が重なって、胸がじくじくと痛んだ。耐えきれず、ファリーンは自分の胸に爪を立てる。
「……お父さんは、もう、あなたを叱ることは……できないわ」
目を見開いて、「やっぱり」と、ベティは震える声を絞り出す。
「お父さんが、何かしたんだ。だから、家に武官がたくさんいたんでしょ?」
ファリーンも、少し離れたところで見守るライオネルも、答えることはできなかった。
「ほ、本当は、お父さんは悪い人なんかじゃ無いの! お母さんが死んじゃって、あたしとおばあちゃんの面倒を一人でみなくちゃいけなくなったせいで、大変だったの」
ベティの目から、じわりと涙が溢れ出る。
「あたしがいい子じゃなかったから、こんなことになっちゃったの? あたしがもっともっといい子で、お父さんの代わりにおばあちゃんの面倒を見られるくらいに大人だったら、お父さんは……オウナなんて、使わなかったのかな?」
「自分を責めないで」
気づいたら、ファリーンはベティを抱き寄せていた。腕にありありと伝わる体の細さや、袖丈が合っていない擦り切れた服を見れば、母親が亡くなってしまってからのベティの生活が容易に想像できてしまう。
ファリーンは歯を食いしばった。喉の奥が、燃えるように熱かった。
「あなたは、何も悪くないわ。お父さんは病気になってしまったの。絶対に、あなたのせいなんかじゃない」
目から何も零さないように、ファリーンは深く息をする。まともに唇が動くようになってから、ファリーンは腕の中のベティを真っ直ぐに見つめた。
「私は、オウナが──人を狂わせる”モノ”が大嫌い。だから、オウナをこの街で広めている悪人達を捕まえるために、あなたの知ってることを全部教えて」
ベティが知っていたのは、オウナを売り買いする場所だった。何度か父親の後を尾けて、怪しい連中とやり取りするところを目撃したらしい。ベティの父親と取引していた売人は、黒い流氷の残党と見て間違いないだろう。
思いの外有力な情報に、ドクドクと、せっつくように鼓動が早まった。
「あまり、焦らないようにな」
ライオネルは、なんとも複雑な顔をしている。未だ怒りは引っ込んでいないようだが、手がかりを得られたことも確かなので、頭ごなしに叱れなくなってしまったようだ。
(このまま、雷が落ちませんように)
「えーっと、ベティちゃんの話だと、この辺スかね?」
下級武官を伴って戻ってきたバーニィは、チンピラ達の連行を連れてきた武官に任せて、ベティの事情聴取に加わった。バーニィは態度も気安く、全く威圧感を感じさせないので、彼女も話しやすいようだった。
バーニィは地面に地図を広げ、ベティの話から大体の位置に目星をつけると、赤いペンで丸く印をつける。
「多分、ここだと思う。……六番と七番運河の辺り」
ベティが地図の上に描かれた線を指すと、バーニィは目尻を下げて彼女の頭を撫でた。
「地図が読めるなんて、なかなかお利口さんっスね」
「……お母さんが生きてる時に、お父さんが地図の読み方を教えてくれたの」
何も返す言葉が思いつかず、代わりにバーニィは、はにかむベティの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。ベティは鳥の巣のようになった頭を手櫛で直しながら、くすくす笑う。
「いやぁ、でもほんと、ファリーンちゃんがベティちゃんを追いかけてくれて、助かりましたよ」
バーニィはしみじみと言って、地面に広げた地図の端を摘んで持ち上げる。裏に付いた砂埃を払い、小さく畳んで懐に収めた。
「おかげで随分と捜査範囲を絞れました。下町中を一から探すとなると時間もかかりますし、信頼できる武官がどのくらいいるのか分からない今、人手も足りてませんからね」
「そうでしょう? 多少危ない目に遭ったけれど、結果良ければ全て良し、だわ! ライオネル様もそう思うわよね?」
だからどうか怒らないでください、とファリーンは言外に伝えたかったのだが──
「”多少”?」
却って、火に油を注いでしまったらしい。