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バレンタイン

ブログより転載。

最近、妻の――ヒスイさんの様子が不可解だ。

香水なんて付けないタイプなのに、何やら甘い香りを漂わせている。

それだけではない。

この間なんて学会から直帰して通常より早めの帰宅が叶い、偶然廊下でばったりヒスイさんに遭遇。

なんて幸運! と思っていたのに、「なんでこんなに早く帰宅しちゃったんですか!?」と言われてしまった。

しかもその時ヒスイさんはかなり、挙動不審。

何かご自分が手にしていたものを、さっと背へと隠していたし。


「これって、僕は愛想を尽かされてしまったのでしょうか……?」

嘆息を漏らしながら、僕はテーブル越しに座っている義理兄さんへと尋ねた。

この胸に燻るのを誰に聞いて貰おうと思えば、ヒスイさんの事をよく知っている彼の事が頭に浮かんだ。

そのため今日はヒスイさんのお兄さんの元へと足を運んだ次第。


「あの~、ライト様。それ別に浮気とか、愛想を尽いたとか、そういったことではありませんよ。あまり俺の口からは言えませんが」

お兄さんは苦笑いしつつ、お茶を差し出してくれながらそう答えてくれた。

どうやら事情を知っているようだ。


「ですが……」

指先から氷の様に冷たくなり、たまらずお茶へと手を伸ばした。

けれども入れたてのお茶では、これを溶かしてはくれない。

彼女でなければ――


ヒスイさんに捨てられたら、どうしよう……


こんなに女々しい男では、愛想を尽かされても仕方がないのかもしれない。

だが、本人に直接伺う勇気なんて皆無。なんて意気地がないんだ、僕は。

気分が段々と深く沈んでいき、自然と俯いてしまっていく。


「あの、本当にライト様。大丈夫ですって。ただバレンタインのチョコを、練習しているだけですから! ヒスイ、お菓子なんて作った事ないんですよ」

「相手の男はもうすでにそういう仲なんですか……」

「ライト様宛に決まっているじゃないですか!」

「僕ですか……?」

弾かれたように正面に座るお兄さんを見れば、苦笑いを浮かべていた。


「えぇ。ヒスイに怒られるので、内緒にして貰っていいですか? あいつ、『舌の肥えたライト様のために絶品チョコを作る!』って、張り切っているんです」

「そうなのですかっ!?」

ヒスイさんがチョコ造り。

あー、可愛い。もう想像しただけで可愛い。しかも僕のためだなんて。


「ありがとうございます。教えて頂いて」

すっかり気分は晴れた。

窓から見える景色は吹雪いているが、僕の心は常夏気分だ。






――なんですかっ!? あの可愛い生き物は!!


扉を少しだけ開け隙間から覗くように室内の様子を窺ってみれば、そこにはなんとも愛らしい光景が広がっていた。

それは妻のヒスイさんが、エプロン姿でキッチンに佇んでいる姿。

うちには料理長やメイドがいるため、基本的に家事は一切必要ない。

そのため、結婚生活以来初めてその姿を拝見している。


か、可愛い……


手には何やら泡だて器を持ち、傍らにいるメイドのランに教えて貰いながら、ボールをかき回している。しかも彼女の足元には脚立が。

どうやら身長が不足しているらしく、昇らないとキッチン台が高めらしい。

それも仕方ないだろう。料理長を始めとして使用人が全員男。

そのため、基本的にキッチンの造りは男性の高さになってしまっている。

ヒスイさんは女性。その上、身長が低めだ。


「見て下さいアイリス! なんて可愛いんでしょう。これは写真に残さねば……カメラを持って来て下さい」

永久保存にしなければならない光景に、興奮が抑えられない。

そんな僕とは対照的に、冷静な声が降って来た。


「旦那様。お気持ちはわかりますが、写真は不可です。シャッター音やフラッシュで奥様に気づかれてしまいますので。決して見つからないで下さいね。奥様は旦那様に内緒で驚かせようとしているのですから。はぁ……どうしてイファン様は口を滑らせてしまったの? こうなるのがわかっていたから、みんな黙っていたのにぃ」

