プロローグ(8/7表紙イラスト差し替え)
──聖国ウィスタリアの第十二代聖女、ソニア・ラムゼイが崩御した。
ウィスタリアにおいて聖女とは、大いなる天空神に仕え、国の柱である三院の内、執政院を束ねるこの国の首長だ。スフェール城に住まい、慈愛を以って国を治める、清廉な指導者。その、ウィスタリアで最も尊い座が、空席となったのだ。
「お前が聖女になるのだよ、ファリーン」
アーチボルト卿が自身の娘にそう告げたのは、聖女長逝が首都ノーブルに報じられた日の、その夜の事だった。
この先の未来を暗示するような、嵐の晩。書斎の窓を雨粒が叩く音と、唸るような遠雷の音が鳴り止まない中で、ファリーンには不思議と、父親の言葉が鮮明に聞こえた。
燭台の灯りに照らされた仄暗い室内で、書斎机に肘をつき、指を組んで、父は娘の茜色の瞳を見つめる。彼は一見、柔和な表情で娘に笑いかけているが、眼鏡越しに自分を見つめるその瞳が、自分を見ているようで見ていない事を、ファリーンは知っていた。
「……はい、お父様」
聖女なんて、なろうとしてなれるものではない。けれど、父親に背く事ができないファリーンは頷く他なかった。そもそも、最初から選択肢は用意されていない。既に決めたことなので、”明日から聖女のつもりでいなさい”と、そういう御命令なのだ。
(お父様がお決めになった事だもの。仕方がないわ)
ファリーンは目を伏せる。下を向くと、床に敷かれた、平民が一生働き続けても手が出せないような、遠い異国の絨毯が目に入った。美しい織物の筈なのに、父親の欲深さを引き立てる、ひどく汚らわしい物のようにファリーンには思えた。
(充分すぎるほど、多くの物をその手に握っているというのに……お父様はまだ、足りないのね)
アーチボルト家は、国で五本の指に入る名家だ。歴代のアーチボルト卿が成した財も、当然唸るほどに残されているが、ファリーンの父親はそれで満足しなかった。あちこちへ手を回し、時に手駒を操り、悪辣な真似をさせる。今代の当主、トバイアス・アーチボルトは、その強欲さと醜悪さで知られていた。
母親はというと、そんな夫を諌めるでもなく、むしろ煽っている。彼女もまた、野心高く欲にまみれた女だった。
夫婦は揃って飽きもせず謀略をめぐらせ、聖国を恣にしてきた。挙げ句の果てに、畏れ多くも国の要である聖女を手中に収めようというのだから、彼らの野望は留まる所を知らないらしい。
(我が親ながら、愚かしいほど身の程を知らない人達だわ)
ファリーンは気付かれないように、そっと溜息を吐く。
聖女の席に座れる者は、大いなる天空神に選ばれた、最上の”能力”を持つ者だ。聖国ウィスタリアの貴族の血を引く子供に、僅かながら発現する異能の力──その中でも、千里眼と呼ばれる力を持つ者こそが、聖女と認められる。
どういう理由なのか、未だに解明されていないのだが、千里眼を持つ者は同時に二人以上現れる事は無い。先代の聖女が身罷ると、程なくして年若い貴族の血を引く少女に、この能力が発現する。
聖女はこの世に唯一人の、尊い存在だ。本来であれば、誤魔化しようもないのだが……
「ファリーン、お前の”能力”があれば、できるね?」
「……はい、お父様」
もう一度、頷く。自分なら可能だと、分かっていた。
ファリーンの”能力”は、アーチボルト卿にとって非常に都合が良いものだったため、これまでずっと秘匿されてきた。彼はそれを利用し、ファリーンの本当の能力を隠したまま、娘に聖女の能力が発現した、と世間に発表する腹積もりだ。
稲光がアーチボルト卿の眼鏡に反射し、雷鳴が轟く。彼はニタリと笑みを濃くすると、ギラギラした目で娘を見つめた。
ファリーンはそんな父親を、醒めた目で見つめ返す。
(でも、果たしてそう、上手くいくかしら?)
いずれそう遠くない未来に、天空神に選ばれた本物の聖女が世に現れる。それが、この国の理だ。ウィスタリア人なら誰でも知っている事で、アーチボルト卿が知らない筈はない。
(まさかお父様は、本物の聖女様を排除するつもりなの?)
そんなことが罷り通れば、間違いなく国は乱れる。あまりにも恐ろしいことだと分かっているのに、ファリーンの胸の内には、何の感情も湧かなかった。
今回だけの事ではない。もうずっと、ファリーンの心は空っぽのままだった。
いつからこうなのか、自分自身ですら、覚えていない。
父や母に何か命令される度に心の器がひび割れ、そこから何か大切なものが漏れて──気がついた時には、何もなくなっていた。……でも、それで良いと、ファリーンは思う。
(お父様もお母様も、意思を持つ人形はお好きではないもの)
何かしら心の中に芽生えたとしても、それは無意味なものとして、両親に踏み躙られてしまう。何度も繰り返してきた事なので、ファリーンはすっかり諦めていた。
「良い子だね、ファリーン」
猫なで声で、父は娘に笑いかける。こういう時は決まって、彼から漂う”醜悪な臭い”が肌を撫で、纏わりついてくるような気がするのだった。
ファリーンはそれ以上何も”匂い”を嗅がずに済むように息を止め、父の目を見ないようにする。込み上げる吐き気を堪えながら、父親に向かってお辞儀をした。はらりと垂れた長い髪は、父譲りの濡羽色だ。ファリーンはその色が、あまり好きではなかった。
──その一月後、首都ノーブルに激震が走った。
「号外、ごうがーい!」
「聖女猊下ばんざーい!」
街中に号外新聞を売り捌く子供達が駆け回り、読み捨てられた新聞が風に吹かれて路地を飛ぶ。それをまた別の人に売りつけようと、ボロを着た子供が追いかけてゆく。
新聞の一面には『第十三代聖女アリス・センツベリー猊下御就任』と大見出しに書かれていた。ドレスとガウンを身に纏った美しい少女の姿絵が、紙面を華やかに飾っている。
次いで読者の目を引いたのは、『アーチボルト夫妻失脚!?』の文字だった。武官に連行される夫婦の風刺画と、彼らがどのように恥知らずな罪を犯したのか、記されていた。
『アーチボルト夫妻失脚!?』
『一人娘を偽聖女に』
元老院議員、トバイアス・アーチボルト(四五)とその妻ビヴァリー(四二)は、当時聖女候補であった、現聖女猊下の弑逆を企てた嫌疑がかけられている。夫妻は長女(十七)の能力を詐称し、長女こそが聖女だと主張していた。
当初は夫妻の指示に従っていたと見られる長女だが、猊下の清き御心に触れ、両親と離反。夫人の暴行から猊下を庇い、負傷。意識不明の重体であったが、昨晩、意識が回復した。現在はスフェール城の医務棟にて治療を受けている。
司法院は夫妻に対し、反逆罪に加え、能力詐称罪、及び、長年に渡る長女の能力秘匿罪についても容疑をかけている。
また、未成年である長女については、慎重に調査を進めるよう、特務武官らに命じているようだ──
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