警察予備隊三式中型特車長砲身型
1945年8月15日のポツダム宣言受託で大日本帝国は降伏し、それに伴い帝国陸海軍も解体されることとなった。
日本本土に進駐した進駐軍は、本土決戦用に残されていた膨大な量の兵器を処分することとなったが、その中には千島列島占守島も含まれていた。
千島列島の北端に位置する占守島は、ソ連と国境を接する島であり、アリューシャン方面からのアメリカ軍の脅威にもさらされる位置にあった。このため、帝国陸軍は91師団を中心とする地上部隊を置いていた。
そして海軍はレイテ沖海戦以降生き残っていた艦艇の内、軽快な巡洋艦の一部を隣の幌莚に疎開させていた。艦隊は年間の多くを霧に覆われているここで、本土決戦までをやり過ごし、本土決戦の際には夜間に南下して上陸してきた連合軍船団に特攻する予定であった。
この艦艇租界はレイテ沖海戦以降に開始され、8月15日時点では重巡「利根」「青葉」軽巡「大淀」「酒匂」などと少数の駆逐艦が残されていた。
この内駆逐艦は、日本が残した数少ない勢力圏である満州や朝鮮半島などから日本海経由で石油の運び込みのための護衛などをしていた。
この残存艦隊は大和特攻を生き残った古村啓蔵少将に指揮されており、8月15日の終戦により一切の戦闘行為を中止し、本来であれば連合軍の命令を受領次第、横須賀もしくは大湊に南下して引き渡される予定であった。
ところが、8月18日に突如ソ連軍が占守島に上陸したため、艦隊は自衛のため独断で出撃し、ソ連軍艦隊ならびに船団、および上陸した敵部隊を艦砲射撃と水雷戦で叩きに叩いた。
さらに占守島に配備されていた陸軍部隊と陸海軍航空隊も全力で反撃した。この結果ソ連軍は占守島から追い出される羽目になった。
なお、艦隊はこの戦闘行為で搭載していた燃料の多くを消費したため、横須賀への回航が不可能となった。
さて、この占守島の戦闘では配備されていた陸軍第十一戦車連隊が、ソ連軍への反撃の先鋒を担った。終戦による武装解除で弾薬や無線機を降ろしていた悪条件の中、短時間での再装備と出撃によって、上陸してきたソ連軍の出鼻を挫く結果となった。
また、おりしも霧が発生したため慎重に進撃を行った結果、戦車隊の攻撃開始が、航空隊や艦隊の反撃とほぼ呼応するような形になったのも幸運であった。
こうしてソ連軍は占守島から叩きだされてしまった。それどころか、艦隊からの攻撃で貴重な上陸用舟艇や護衛艦艇を多数喪い、そこから先の千島の攻略さえ難しくなってしまった。
そしてソ連軍がそれ以上の千島攻略も出来ないまま、9月2日の日本の正式降伏を迎えた。ソ連のスターリン首相としては、この日付を越えても千島列島へ侵攻するつもりであったが、舟艇や艦艇の大部分を喪ったため、さらに米軍艦艇の一部が艦艇の接収目的で幌莚に入ると、もうそんなことは出来なかった。
さて、本来であれば幌莚の艦艇も、占守島に残された戦車や航空機も処分されるのが道理であった。しかし、この時千島に進駐した米軍は、停戦監視を目的としたような小規模な部隊であった。
進駐軍の主な視線は日本本土に向けられており、辺境に近い、特に北方で天候が安定し難いこの地域への進駐は遅れ気味であった。
それでも、既に始まっているソ連との対立から、ソ連軍の進駐だけは許さず、小規模な部隊での進駐となっていた。
さて、そんな彼らが見たのは、小島にはとても似つかない大戦車軍団と防御陣地であった。この内ソ連軍が上陸した竹田浜の陣地は損壊し、また先陣を切った戦車部隊もソ連軍との戦闘で損害を負っていたが、それでもまだなお大量の陣地や戦車が残されていた。
陣地に関しては、米軍としても沖縄や硫黄島で苦しんだのであるから、興味を惹かれて当然であった。一方戦車は、普通ならば日本の戦車は米軍のそれに全般的に劣っているのであるから、あまり興味をそそられない。ただし、今回は二つの点でそうはならなかった。
一つは千島に残された軍備が、進駐した米軍にとって頼りになる戦力であったからだ。千島に進駐した米軍は小規模で、万が一ソ連が再上陸を試みれば、とても対処できない。しかし、戦車や飛行機があればソ連にプレッシャーとなるし、自分たちの精神衛生的にもいい。
そして二つ目は、残されていた戦車に理由があった。占守島に配属されていたのは、第11戦車連隊で、北方からの脅威に備えてか、この部隊は大小合わせてとは言え、100両近い戦車を保有していた。
その主力は帝国陸軍の主力である九七式や九七式改、そして九五式軽戦車であったが、ポツポツと違うタイプの戦車もいた。
九七式改をより改良した一式中戦車や、さらにそれに90式機動野砲を塔載した三式中戦車だ。これらは本土でも本土決戦用に温存されていたため、占守島のみの存在ではない。
