元婚約者の影
「ん……――」
どうやらゆっくりと体を休めたためか、軽い。
しかも何故か身を横たえているのがあの冷たくて堅い縁なのに、羽毛のように柔らかく温かい。
その上なんとも言えない良い香りが漂ってくる。周辺に出店でも出ているのだろうか。
濃厚なワインソースと、オニオンとバターの香ばしい匂いが食欲をそそる。
あぁ、想像しただけで唾液の分泌量が! お腹が! と、思っていたら「ぐぅ」ってお腹が鳴った。
「この匂いじゃ仕方がない……」と呟きながら瞼を上げ、私は自然に眉間に力が入った。
それもそのはずだ。通り過ぎる人々も、空の青さも、出店も何もかもが無い。
箱の中――まさかの室内だったのだから。
よく見れば、自分がいる雲の上みたいな場所は、天蓋付きの寝具の上で。
しかも広い……大人はゆうに五人は寝られそうな雰囲気なんだけれども。
「ここ何処なんだろう?」
「あっ、起きました? 姉上」
「は? 姉上?」
その声に誘われるように這いずりながら左側へと向かい、天蓋をカーテンを開くようにスライドさせ、開けたそこを見ればあいつが居た。
天使のような外見を持つ、私の義理弟。
「ニクス! ……さま」
慌てて様を付ければ、「様は要りませんよ。貴方は姉上なのですから」と苦笑いされた。
彼は窓際近くにある一人がけソファに座り、膝に赤い装丁の本を置いている。
近くにはサイドテーブルが置かれ、そこにはティーカップが。
その様子から彼が読書をしながら、私が起きるのを待っていた事を推測。
もしかしてここは城なのかな? と思いながら寝具を降り、ニクスの元へと向かう。
「丁度起きる頃かと思い、軽食も用意致しましたよ。どうぞ?」
「え? 軽食?」
ニクスが手の平で指し示した先は、寝台より少し離れた所にあるテーブルやソファなどが並ぶ応接セット。そこにはあの香りの元が並べられていた。
オニオンスープに、子羊のワインソース煮、それからパンとサラダ。
あぁ、見ているだけで唾液が……
「食べてもいいの?」
「どうぞ。姉上のために用意したものですから」
「いいの!?」
許可が下りて助かった。
お腹空いていたから、何か胃に入れたくてしょうがなかったのよね。
匂いが食欲をそそって脳を刺激しているから、あれを見て食べられないって軽い拷問っぽいし。
「ニクスは?」
「僕はもう朝食を取りましたので」
「そう」
なら一人で頂こうかな……
私は席へ着くと、早速フォークを取りナイフを入れ食事を取った。
うぅ……涙が出そうなぐらい美味しい。軽食というには豪華な気がするけれども。
子羊のワインソースすごくこってりしているけど、ハーブの効果なのか尾を引かない。
パンも外はパリッとした食感なのに、中はもちふわ。
食事を取っていると、反対側のソファにニクスが私が座るのが目に入った。
「やっぱり、お腹が空いていたんですね。寝言でハムサンドとか、野菜のコンソメスープとか呟いていたそうですよ? ですから兄上が食事を用意しておけっておっしゃっていましたよ」
「……え? 兄上って、ライト様?」
思わずフォークが止まり、切り分けた肉の塊が皿へと戻ってしまう。
「いえ、イレイザ兄様の方です。なんでも城下町を巡回していたら、姉上を発見したそうですよ。あの辺りはスリが多いので、あのような所で眠るのは辞めた方がいいそうです」
「イレイザ様が巡回って、目立つじゃん」
披露パーティーで一度お会いしてご挨拶させて頂いたけれども、とても素敵な方だった。
白銀と青色を織り交ぜたような淡いブルーの髪に、中性的な顔立ちの人。
ライト様のお兄様にあたる方で、私にとっては義理の兄だ。
「それが魔術で容姿を変化させているので、一概にはわかりませんよ。それより、どうして早朝にあのような所で眠っていたのですか? まさか兄上と喧嘩でもしたのですか?」
「してな……い…かな」
言葉を濁しそう告げれば、顔を顰めたニクスと視線が合う。
「ライト兄様が何かしでかしたら、僕におっしゃって下さい。失礼な事はしないと思うのですが……
兄上は一度大きな婚約破棄をして失恋してしまった事があり、あれから尚更女性に対して挙動不審になる事があるんです。仮に姉上を傷付けてしまった可能性も捨てきれません」
「傷は付いてないよ。っつうか、あの人婚約者いたの!?」
そっちの方が驚きなんだけれど。
「えぇ。今はとある国の貴族と結婚し、この国にはいらっしゃいません。仲睦まじく将来はきっとと、思っていたのですが……それも過去の話ですよ」
婚約者居てあれなのか。それともその彼女には王子様モードだったのか。
わからない。あの旦那様を観察するにはまず時間が不足している。
「本当に兄上と喧嘩ではないのですか?」
眉を下げ今にも泣き出しそうなニクスに、私はこのまま誤解されても仕方ないとばかりに先ほどの出来事を話した。
世間話適度に聞いて貰えればと思ったのに、あいつは顔を引き締めちゃんと聞いている。
「――……そういう事だったのですか」
「そういうわけ。不安なのよ。居場所が無くなるのは。私と兄さんは血が繋がってないから」
「僕は血の繋がりがあろうが無かろうが関係ないと思いますよ。僕はごらんの通り、王族特有の瞳の色を受け継いでません。ですがちゃんと父上の息子です。これは遺伝子検査で証明されています。ですが、僕は不安が拭えませんでした。何を言われても上面だけだと信じられなかったのです。でも姉上に出会って少し変わったんですよ」
「私?」
「えぇ。自分の身を顧みず他人を助ける馬鹿みたいに真面目な人。そんな人がいる世界なら、少しは信じてみようかなって思ったんですよ。だから家族になって頂きたく、兄上との縁談を進めたのです。
僕の傍に姉上が居ればまた世界が違って見えるかもしれないと。ですから家族になれればよかったので、僕との縁談でも良かったのですが……その時になぜか兄上の顔が浮かんだんです。僕として姉上が好きで手に入れたかったので、どちらでもよかったのですけれども」
「はいっ!?」
改めて聞いたんですけど、その内情。
私は口元を緩めたままニクスをみていたら、あいつはクスクスと笑い始める。
そして肩を竦めると「意外でしたか? 結構本気で考えたんです」と悪魔的な笑みを浮かべた。
――この天使絶対に大人になったら、女の敵になる! 天然誑しだ!