偽装結婚の弊害
空は太陽が顔を覗かせ、闇を払い明るくなり始めていた。
どこかで鶏が夜明けを告げているが、まだ道端には人っ子一人いない。
昨夜は本当に忘れられない初めての夜を迎えた。
あれはきっと数年後も忘れられない出来事となるのは確実だろう。
えぇ、本当にいろんな意味で。
まさか早朝までの説教により、睡眠不足になるなんて思いもしなかったよ。
おかげで瞼が重いし、あくびが引っ切り無しに出る始末だし。
それでも重い足取りでやってくれば、もうすでに働いている兄さんの店に辿り着いた。
すでに店先には色鮮やかな花が種類毎箱内に敷き詰められ山積みになっていた。
これは早朝競りで購入してきた花々。
競りには兄さんが向かい、その間に私が花をすぐに生けられる樽を十数個準備したり、伝票整理したりとしなければならないためこれが花屋の朝が早い理由でもある。
さらにそこから今日の配達を確認しながら、オーダー通りに花を分けるという作業を全て開店前に行わなければならないのだ。
眠い……だが、兄さんにばかり仕事を任せるわけにはいかない。
多忙時期には二人で回らないため、アリーさんが手伝ってくれる時もあるけど、基本的にはいつも二人で分担して行っている。
「ごめん、兄さん。家がごたごたして遅刻しちゃった」
がらがらと引き戸を引きながら店へと入れば、ちょうど水を汲んだバケツを運んでいた兄さんと目がかち合う。兄さんはこちらを見ると、瞠目したまま危うく手からバケツを落としそうになってしまった。
「ヒスイ!? どうした? 今日は休んでいいって言っただろ。昨日結婚式なんだぞ?」
「ううん、平気。仕事やるよ。兄さん一人で大変でしょ? それに今日午前中に配達五件入っていたし。それより朝食食べた?」
ここへ来る途中、パン屋で兄さんの好きなクルミのサンドを買ってきた。
私も朝食がまだだったので、ハムサンドを。
荷物を持つ気力がなかったので、鞄に無理矢理詰めてあるから多少は型崩れしているだろうけど。
口に入れば一緒なはずだ。もし食べていたなら、昼に回せばいいし。
「あぁ、それはアリーが……」
「アリーさん?」
首を傾け兄さんを見遣れば、すぐ傍の階段から「イアン」と呼ぶ声と足音がこちらに近づいてくるのが耳に届いた。
――誰?
間もなく現れたのは、エプロン姿のアリーさん。
それを見て、私は何故だか咄嗟に目を背けたい衝動に駆られてしまう。
酷く心が騒然とする。泥濘に足を踏み込んだように、グラつく。
「あら、ヒスイちゃん! おはよう。もしかしてお店が気になっちゃった?」
「おはよう、アリーさん。うん、その通り。気になったから来ちゃったけれど、もしかしてアリーさん手伝ってくれるの?」
「えぇ。任せて! これから店の事いろいろと覚えていきたいの。ヒスイちゃんもいろいろ教えてね」
和やかに笑ったアリーさん。
それを見てやっと自分がどうして奈落の底に落とされるような気分になっているか、やっとわかった。
私は怖いんだ。自分の居場所が無くなるのが。
きっと近い将来、私の代わりに兄さんと結婚したアリーさんが店に入るだろう。
じゃあその時、私はどうすればいいの? 二人で回せるぐらいだから人手も足りるだろうし。
施設も実家だけれども、ここも実家だ。
十五になれば施設を出なければならないように、どちらにせよここも出なければならない予定だった。
それが早まっただけなのに……
――兄さんに必要とされなくなってしまいそうで怖い。帰る場所が無くなってしまうみたい。
恋愛結婚だったらば、愛する相手がいるから帰る居場所がある。
でも私達は契約結婚だ。私はお金を。ライト様はお見合いを断るため。
もちろんライト様へ好意はあるけれども、それはまだ愛や恋ではない。
きっと相手も同じだろう。これが政略結婚の弊害なのか。
血の繋がりがあれば、こんな風に及び腰にはならなかったのかな……?
「そうだわ! ちょうど朝食が出来た所なの。ヒスイちゃんも一緒にどう?」
「食べて来たから平気。それより、やっぱり休みにして貰ってもいいかな?」
アリーさんに尋ねると一瞬きょとんとした表情を浮かべ、その後私をのぞき込むと柳眉を寄せた。
一瞬顔に出てしまったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
「えぇ。それは構わないわよ。ねぇ、それよりヒスイちゃん。もしかして眠ってない? 目に隈出来ているわ」
「うん。ちょっと寝ていなくて。じゃあ、行くね」
今来た道を引き返そうと、振り返り引き戸に手をかければ、「ヒスイ」と兄さんに呼び止められてしまう。鈍く重い足を止め、私は振り返らずに尋ねた。
「何?」
「ならここで少し休んでいけ。顔色もあまり良くないぞ」
「そうね。ここで休んでいったらどうかしら? ヒスイちゃんのお部屋そのままの状態だし」
同意するアリーさんのその台詞にすら妬んでしまう。
「どうして貴方が言うの? 兄さんの家じゃんか」と。
私の心は睡眠不足と空腹もあって、どうやら相当余裕を無くしてしまっているようだ。
「大丈夫。帰れるわ」
「なら、少し待ってろ。送っていく」
「いいよ、兄さん仕事あるでしょ。私、寄る所もあるし」
と、告げると私はそのまま扉を閉め走り出した。
「気持ち悪い……」
店から北方向へしばらく進んだ先にある広場にある噴水の縁にて、私は身をだらしなく横たえながら瞼をとじていた。
まるで魂と体を切り離されたように、虚空の世界を彷徨っている。
でも、それは至極当然のこと。
ここまで来るのに空腹と睡眠不足で全力疾走したため、体が異常をきたしているのだ。
指一本動かせない。
普段なら一晩眠らないだけではこんな事にはならないのだけれども、昨日は結婚式とパーティーだった上に朝までのあのわけのわからない旦那様講習により、体が疲労してしまっているのが大きい。
――……ダメだ。少し寝るか。
私はしばらく体を回復する事に勤めるため、眠りの世界へと旅に出た。