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「まさか、オウナの事を黙殺してる武官がいるって事っスか……?」
「ああ。黒い流氷と繋がっている者が、確実にいる。それも、一人では無いだろう」
愕然として、ファリーンは目を見開いた。よりにもよって、この聖都を──ひいては聖国の治安を守ることを使命としている武官が犯罪者集団と関わりがあるなんて、あってはならない事だ。
「誰が通じているか分からない以上、直接、我々の手で情報を集めなければ。現場は下級武官達に任せて、俺達は聞き込みに回るぞ」
「了解っス!」
武官達が集まっているテラスハウスの正面へ、ライオネルとバーニィは駆けて行く。
ファリーンも二人の後について行こうとしたのだが、見るからに屈強そうな男達が一箇所に集まっているのを見ると、どうにも近寄りがたく感じて、足が止まった。
(むさ苦しいし、私が行ってもお邪魔でしょうし、それにやっぱり、むさ苦しいわ)
「ここで待ってても良いかしら?」
ファリーンは前庭の角に転がっていた子供用の椅子を持ち上げると、土埃を払い、腰掛ける。塗装が剥げてしまっているが、座る分には問題無い。
「良いだろう。……だが、くれぐれも、大人しくしているように。分かったな?」
そう念押しされると、なんだか子供扱いされているようで、ファリーンは釈然としなかった。確かにライオネルとは歳が離れているが、そんなに心配される道理は無い。
「私、目を離したらフラフラいなくなるような小さな子供じゃなくってよ?」
「……『はい』か、『いいえ』で返事をしなさい」
「はぁい」
ライオネルは溜息をつくと、バーニィを伴い、引き継ぎを済ませに武官達のもとへ向かった。ファリーンは彼の背中をしばらく膨れっ面で睨みつけていたのだが、大人達の話というものは、得てして長いものだ。
だんだん飽きてきたファリーンは、ふと、人だかりの方に目線を移した。
(野次馬達は、どこの世界でも似たような顔で、対岸の火事を眺めるものなのね)
呆れ混じりに、ファリーンは見物人達を眺める。すると──人垣をすり抜けるようにして、小さな女の子が現れた。
女の子は大勢の武官達がテラスハウスを取り囲んでいるのを見ると、今にも倒れそうなほど真っ青な顔で、事件現場がある部屋の方を凝視する。
「もしかして……あの部屋に住んでる子?」
声をかけると、彼女は飛び上がって驚き、恐る恐る振り向いた。怯えた瞳がファリーンを見上げた、その時──”花”の匂いが、広がる。
「あなた、オウナを知っているでしょう」
ファリーンがそう断じるや否や、弾かれたように女の子は走り出した。
(──逃すか!)
折角の手がかりを、ここで見失うわけにはいかない。ファリーンは頭で考える間も無く、地面を蹴る。「大人しくしていなさい」と言ったライオネルの声や、「子供じゃなくってよ?」と啖呵を切った事も頭から吹っ飛び、ファリーンはマリンブルーのスカートとエプロンを翻して、駆け出した。
勢いに任せて追いかけ始めたのはいいものの、グラント家のメイドに支給される靴は、ヒールはあまり高くないにしても、パンプスだ。どうにもこうにも走りづらい。この履き慣れていない靴のせいで、足幅の差があるというのに、ファリーンは未だ、追いつけないでいる。
(でも、諦めるわけにいかないわ!)
