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夏のコペルニクス

作者:


 林道を走っている車の後部座席から、窓に顔を近づけて外を見ると、視界の中を景色が移動し続けていた。前から後ろへ流れていって、ぼうっと眺めていると、景色が溶けて、まるで下手な抽象画のように見えた。しかし、その中にも、ふと目にとまる物を見つけると違う感覚を得た。少し遠い前方の道端に、白い何かの花が咲いているのが目に入った。それは車が進むにつれてどんどんと私に近づいて、その白い花が車と横並びになった瞬間に、あ、ユリだ、とその美しい姿に目を奪われるが、瞬く間に、私から勢いそのままに離れていった。ユリが遠ざかり始める刹那、惜別のような胸の痛みと、喪失感を味わっていた。もう遠い場所に行った白い花を見ながら、「ユリが行ってしまった……」と、そんな事を、多荷物を積んだ車の、後部座席でぼんやりと考えていた。

 六月、私は田舎とも都会ともつかぬような街から、さらに幾分田舎景色の町へ引っ越してきた。父親の転勤という、ありふれた理由によって私立の中学校へと転校してきたのだ。こうして学校が変わるのは何度目だろうか。数回目からは特に意識しなくなっていた。私には変わり続ける風景は常の事で、印象的な出来事にはなりえなかった—。

転校してきて一回目の、国語の時間のことである。音読が始まった。一人ずつ、句点ごとに読む箇所が交替で与えられていく。立って、読んで、座って、文をつないでいく他の生徒たちの声を、教室の後ろの方の席でぼんやりと聞いていた時のことであった。斜め前の少し遠い席の女子生徒が、順番が来て立ち上がった。何か急に惹きつけられるものがあって、私は彼女から目を離せなかった。「コペルニクスは地動説を唱えて、天文学の大転回を行いました。」不思議なことに、この短い部分を読んだ彼女の声は、ずっと私の耳にこだましていた。風のようにやさしく、そしてすっと読み上げたその透き通った声や、窓からの日差しに照らされた肩にかかるほどの長さの健康的な黒髪や、教科書へと目を落としているその知的な横顔に心奪われた。初めて私は、恋をしたのだった。

 私はそれから彼女を意識するようになった。彼女は、人懐っこい笑顔をし、その上誰に対しても分け隔てなく優しく、まさに陽だまりのような生徒であった。そのため同じ組に在る生徒のみなから好かれており、親しい男子友達も多かった。まさに、高嶺の花であった。

 七月のある日、かくのごとき彼女と放課後の掃除当番が重なった。二人で仕事をこなしたのちに、驚くべきことに彼女の誘いによって、二人で帰路を歩んだことがあった。彼女から誘ってくれたことが、私には誇らしく、幸福だった。雑談を交わしながら歩く道中、彼女の人懐っこく、可愛らしい笑顔が隣で咲いた瞬間、私は自分の心が温かいもので満ちていくのを感じた。まさに、至福のひとときであった。その件以後、私はますます彼女を見つめるようになり、会話もよく交わすようになっていった。彼女も、そんな私の好意に気がついているように思われた。

 八月の末、急に父親から再びの転校の話を聞かされた。初めて私は、転校の話に動揺したため、父親には少し意外に思われた様子であった。しかし、私から父親に特に何も言うことはなかった。景色が変わっていくのはいつものことで、そういう運命なのだと受け止めることしか、私はしたことがなかった。

 九月、転校の件を彼女に学校で伝えると、彼女は、一瞬言葉を失ったような表情をした。私は、彼女が離れていく現実を直視するのに堪えられなくなった。そのあと、ほんの少しの間をおいて、彼女は何かゆっくりと発したが、その時にはもう彼女の方をまともに向くことすらできなかった私の耳には、何も届いていなかった。太陽のような彼女の、輝かない顔を見たくなかったのだと、今となっては思う。

それから幾分か経ったある日、彼女に恋人ができたと噂で知った。突然の報せに、驚きと、喪失感とが同時に私を打ちのめした。重いものが両肩にのしかかり、力が入らなかった。心に空っぽの部分ができたのを感じ、早く代わりで満たしたくなった—。

 それから、私が転校するまでの間もずっと彼女の交際は順調のようで、噂も彼女達が熱を上げていく様子についてで持ちきりだった。私は、もはや遠い存在の彼女のことを耳にするたびに空っぽの胸が締め付けられた。そうして、私はまた景色が変わっていってしまうのを見ているだけであった。私には何も留まってくれないのかと、過ぎ去っていくあらゆるものを呪う気持ちでいた。

 十月、新しい引っ越し先へと林道を走る車の後部座席の窓から、私はまた移動しつづける景色を眺めていた。ふと、遠くの道端に何かが落ちているのが見えた。車が進むにつれてそれは私に近づいて、横に並んだ瞬間、あ、麦わら帽子、と気がついた。そしてまた過ぎ去っていくだろうと、来たる惜別に備えた瞬間、麦わら帽子は急に止まった。麦わら帽子は、まだ、横に並んでいる。「間違えたなぁ。今の岐路は右だった」と、運転する父親が呟く。

その時私に、閃きが走った。それは認識の誤り自体への気づきであり、唐突に過ちを自覚する焦燥であり、己の盲目への後悔の一連の衝撃であった。転校の話を、仕方がないとはいえ何も言わずにただ承諾し、自分の思いから目を背けたのは誰だろうか。本当に彼女が、私から遠ざかっていったのだろうか。代わりで満たしたいと思ったのは、私だけだったのだろうか。あの花でさえ、ずっとあの場に咲いていた。麦わら帽子も、急停止していなかった。すべて、そこにあったのだ。そこにあったあらゆるものに近づいていたのも、離れていたのも—そうか、全部、私だったんだ。

 それから、私の乗る車は、ゆっくりと後ろへ戻って、林道のY字路を、今度は右へ進み直して、固まったように動かない小さな麦わら帽子から、徐々に離れていったのであった。

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