愛しているのは元婚約者?
……やばい。眠れなくなっちゃったよ。
私は布団の中で何度も寝返りを打ったり、瞼を開けたり閉じたりを繰り返していた。
明日に備えて寝ようと努力しているのだけれども、なかなか難しい。
眠気というのは内から湧いてくるものなので、いざ寝るぞ! と頑張っても無駄なあがきで終わる。
私が眠れなくなったのは、一緒に添い寝している「世界怪奇現象」という本が原因。
屋敷の書庫見学して、面白そう! って借りて来たんだけれども、どうやら読むタイミングを間違えたらしい。
寝る前に読んだら、怖くて眠れなくなってしまったのだ。
スラム街のような所に出入りしていたし、ニクスの件もあるから人間に対する恐怖などにはある程度免疫がある。だけれども、問題は姿の見えない物事に対してだ。
――カーテンの隙間とか、すごく気になるんですけれど。
このまま朝を迎えると、絶対に仕事に差し支える。
そのため私は安らぎを求めて隣の人を頼る事にし、起き上がった。
起きているかな……?
控えめにノックをしたけれども、返事がない。
そのため勝手に扉を開き、わずかな隙間を作りそこから覗けば真っ暗。
でも目が慣れているから何となく何が何処にあるかは線となり見える。
じっと見ているけれども、なんの反応もない様子から眠っているようだ。
――私にとってはまたとないチャンス。これなら布団に潜り込める!
「バレないよね……?」
私の朝は早いので、旦那様が起きる前に仕事行くし。
という自己完結をし、私は早速「お邪魔します」と部屋へ侵入。
そしてこっそりとライト様の布団に潜り込んだ。
そこは私が使わせて貰っている寝具よりも大きいため、端っこに寝ても真ん中で眠っているライト様にぶつからないし、結構距離がある。これなら寝返りを打ってもぶつかってバレることなんてない。
それに……堅さが私に馴染んでいる。ちょうどいい感じ。
実家で使っていたのよりも柔らかめだけれども、こっちの方がしっくりしてちょっと気に入った。
そのおかげで数分後、私はすやすやと眠りの世界へと誘われた。
習慣と言うべきか、私は朝が強い。
花屋で働いているためか、寝起きも悪くないし目覚ましも必要としない。
だから目が覚めたらすぐに起きて着替えられる。だが、今回は違った。
「……何、これ」
なぜか起きたら旦那様に抱きしめられていた。
おかしい。なぜ旦那様はこんな端まで寝転がって来ているんだ? もしかして寝相が悪いのか?
私が眠ってる場所は変わってもいないのに。
「あっ。鎖骨」
ちょうどお互い向かい合わせになるように横向きのため、目線の所に綺麗な鎖骨が。
だが、残念な事にほとんどがバスローブに包まれて見えない。
――見たい。触りたい。バスローブ邪魔。
よし! はだけさせるか! って、がっちり抱き枕のように抱きしめられているため身動き出来ない。
腕が動けば、鎖骨とご対面出来るのにっ!
って、ちょっと待て。それどころじゃない。仕事だ。仕事! 行かなきゃならないのいーっ。
やはり自力で逃れようとしたけれども、以外と無意識のためか力が強い。
「旦那様。旦那様。起きて下さい。もーっ! ライト様」
「メア……メサイア。お願いですから、もう少し寝かせて下さい…」
メア? 誰、それ? まだこの屋敷の使用人達を把握してないため、誰の事を言っているのかわからない。もしかしたら旦那様は朝が弱く、そのメアさんにおこして貰っているのかもしれない。
と思い直し、再度声を掛けて起こした。
「いや、私メサイアさんじゃありませんよ。ヒスイです。起きて下さい。仕事に行きたいんです」
「メア」
「いや、だからメアさんじゃないですってば」
再度体を動かしながら抗議すれば、ちょっと旦那様が身を捩らせた。
おっ、起きたか? と思ったけれども、駄目だったらしい。また、「メア」と寝言が。
「メア…愛して……いま……」
「は?」
それには、私は固まってしまった。
え? 愛してって、ええっ!? まさかメサイアさんって、旦那様のお付き合いしていた人――!?