「わかっていますよ! あんなに小さいのに頑張って作ってくれているのですからね。あぁっ! 顔に小麦粉がっ! いつぞや見た白リスを思い出しますね」

「旦那様、声! 声! 抑えて下さい。お願いですから」

「えぇ。わかっています。わかっていますって。でも可愛いから、それが難しいのですよ。アイリス。写真を……」

「わかりました。後でお撮り致しますので、さっさとリビングにでも戻って下さいませ」

とアイリスに言われ、それでも渋っていたら担がれて強制退去。


……もう少し目に焼き付けたかったのに。




今日はいよいよ待ちにまった当日。

浮かれる気持ちが先立ち、仕事中もにやけてしまいそうになるのをぐっと堪えた。

執務室で論文を作成している時ならまだしも、研究室では人目がある。


「あぁ、やっと帰れます」

荷物を持ち建物から外へと出た。

するといつも通り、迎えの馬車が待っていてくれた。


辺りはすっかりと闇色。2月ともなれば、肌に突き刺すような風が身を切り裂く。

そのためいつもは寒さに震え、マフラーに顔を埋めるが今は違う。

気分が高揚しているため、体感温度が高めだ。

それもそうだろう。

可愛い妻と手作りチョコ。もう想像しただけで可愛いさが倍増。二倍だ。二倍。


――あぁ、早くヒスイさんに逢いたいです。


従者に労いの言葉をかけ、馬車に乗り込もうとした時だった。

「ライト様っ!」

と、イオに声をかけられたのは。


その声音がいつもとは違い緊張と怒りが含まれ、嫌な予感が過ぎる。

そのため「一瞬無視して乗り込もうかなぁ」という、悪魔が顔を覗かせたが、結局良心に負け振り返って彼を見た。


「今日はバレンタインなんです。妻と結婚して初めて迎える記念日なんですよ」

と、一応言ってみた。

だが、イオに首を左右に振られてしまう。


「存じております。日に日に顔がにやけていましたから。ですが、仕事のトラブルがありましたので、諦めて下さいませ」

「……滅多にトラブルなんて起こらないのに、よりによって今日ですか」

「えぇ。本当に。僕も予定があったのに。なぜよりにもよって今なんでしょうね」

「あぁ、そういえば貴方も恋人がいましたね。わかりました。伺います」

きっと同じ気持ちだろう。

一年に一度あるかないかのトラブル。

それがよりにもよってバレンタインの夜に起こるなんて。

しかも帰宅間際という、見計らったようなタイミング。


結局僕は白旗を掲げ、イオと今来た道を戻った。






「ヒスイさんっ!」

足早に廊下を駆け抜け、真っ直ぐ彼女がいると伺ったリビングへと向かう。

そして扉をぶち破る勢いで開き、息も整えず室内へと足を踏み入れようとすれば中に居た人々に睨まれてしまった。

それはアイリスをはじめとしたメイド達。彼らは対角線上にある壁際に一列に佇んでいる。


「旦那様。お静かに」

「え? あれ? ヒスイさんは?」

妻に逢いたいのに、姿が見当たらない。

もしかしてこの時間だから、もう自室で眠ってしまったのだろうか?


「上ですか?」

そう思う尋ねてみた。

だが首を横に振られ、視線でとある箇所をさされてしまう。

それは扉から少し進んだ場所にあるソファ。


――まさか。


ゆっくりと忍び足で近づけば、すやすやと寝息を立てている人が居た。

それは無防備にソファに横たわっているヒスイさんだった。

ふわふわのガウンを身に纏い、その上にアイリス達が掛けてくれたチェック柄の毛布が。

まるで天使だ。天使。このままずっと見ていても飽きない。


「さっきまで旦那様を待つと起きていたのですが、眠ってしまわれました。

奥様は朝方タイプですので、この時間に起きているのは……」

「そうですか。仕方ありませんよ。見て下さい! この可愛さ!」

頬を撫でながら妻を愛でていれば、アイリス達に「奥様が起きてしまわれますから、やめて下さい」ときつく言われてしまう。


「もう少しだけ触らせて下さい」

「いい加減になさって下さい。奥様は明日も朝からお仕事なのですから!」

「でも、こんなに可愛いんですよ! 我慢しろというのですか。なんて酷な」

「旦那様」

氷の一撃のように、僕にアイリス達の鋭い視線と声音がぶつけられた。


「わかっていますよ……」

渋々と手を離せば、くすぐったかったのか、ヒスイさんが身じろいでしまった。


――起こしてしまいましたか!?


自分で好き勝手に触っていたけれども、せっかく気持ちよさそうに眠っていたのを邪魔してしまい、

罪悪感がふつふつと湧き上がってくる。


「……ん」

ゆっくりと瞼が上がり、やがて澄んだ瞳とかち合う。

とろんとしたその表情もすべてくまなく目に焼き付けたい。


「だんなさまぁ?」

目をこすりながら起き上がると、ヒスイさんは舌ったらずの声音で僕を呼んだ。


「ごめんなさい。起こしてしまいましたね」

「大丈夫です……お帰りなさいませ」

「ただいま」

腕を伸ばしヒスイさんを抱きしめれば、眠っていたためか温かい。

あぁ、この体温が一番落ち着く。


「バレンタインチョコ作ったんです。食べて頂けますか?」

「えぇ、勿論」

「じゃあ、持ってきますね。……あの、旦那様?」

ヒスイさんの体に回して腕をなかなか外さないため、ヒスイさんは小首を傾げこちらを見つめている。

ぱちぱちと瞬きをしていたが、やがて僕の背に手を伸ばしぎゅっとコートへとしがみ付く。

そして胸元へとすり寄ってくる。

これは一日の仕事の疲れも吹っ飛ぶぐらいの威力だ。


「アイリス達に持って来て貰っては駄目ですか? お茶と共に」

「え? あの……」

ヒスイさんの視線がアイリスに向けば、メイド達は「畏まりました」と言いながらほほ笑んでいた。

でもきっとアイリス達もわかっているはずだ。

僕がヒスイさんを離したくないのを。


「何を作ったのですか?」

「チョコレートケーキです。チョコで薔薇も作ったんです。ちゃんと葉も色付きで! ランさんに教えて貰ったんですよ」

「それは楽しみですね」

嬉しそうに笑っているヒスイさんを見て、僕も顔が緩んだ。





おまけ


ヒスイ「旦那様辞めて下さい! ケーキの写真撮るの辞めて下さい。恥ずかしいです!」

ライト「駄目ですよ。これはきちんと写真に残しておかないと! 次はヒスイさんとケーキ一緒に撮りますよ!」


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