女の子は迷路のような運河に沿って、右に左にまた右にと、何度も道を曲がり、追手を巻こうとするが、ファリーンは必死に食らいつく。
そうやって追いかけっこを繰り広げる内に、体力差か、ついに少しずつ彼女との距離が縮みはじめた。
「も、もう無理ぃ……」
人気のない路地裏に差し掛かり、女の子はとうとう膝をついた。彼女の隣によろよろと歩み寄り、ファリーンは崩れ落ちるように腰を下ろした。額に浮かんだ汗を拭い、見事な走りを見せた小さな肩を叩く。
「な、なかなか……良い走りだったじゃないの……!」
まさか褒められるとは思っていなかったのか、女の子は団栗のような目を丸くした。
「それで……あなた、名前は? 年はいくつ?」
「……ベティ。九歳」
ベティは、おずおずと答える。逃げる気は失せているようだが、その目はまだ、疑り深くファリーンを観察している。年齢の割に痩せて見えるのが気にかかったが、ファリーンは一旦、そこには触れないでおくことにした。
「そう、ベティっていうのね。私はファリーン。騎士様のメイドをしているのよ」
「メイドさんなの?」
「そうよ。ほら、メイドさんの服を着てるでしょう? だから私は、あなたを逮捕したりはできないの」
ベティの肩から力が抜ける。多少は、警戒心を解けたようだ。
ファリーンは彼女の顔を覗き込むようにして、安心させるように微笑む。
「私はただ、あなたのお話が聞きたいだけよ」
「お話?」
「そうよ。お話しするだけ──」
「俺達も、おしゃべりに混ぜてくれねぇかなぁ?」
下卑た声が、路地裏に響いた。
ファリーンは慌てて立ち上がる。声がした方を振り返ると、道を塞ぐようにして、いかにも柄の悪そうな男が二人立っていた。一人は首から頬にかけてぐるりと蛇が巻きついているような刺青を入れた男で、もう一人は鼻にピアスをつけた、ずんぐりした熊のような男だった。ここまでチンピラらしいチンピラを見たのは前世ぶりだな、と、ファリーンは一周回って感心してしまう。
(そういえば、下町はあまり治安が良く無いんだったわ)
今更ながらに思い出して、冷や汗がファリーンの背筋を伝う。
ノーブルは非常に治安の良い都だが、下町だけは例外だ。人目がある道を選んで歩いている分には問題無いが、ファリーン達が入り込んだ路地裏のような人気がない場所に、メイドとは言え、身なりの整った”女”が迷い込んで、ただで済む場所では無い。
(オウナの事で頭がいっぱいで、こんな常識すら頭からスコンと抜けてしまっていたなんて。我ながら、考えなしにも程があるわね)
心の中で自分を罵りながら、ファリーンはすっかり怯えて縮こまっているベティを背中に隠す。どうにかして、彼女だけでも守らなくてはいけない。
じわじわと距離を詰めてくる男達から後退り、ファリーンは周囲を見渡す。両脇は二階建ての建物に挟まれ、背後は河が流れている。とてもじゃないが、ベティを抱えて飛び越えられるような河幅ではなかった。……つまり、逃げ場がない。
(どうやら、腹を括るしかないようね)
「悪いけど、あんた達みたいな男はお呼びじゃないの」
「つれないことを言ってくれるなぁ」
鼻先で笑って、刺青の男はファリーンの手首を掴む──その時を、待っていた。
「キャーッ! やめてください!!」
ファリーンは絹を裂いたような悲鳴を上げる。ギョッとした男の手から掴まれた手首を引き抜くと、大きく足を踏み出し、懐に潜り込む。
「なッ!?」
泡を食った男の襟元を左手で掴むと、ファリーンは鼻がくっつきそうなほど顔を近づけ、ニヤリと笑った。ぐるんと体を捻り、男の脇下を右腕で抱えるようにして体勢を崩す。そのまま勢いをつけて──背負い投げる。
「Take this!!」
男は背中から地面に叩きつけられ、声も出せずに悶絶した。
「これ、正当防衛よね?」
ファリーンは一応、更生中の罪人だ。喧嘩を買ったとなると、後でライオネルに怒られてしまう。相手から手を出してきたので”身を守るため”に”しかたなく”迎撃した、という、真面目な騎士様を納得させられるような言い訳が必要なのだ。
「て、テメェ、よくも!」
地面に転がった仲間を見て、熊のような男はファリーンに殴りかかった。ファリーンは舌打ちして、体を低くする。繰り出された拳を避け、膝の裏を蹴り、バランスを崩した巨体の背中に蹴りを入れる。
「女の子に寄って集って、恥ずかしいと思わないの?」
「このッ……!」
刺青の男が、よろめきながら立ち上がる。どこかに隠し持っていたのか、右手にはナイフが握られていた。
「ちょっと、丸腰相手にナイフは卑怯よ!」
「うるせぇ! ちっと痛い目見てもらうぞ、メイドさんよぉ!」
まずい、と痺れるような焦りがファリーンに走った──その時だった。
空気を裂く音と、金属がぶつかり合う音がして、男の手からナイフが弾き飛んだ。何が起こったのか分からないまま、ファリーンは咄嗟に、地面に跳ねたナイフを追いかける。手に取ろうとして──傍に転がっていた、この路地に不釣り合いな金のカフスボタンに気がついた。摘み上げると、司法院の紋章である竜胆の刻印がきらりと光る。
「──飛ばせ、バーニィ!」
「了解!」
視界の端で、濃紺の制服が翻った。刺青の男は身構える間も避ける間も無く、文字通り人間大砲の如く打ち出されたライオネルに蹴り飛ばされ、路地を転がり、昏倒した。
「うちのメイドに、何か用か?」