進駐軍の興味を引いたのは、三式中戦車でも後継の四式中戦車と同じ砲塔と砲、すなわち四式75mm高射砲を改造した五式戦車砲を塔載した長砲身型であった。
このタイプは開発が遅れていた四式ならびに五式までの繋ぎとして製造されたものだ。長砲身の高射砲を改造した砲だけあり、野砲改造の短砲身砲より高初速、高貫徹力を有していた。
この車両が占守島には2両だけ存在していた。いずれもソ連軍の迎撃に使用され、内1両は対戦車砲で大破したが、戦闘後とりあえず損傷状態で回収されていた。
進駐軍は、占守島に全てのタイプの日本軍戦車がいたことをいいことに、車両の性能比較試験を実施した。このために、残留していた第11戦車連隊の乗員に修理並びに操縦させて、機能試験を実施。この結果、三式中戦車長砲身型(以後三式中戦車改)が実用化された日本戦車では最良の性能であることが確認された。
さらに米軍は、占守島に揚陸艦で自軍のM4戦車やM24戦車を持ち込んでさらなる性能試験を実施した。
ソ連の鼻先でのこの行為は、当然ソ連からの抗議を招いたが、米国は「接収した兵器の試験に過ぎず、適切な時期が来れば撤退並びに処分を行う」と説明するだけであった。
しかしながら、米軍はここから撤退する気はさらさらなかった。何故ならこの時期、千島列島奪取に失敗したソ連軍は、千島列島や朝鮮半島への圧力を激化させつつあったからだ。特に不凍港であり、占領した朝鮮北部の羅津や元山の軍事基地化は、アメリカ側の警戒心を逆撫でするものであった。
さらにはやはり占領した南樺太への軍事力増強も行い、明らかに北海道や千島列島を窺っているのが鮮明となった。
この状況下において、米国政府は当初ポツダム宣言で決定していた日本軍の解体と、日本の非武装化について、大きな転換を強いられることとなった。
米国は英国、中華民国など一部の西側陣営(日本への強硬意見を持つ豪などは意図的に外された)と図り、日本軍の人員並びに武器を、今後予想される日本の再軍備かに備えて保管する方針を秘密裏に決定した。
特にこの中で重視されたのは艦艇であり、巡洋艦「利根」や「大淀」などは復員業務への従事をギリギリまで長引かせ、その後も原爆実験への利用のためと称してハワイへ移動し保管するなどの処置を取った。
一方陸上兵器に関しては、旧式化著しいものや戦時乱造のために品質が保証されない物は尽く廃棄処分となったが、装甲車、自走砲などは一部が保持されたものの、大多数は処分された。
と言うのも、この頃米国では大戦中に大量製造したM4戦車が大量に余っており、もし日本が再軍備するのであるならば、これを供与すればいいと考えていたからだ。
ただし、これは昭和23年に始まった朝鮮戦争で甘い見通しであることが露呈する。
そんな中、占守島の戦車に関しては同地の気象状況の悪さやソ連への挑発とならないために、米軍が自軍の戦車や車両の送り込みを最低限に留めたため、終戦後も長く米軍の軍属として雇用された元日本兵によって維持された。
さて、昭和22年に入ると米ソの衝突、なかんずく南下を目指すソ連の挑発が朝鮮半島で強くなり、同年中に朝鮮半島を二分して南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国が成立した。
そして北朝鮮の場合は、中国の内戦が共産党軍有利のため侵攻していたため、同軍の部隊となっていた朝鮮人部隊が朝鮮半島に次々と帰還、北朝鮮軍の部隊として編入された。またソ連からも、秘密裏に養成されてていた人間が軍に次々と入った。
対する大韓民国は人材ならびに米国の支援が不充分であったため、小規模な警備隊しか持ち合わせなかった。独立したばかりで足元が弱いにも関わらず、北朝鮮はこれを好機として昭和23年8月15日、暫定国境線を突破して大韓民国へ侵攻した。
一方これは米国にとっても奇襲となり、日本の進駐軍すら朝鮮半島へ出征させる事態となり、米国は日本本土をがら空きにしないため、予定を前倒して日本政府に再軍備を指示した。
しかも、この時の指示ではソ連の北方での動きや日本国内の社会主義勢力に米国が過敏になった結果、当初の予定である警察力の拡充から、ソ連軍の上陸にある程度絶えうる戦闘力を備えることが求められ、結果初期段階から大砲や戦車と言った装甲車両を装備するものとされた。
結果新たに8万5千名からなる警察予備隊が組織された。軍ではないのは、前年に施行された日本国憲法9条に配慮したためと、当初の警察力の強化と言う計画を印象付けるためである。
しかし警察予備隊は、終戦から3年しか経っていない日本にとって財政的に重荷であり、しかも創設時の芦田内閣、その後の吉田内閣も反再軍備路線であったから、GHQは相当な圧力を日本政府に加えたとされている。
