新婚さん
ブログより444企画の転載です。
「あ、もうそんな時間ですか……」
執務室へと響く業務終了を告げる鐘の音を聞きながら、僕は手元に持っていた書類を机の上へと置いた。そして両腕をぐっと天井まで伸ばす。
そうすることで急激に血流が良くなったのか、体が楽になっていく気がする。
長い間椅子に座っていたため、凝り固まってしまっていたのだろう。
「あぁ、早く帰り支度をしましょう。可愛い妻が待つ屋敷へ」
僕はそう呟くと机の上にあった写真たてへと手を伸ばした。
それにはホワイトタイガーの赤ちゃんを抱き上げながら、強張った顔をしたヒスイさんが写し出されている。
これはこの間デートで行った動物園で撮影された写真だ。
僕の執務室の机の上や専門書が並ぶ本棚には癒し空間として、このように妻の写真が飾られている。
「旦那様! 写真撮影しすぎですよ!」と怒られるが、その怒った姿すら愛らしくそれもフィルムに収めてしまう始末。
一時期僕とヒスイさんはメアの件で離ればなれになった事がある。
その時に思った。情けない僕を叱って欲しいし、女々しいって罵って欲しいと。
それなのに彼女は傍にいない。僕の世界から消えてしまったようで、気が狂うかと思った。
だから怒ってくれるぐらいに近くに居てくれる事がこの上なく幸せだ――
「ライト様?」
穏やかな想いに浸っていると、ノック音と僕を呼ぶイオの声が耳朶に触れ思わず体が固まった。
……まさかトラブルではありませんよね?
「どうぞ」
ほんの少しだけ居留守でも使おうかなと考えたが、そこは彼の上司としてぐっと抑え込み入室を促した。
「あぁ、良かった。いらっしゃった。これ、奥様にと思いまして。実家から送られてきたんです」
そう言いながら扉から入って来たイオが差し出したのは、何やらオレンジ色の布だった。
何かを包んでいるのか、丸みを帯びている。
小首を傾げながら彼に尋ねた。
「なんでしょうか、これは」
「これ、実家から送られてきたものです。胡桃ですよ」
「胡桃ですか……」
似合いますね。ヒスイさんに。
彼女ほど胡桃がぴったりな女性はいないだろう。
「ププルの胡桃は旨いって最近人気なんです。ライト様の屋敷、あの老舗有名店メープルの元パティシェがいますよね? たしか屋敷での名前はランさんでしたっけ? その人に奥様のおやつの菓子作りに使って頂こうかなと」
「ありがとうございます。菓子作ったら、イオにも持ってきますね」
「いいんですか!?」
「えぇ」
「嬉しいです。あの噂のパティシェの菓子が食えるなんて!」
イオは顔を綻ばせていた。
うちのメイドはそれなりにその世界では有名な人が多い。彼らは全員ワケあり。
第二の人生というわけではないが、屋敷で使用人としてのびのび働いてくれている。
「すみません。急いで帰る所だったんですよね、お引止めして」
「急いで……」
「もしかしてお気づきになられてませんでしたか? 毎日、競歩か!? というぐらいに足早にいつも帰宅されてますよ?」
言われて気づき、「え」と思わず呟いてしまう。
そうだったのか……
気持ち的には妻の元へと思っていたけれども、足早になっていたなんて。
「いいですね、新婚。羨ましい! 俺も『お帰りなさいませ、旦那様。お風呂になさいますか? お食事になさいますか? それとも私?』という新婚にありがちな台詞が聞きたいですよ」
そんな事非現実的な夢物語だ。ありえない。
僕はイオのその言葉にただ苦笑いを浮かべた。
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……えぇ、そうですよ。ありえませんって。
「旦那様?」
玄関の扉を開けてくれている従者が小首を傾げながら、こちらを見ている。
どうやらなかなか入らない僕を怪訝に思っているようだ。
「すみません、少しぼうっとしていました。ご苦労様」
労いの言葉をかけながら中へと入れば、可愛い妻の姿があった。
そしてその後ろにはアイリスをはじめとしたメイド達の姿も。
「ただいま、ヒスイさん」
彼女の姿を見ると、やはり心が締め付けられる。そして何か蝋燭のように温かみが広がっていく。
愛しい想いのせいか、足が自然とヒスイさんの元へ引き寄せられてしまう。
だが、それもヒスイさんから零れた言葉により、地面へと縫い付けられたかのように僕の体が動く事を放棄してしまった。
「お帰りなさいませ、旦那様。お風呂になさいますか? 食事になさいますか? それとも私?」
「は?」
イマナンテイッタンデスカ……?
きっと幻聴幻覚の類なのだろう。先ほどまでイオとそのような話をしていたから。
そうだ。きっとそうだ。これはあり得ない。妄想だ。
いや、もうこれが夢の中なのではないのか?
「あっ、やっぱり」
ヒスイさんはそう言葉をしゃべると、くるりとスカートの裾を翻し体を回転させアイリス達の方へと振り向いた。
「ほら、アイリスさん達。やっぱり言った通りになったじゃないですかー」
「え」
「アイリスさん達に一度ぐらい新婚の定番やってみては? というアドバイスを頂いたんです。でも、やっぱり旦那様は呆れてしまいましたね。ごめんなさい、旦那様」
「え、あっ……」
違います。違います。違います。呆れていたんじゃないです!
と口に出したいのに、上手く呂律が回らない。
妄想だと思っていたのが現実だったのだ。頭が状況についていけてないのだろう。
「私はリビングにおりますので、お風呂ゆっくり入ってきて下さいね。外寒かったでしょうから」
「あ、あの……」
チャンスの神様は前髪しかない。そう誰かが言っていたのは本当だったようだ。
ただ空しくヒスイさんの背を見詰めながら、右手が空を彷徨った。