*
*
「ねぇ、アイリスさん。メサイアさんって知っている? もしかしてライト様の元婚約者?」
なんとか力業で逃げ出し私は食堂へ。
二十人は座れるぐらいの長い食卓机に一人ぽつんと座り、テーブル越しで紅茶の準備をしているアイリスさんと、壁際で控えている老執事のロダンさんに尋ねてみた。
朝からアイリスさんのマッチョのメイドはちょっとインパクトが強いと思ったけれども、今日は男装? というか、白いワイシャツに、首もとには蝶ネクタイ、そして下は黒いズボンという普通に男性の格好をしている。
話を伺えばここのマッチョなメイドさん達はいろいろな格好をするみたい。
女装が好きな人も居れば、おネェの人もいる。かと思えば、メイド服はたまにで男性の格好メインの人もいるそうだ。未だによくわからない。
「……メサイア?」
その名を聞き、アイリスさんだけじゃなく、何があっても動じないロダンさんまで顔を引き攣らせ固まってしまっている。
「失礼ながら、奥様。何故その名を?」
一足先に戻ったロダンさんは壁側に控えていたが、すぐに私が居るテーブルの元までやってきて訊いてきた。その反応を見れば、どうやらアイリスさん達には認知されている事らしい。
使用人達が知っているということは、よく訪れていたのだろうか?
「ということは知っているんだ?」
「まぁ、ここの屋敷の全員が知っているわ。奥様がどこまで知っているかわからないけれども、
どうせ後でわかる事だから言っておきます。ここに住んでいたの。メサイア様は」
「あー。だから、あんな事言ったんだ。旦那様」
という事は、使用人? でも、敬称付けるってことは、血筋的に貴族か準貴族なのかな?
ハムをナイフで切り分けながら、私はぼんやりと考えていた。
「……旦那様が自ら口にした? その名を?」
酷く冷ややかなアイリスさんの声に、私は食事を止めアイリスさんを見つめる。
どうやら私は何か失言をしてしまったようで、アイリスさんは銀のティーポットを持ちながら、俯き小刻みに震えていた。
あぁ。もしかしたら、旦那様がデリカシーがないと怒っているのかも。
元婚約者の話なんて進んで話をする事もないだろうし。偽装結婚だから、そんな事微塵も考えてなかったわ。
「ごめんなさい。自分から聞いておいてなんだけれども、気にしてないので。ただ、誰だったのかが気になっただけ。はっきりしたので、すっきりしたよ」
「それは気になって当たり前ですわ。旦那様も別にわざわざ言う程の事ではないのに、どうして言っちゃうのかしら。ダメね。元よ、元。奥様は貴方様だけよぉ」
「仕方ないですよ。寝言ですし」
「は!?」
「えっ!?」
ロダンさんもアイリスさんも驚愕の声を上げた。
「まさか、寝言でメサイア様の名前を言ってしまわれたわけ? うちの旦那様は!? まさか、愛しているとかそんな事言ってないでしょうね!?」
すみません、アイリスさん。ポットを激しく揺らさないで下さい。
紅茶が……
零れだした液体は、真っ白なテーブルクロス上に無残に数カ所の水たまりと化している。
それを見ながら、クリーニング大変そうと思った。
「少し落ち着いて下さいよ」
「そこに触れないところをみれば、言ってしまったのね? 愛していると! なら落ち着けるわけないでしょう! まさか旦那様。未練があるなんていうんじゃないでしょうね?
なんでよりにもよってあの女を……ある日突然失踪したかと思えば、他国の貴族と結婚してました。
ってふざけた女なのよ!? 裏切られたというのに、そんな女の名前を寝言で口にするなんて」
旦那様の元婚約者の方って、そんな方だったわけっ?
そんな事があったなら、それは女性不信にもなりますよ……