にもかかわらず、米国からの支援は不充分であった。何せ当の米国自信が朝鮮半島の戦場に次々と兵器を送り込んでいたのだから、日本へ与える支援が限られていたのも当然であった。
それでも、警察予備隊の翌年に組織された海上保安隊に関してはまだいい方で、ハワイで保管されていた旧帝国海軍艦艇が返還されるとともに、米国から何隻か艦艇が供与された。
一方警察予備隊はと言えば、小銃は供与品や米国が保管していた99式小銃が供与され、重機関銃や迫撃砲、バズーカ砲もとりあえず供与された。
しかし戦車に関しては、当初予定されたM4戦車は全く供与されず、朝鮮半島で早々と役立たずとされたM24軽戦車やM8装甲車のみで、警察予備隊幹部陣(内務省出身者と旧軍左官クラスを中心とした)を落胆させた。
そんな中、占守島で米軍に使用されていた旧軍車両や、本土で研究などの目的に保管されていた少数の車両も警察予備隊の装備に加えられた。
これらの内一式中戦車以後の車両はいずれもエンジンに百式統制型ディーゼルを塔載していた。これは基本的な構造はそのままに、シリンダー本数を変えるだけで馬力と搭載車両を選択することが出来る、自動車後進国日本にとって、数少ない米国から戦後評価された自動車関係品であった。
もっとも、実際には日本の技術力の低さから、故障の頻発や馬力の低さなど問題も多々あったが、どちらにしろ当時の日本のレベルでは、よくがんばったエンジンであった。
そのため、戦後も砲塔を外した戦車が警察の装甲車や、建設用重機として使用される際に、部品の互換性が高いことから重宝された。それどころか、米国から数少ない生産継続許可品として戦後も生産と改良が継続され、新造されるトラックに塔載が継続されていた。
だから、ブリキの戦車と揶揄された攻防力の低さに目を瞑れば、一式以降の戦車は新設の警察予備隊で使用するのには、都合がよかった。
このため、占守島に残されていた一式中戦車、三式中戦車短砲身型、長砲身型も戦列に加えられた。型式は陸軍時代のそれを引き継いだが、戦車と言う言葉は兵器を連想させるので、そこだけは特車と改称された。
そして、三式中特車長砲身型は、警察予備隊編入と同時に占守島から運び出された。輸送には米海軍が協力したが、それまで輸送の困難さからこの島にとどめ置かれていたこの車両が、どうして今さら運び出されたのか?
それは東京でのパレードで使用するためであった。ほとんどの戦車が米軍供与の軽戦車や、旧軍から引き継いだ小型戦車では、進駐軍の戦車を見ている国民に対しての印象がよろしくないと考え、長砲身砲を持って如何にも強そうな三式特車は、見栄え的に持って来いの存在であった。
昭和25年、警察予備隊創設1周年を記念した都内でのパレードで、三式特車長砲身型は、国民の前に姿を見せ、米軍供与のM24や、旧軍引継ぎの一式軽特車、三式中特車短砲身型とは明らかに違う存在感を見せ付けた。
同車はその後朝霞駐屯地配備となり、保安隊、陸上自衛隊へと引き継がれた。米軍から長砲身砲搭載のM4イージーエイト特車の供与までの数年間、日本最強の特車として、たった2両ではあったが象徴として存在し、基地公開や観閲パレードでは注目の的であった。
また昭和29年公開の映画「ゴジラ」では、実写ならびに模型で登場。特撮シーンでは実写では再現不可能な多数車両で登場し、「ゴジラ」に長砲身75mm砲弾を撃ち込んでいる。
しかし、昭和32年にはM4特車の数が揃ったのに加えて、後に58式戦車(昭和33年より特車から戦車に改称)となる新型車両の開発が進んでいたので、同じく陸軍からの引継ぎ車両と時を同じくして、2両とも揃って退役した。
ただし、一式特車や三式特車短砲身型が次々とエンジンを取り外して保存車両化か、スクラップとなる中、同車だけはしばらく予備車両として残された。そして後継の58式戦車の研究開発データを残しつつ、時には特撮映画に登場して、実質的には昭和37年頃まで走る姿が見られた。
そして予備車両からも除籍された昭和39年、日本全国が東京オリンピックに沸く中、1両はスクラップとなり、もう1両は富士山麓に設けられた陸上自衛隊富士学校併設の装甲車両記念館に運ばれ、21世紀の現在に至るまで良好な状態で保存されている。
三式特車長砲身型は終戦後の戦いでソ連の千島侵攻を挫く活躍に寄与すると共に、戦後も国民へのパフォーマンスや、後継戦車の研究材料として活躍し、わずか2両の存在ながら、日本の装甲車両史に燦然と輝いている。
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