兎の末路
兎の末路
一週間前、私が教師として勤めている小学校で、ある事件が起こった。
私が受け持っているクラスで主に飼育を担当している兎の一羽が、夜中に学校へ侵入してきた何者かによって、惨殺されていたのだ。
ロープで後脚をしばり、小屋の天井からぶら下げていた兎が、刃物で滅茶苦茶に切りつけられていたのだった。
しかも凄惨極まるのはここからで、生徒達が登校してくるより早く小屋に様子を見に行った私が見つけたのは、ズタズタに引き裂かれた兎の「皮」だけだったのだ。
切りつけた際に飛び散ったのであろう血痕以外には、まるでボロ雑巾のようになった兎の皮だけが、だらりとぶら下がっていた。
・・他の部位は何処にいったのか?嫌な疑問が頭にまとわりつくが、今はとにかくこの状況を生徒に目撃されて混乱を招く事を、避けなければならないだろう。
私はすぐさま他の教師や警察に連絡をとり、事態を収拾する事に努めた。
完全に外が明るくなって間もない時間帯だったが、流石に警察の対応は早かった。
特別な行事があるわけでもないのに、警察が学校にいて、しかも兎小屋への立入が禁止されている。
そんな異常な状況を目の当たりにし、登校してきた生徒達は、何が起こったのか早くも見当がついてしまったようで、不安と好奇心を露にさせていた。
兎小屋の惨状を生徒に見られる心配は無くなったが、事件が起こった事実を伝えないわけにはいかない。私が口に出すべき言葉を必死に整理しながら教室へ向かうと、廊下に人だかりが出来ているのが見えた。
私のクラスの教室の、前だ。
兎小屋での嫌な疑問がまとめて確信と焦燥感に変わり、人壁と化していた生徒たちを強引に押し退けると、人だかりの中心には女の子が一人、その場にいる全員の視線を一点に集め、うずくまっていた。
その子は頭から下半身にかけて何か赤黒い液体で濡れており、髪からはぽとぽとと生臭い臭いのする液を滴り落としていた。
後ろ姿ではわからなかったが、慌てて近づいてみると、その子が私のクラスの女の子であることがわかり、また彼女を濡らしているものが、血液であることもわかった。
私はここで何が起こったのかを全て理解し、大声を張り上げたくなる衝動にかられたが、顔全体を歪ませ歯を食いしばり、こらえつつ彼女に呼びかける。
反応が無い。目は正面から見据えれば射ぬかれそうな程に見開かれているが、意思や気力といったものは全く感じられず、ただぼうっと教室の中を見つめていた。
両肩を掴み、軽く揺さぶりつつ再度呼びかける。肩に付着している血が、ぬちゃりと粘度を感じさせる音を立て、私の頬はひくついた。
彼女はようやく私に気がついたが、しかしまだ呆然としたまま教室の中を指差して言った。
「先生・・教室・・」
教室の中には、無くなっていた兎の全てがあった。
兎小屋に残されていた皮以外の兎の部位が、生徒が使用する机の上に几帳面に並べられていたのだ。
2つの目玉は、ちゃんと瞳が上を向くように隣同士の机に置かれ、内蔵と肉は全ての机に行き渡るよう、大きさも均等にして切り分けられている。
しかし臓物以外に机を汚すものは無く、血の一滴も付着していない。その光景は窓から差し込む朝日と相まって、ある種の荘厳さすら感じられた。
私は、目を反らす事も覆う事もせず、ただ立ち尽くしていた。
教室の外から他の教師の声が近づいてくる。生徒達の悲鳴が頭の中で渦を巻いて反響し、私の意識は混濁していった・・。
「本当にありがとうございます・・。先生だってお辛いでしょうに・・」
「そんな・・私の事なんて気になさらないでください。クラスの中で、彼女が一番兎を可愛がって、熱心に世話していたんです。それがあんな仕打ちを受けて・・ショックは計り知れませんよ」
「でも、昨日の夜から・・少しだけ口をきいてくれるようになったんですよ。顔色も良くなってきたように見えますし・・先生が毎日お声をかけに来てくれるおかげです」
「彼女は元々、芯のある強い子です。クラスの子達も毎日来ていると言っていたし・・そのおかげでしょう。」
「もちろんそれもあるのでしょうけど・・あの子、昨日言ったんですよ。先生に迷惑をかけたくない、早く元気にならなくちゃいけないのに、って・・その後はまた、泣き始めてしまったんですけど・・」
「焦る必要はありませんよ。私も、クラス全員も・・残った2羽の兎も、彼女が元気になってくれるのを待っています」
そう、焦る必要など無いのだ。
私は彼女の部屋に向かう短い階段を上りながら考える。
あんな事件を勝手に引き起こした犯人は絶対に許せない。
似合わない正義感を振りかざすつもりは無いが、一刻も早く逮捕される事を願っている。
部屋のドアをノックして中に入る。何だかんだで私の上をいく発想と行動力で、自らの欲望を充足せしめたであろう犯人に強い敗北感を植え付けられた私にとって、今の憔悴した彼女の顔を見る事は、何より爽やかな清涼剤となっていた。
「やあ、調子はどうだい?今日配ったプリントやらも持ってきたよ・・」
兎の血を薄いビニール袋に詰め、最初に教室の扉を開いた者の頭上に降り注がせる。
犯人に対する怒りと嫉妬はどうする事もできないが、それ以上に抑えられない、強烈に刺激された「創作意欲」がふつふつと沸き上がってくるのは、何ともしい気分だ。
「先生・・」
彼女は私に、弱々しくはあるが、秘めた強さを隠さない、しかし年相応にあどけなく、可愛らしい笑顔を向ける。
そうだ、焦る事は無いのだ。
兎はまだ2羽残っている。
つまり、まだ2回君を絶望させるチャンスが残っているのだから。